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元港町昼食  作者: 白石 薬子
一章 春
17/20

元港町昼食【青流庵から流れる】七月の第四週

 カラッと晴れ上がった空の下でミライは待っていた。夏の日の下が好きだ。流れる汗も心地よい。

 麦わら帽子の隙間から見上げると、葉が光に透けて見える。片や建物はどれも陰を纏って、優しくうつむいている。夏は何もかもさらけ出して見える。閉じこもる冬とは違う。ミライは夏が好きだった。

 遠くからピンクの日傘が近づいてくるのが見える。その服に見覚えは無かったけれど、歩き方は見慣れた彼女のものだった。

「おまたせ」

 白いワンピースを着たカコとピンクの日傘、そのかわいさにミライは声を上げる。

「すごい、女の子っぽいじゃん!」

「まあ、たまにはね」

 カコの自慢げな声はミライもにまにまさせる。普段、ミライの方がよっぽどかわいいと言い張ってはばからないカコが、カコ本人のかわいさに自信を持っているときが好きだ。カコはかわいい。その自慢のピンクの日傘は、成績表のご褒美に父親が買ってくれたものだ。学期が終わるごとに、カコはいつもプレゼントをもらう。

「いいでしょ、これ。晴雨兼用でがっしりしてるの。子供が船にしても壊れないくらい頑丈なんだって」

「いいねえ」

「ミライも、麦わら帽似合ってるよ」

 ミライは鼻の下を擦ってみせる。

「あたしは、本来こんなんよ」

 麦わら帽子に茶のキャミソール。膝が見える汚れたジーンズがすらりとした白い脚を際立たせていた。まじまじと見てしまって、カコは口に手をあててつい目を逸らす。

「どしたの」

「なんでもないよ。ところで今日はどこ行く?」

「冷たいもの、食べたいねえ」

 それなら青流庵に行こうと話がまとまった。

「そんなわけで、これよね」

「これね」

 二人でサンダルを、脱いだ。真っ白なアスファルトは火傷しそうで、二人同時に声をあげた。背中からお尻にかけて滑らかなラインを描きつつある白い美脚の少女と、華奢で清楚な肢体をワンピースと日傘に隠した少女の綺麗な素足が涼を求めて灼熱の太陽の下を進みゆく。少しでもひんやりしたところがあったらそこに足を向ける。手を繋いで、足元だけをしっかり見続ける。ぺたぺたと歩くうちに、やがてひんやりと湿った黒い地面に辿り着いて、いつのまにかくるぶしを洗う沢になる。

「着いたね」

 カコが日傘をパチンと閉じると、目の前には小さな暖簾の下がった小屋に辿り着いていた。辺りから街は消え失せて、ただ目の前に青流庵の文字。

 土曜日の昼下がり。カコとミライは示し合わせて、こんな「あり得ない場所」で昼食をとる。


 沢の水はあいかわらず周りを流れていく。ゆっくりゆっくりと流れる水は、客席を避けている。乾いた石畳に足跡をつけて、カウンターに並んで座る。カコが麦わら帽子を膝に乗せると、髪をゆるく束ねた女が。

「いらっしゃい」と微笑した。

「麻辣麺」

「あたしも」

 青流庵は冷たい水晶麺が基本だ。汁の多いものではない。白い石を透き通るように削りだして、ピリッとした肉味噌に和えたもの。麻辣麺はそれに山椒の辣味を多く含んで旨い。ミライの注文に、にやりとするカコ。

「やっぱり私は坦々麺にします」

「え!? それならあたしも……」

「交換して食べればいいでしょ。私、両方食べたい」

 すました顔のカコは意地悪だ。ミライはいつもカコが食べているものが羨ましくなってしまう。自分が食べているものが失敗したような気になってしまう。だから同じものを頼んでいるのに。

 庵の外には沢があって、中には緑があった。まるで森の奥だった。厨房の女は、ぐつぐついう寸胴鍋に水をさっと撒く。水を煮るのだという。ここでは水には困らない。困らないからこそ、水を使う術が必要だと店の主は言うのだ。

「あ! あれ」

 不貞腐れた顔をしていたミライが、何かに気づいて川上を指差す。え? と振りかえったカコの目に見知った人が流れてくるのが見えた。流れを枕にぷかぷか浮きながらスケッチをするのは、絵描きの阿堂さんだった。ゆっくりゆっくり流れていく彼女は、二人の声に気づいてスケッチから顔を上げた。

「やあ、二人とも。みっともないところ見せちゃったね」

「どうしたんですか、こんなところで」

 カコが尋ねると、彼女は顔に垂れたソバージュをかきあげて。

「淵に落ちちゃったんだよ」

「落ちたらどうなるんですか?」

「堕ちていくのさ。流れに沿ってね」

 彼女は困った顔をする。

「まあ、あたしは堕ちるの慣れてるけれど。二人ともこんなのに慣れちゃ駄目だよ」

「気持ちよさそうですね」

 羨ましそうなカコに、阿堂は首を横に振る。

「あたしは流れ方も心得てるからね」

 徐々に徐々に二人から遠ざかり始める阿堂に、ミライが呼びかける。

「今度、アトリエに遊びに行きますから!」

「流れ切って、上向いたら葉書出すよ! それまで待って!」

 急に速さを増した流れの先で、欠けた女の絵ばかり描く女は叫ぶ。

「あたし今。

 壊した赤ちゃんしか描けないから!」

「相変わらずだねえ」

 彼女の絵が好きなカコは目を細めて、それから、大丈夫かな、と呟いた。

「身体壊したり、怪我したりしなければいいけど」

「大丈夫だと思うよ」

 ミライが遠くに目を凝らして眺める。

「あの顔は、何度も流れ慣れた人の顔だよ」

 こうしたミライの勘は当たるから心配しない。店の女も薄く笑って。

「ここはそういうのがよく流れてくるのさ。堕ちると判って流れてくる奴もいれば、判らず流されるままのもいる。まあそういうのはゴミだね」

 ほら、と指差す先にはバカでかい缶が浮いていた。

「まるで桃太郎ね」

 ミライの感想通り、缶には桃が描かれている、と思ったらそれは巨大な臀部の絵で顔を顰めた。下品すぎる。

「だからあなた達が悪いんですよ」

 と缶の中から罵る声がする。

「全部缶に閉じ込めておけばよかったんです。というよりも、缶に閉じこもるのがよいのです。そうすればどこにも迷惑はかけない。

 歴史を学びなさい! 過去が全て悪いんです。だから未来も無い!!」

「しかしそれはですね」

 どこかで聞いたような声がしてミライとカコは顔を合わせた。つい先月、あまりよくない記憶と共にある。

「やはり爆発してしまったものはしまったものですし。そもそもあの缶詰館を作ったのはアメリカで前政権なのです」

「それを動かしたのは、あなたの責任ですよ」

 泣きだしそうな表情で抗議する人を、ブルドッグみたいな男がせせら笑う。

「あんたがあぐらをかいてたのが悪いのだ。そのせいで皆の座りが悪いのだ」

「私は悪く無い。悪いのはあなただろう、この泥鰌犬が! 泥に隠れて逃げてたと思えば、強い奴には尻尾を振って。あんたが缶詰館を移転させたりしなければ……」

「これでいいのだ」

 唸る姿までブルドッグのようだと思ったら、本当にブルドッグで驚いた。けれど尻尾はにょろりと生えて掴みどころの無い黒いもので、右に左に動めている。と思えば、そのうちもう一人はあぐらをかいて無理やり場所を占領している泣きだしそうな牛頭鬼である。翼を広げて目をきょどきょどさせている者もいるかと思えば、もう一人の男は明らかにあの缶詰館の館長だ。けれどきっと、姿こそ人であって人で無し。全く別のものだろう。目を逸らして見ないようにしていたカコとミライだが、二人に気づくと缶中の四人はにこにこ顔で手を上げた。

「缶詰は三年後に熟成して食べごろです! どうぞお召し上がりください!」

 声をかける牛に、館長が囁く。

「あのですね。あの二人が熟すのは六年かかるのであります」

 わいわい騒ぎながら行く缶詰の船が、急に流れを増して滑り落ちていく。カコが言う。

「牛と犬と館長と、それから鳥、乗ってたね。あれ、何に見えた? サギ?」

「そんな白く無いよ。鳩だね」

 ミライが素っ気なく言った。

「空飛ぶネズミだよ。餌をやる人の気がしれない。糞害も酷いし、ネズミ同様、中世ではペスト流行の原因だってさ」

「ミライは鳩に恨みでもあるの?」

 カコが尋ねると、うちの店の前に餌撒く人がいるのよ、と憤慨した答え。

「ほら、うちの店先ってちょっと開けてて、休めるようなベンチがあるじゃない? だからさ」

 そこに座って鳩に餌を撒き喜んでいる人がいるのだという。おかげで店先はその糞で汚れる。鳩に撒かれた餌に鴉まで寄ってきて非情に迷惑なのだと。毎朝掃除するのはミライの役目だというから怒るのも当然か。

 ミライの家は両親ともにデザイナーで,、小さなお店はその作品の発表場所にもなっている。二人とも背が高く、モデルみたいだ。

「そういえばミライ、背が伸びた?」

「うん。新しい服用意しないとね」

 よく見ればミライの顔は、初めて会った時よりもほっそりした気がする。首元もすっきりと伸びて大人びて見える。きっと美人になるだろう。ミライがかわいいから美しいに変わるその瞬間を見逃すまいとカコは思っている。それが親しい友人への敬意だとカコは思っている。

 そのミライの視線の先には店主が持つ白い石がある。女の美しい手が、器の水を掬いあげると、白い石をすうーっと撫でる。撫でると石が薄く削れてするっと煮える鍋に落ちる。次々と石が薄く長く削れていく。石は固いのに、削れたものは紙のように柔らかく見える。すくい取った水で石を削っているのだ。沸騰する湯に踊る石の白い麺。頃合いを見て女は手を入れると、茹った削り石を取り出した。熱そうである。けれど火傷したように赤く変色したりはしない。さっき削った白い石のようにつややかで美しい手だった。くたくたになった麺を水にざっと浸すとたちまちに冷える。石麺にコシが出る。女が歌うように言った。

「智に働けば流される。情に棹さしゃ角刺さる」

 それから麺を丼にあけ、肉味噌をそれぞれにかけた。カコが声を上げる。

「逆じゃないですか? 智に働けば角が立つ、情に棹さしゃ流される、で」

「頭でっかちは理屈に流されて、情が棹に刺されりゃ痛かろうよ。意地も通さにゃ行き詰る。どれもこの世の住み心地。

 ここは流れの真ん中なのさ。

 はい、お待ちどう」

 いただきます、とカコとミライはそれぞれ丼を取る。ひらひらした麺は石の冷たさがあって、唇に柔らかかった。ミライは啜り込む。山椒のびりびりした痺れと辛味が心地よい。カコはゆっくりと噛む。くきくきした歯ごたえが楽しい。うどんより腰があって、けれど内側の頬肉を切るほど鋭くは無い。

 風が吹く。木々がささーっと歌って、二人は麺を啜るのを辞めない。

 風が強くなる。ミライの髪がばさっとうねって、うるさそうに彼女は顔にかかった長い髪を払った。

 と。

 カコの日傘が倒れる。倒れて流れる沢の水にゆらゆらと揺れる。

「あ。ごめん」

 拾おうとしてミライが腰をかがめて日傘の柄を持つと、途端にピンク色の世界がぱっと花開いた。途端にまた、風。

「あ」

 開いた日傘に引っ張られて、ミライがたたらを踏む。

「ミライ!」

 丼を置いてカコが思わず立ち上がる。ミライはこらえて、こらえきれなくなって、日傘は裏返って着水する。勢いに引っ張られてミライは日傘の舟に乗っかってしまって。

「わあ」

 ゆっくり流され始める。カコは追う。とんとんと石を踏み、跳んで、飛び込む。傘は揺れて、けれど頑丈で沈まなかった。

 流れにはいろんなものが浮いてくるくる回っている。右巻き左巻きの葉の渦は見ているだけで目が回る。

「流されちゃ、まずいんじゃない?」

「まずいかな、やっぱり」

 二人で日傘の柄を握っていると、誰かの声が聞こえた。

「流されるがいいよ。流されてもいいのよ」

 顔を上げると、巨大な海賊船が川を流れて行くのが見える。その舳先でグーテンベルグ古書店の老女が髑髏の帽子を振って笑う。

「流れて流されたってさ。

 その先には海があるんだから」

 でも。

 そんなこと言ったって。

 巨大な船の波が日傘の舟を再びくるくると回した。

 この川はどこに向かって流れるのだろう。青流庵にいたときは気づかなかった、流れ落ちる誰かの姿が、川の奥に手前にちらほら見える。遠くに、深く考え事をするような午睡茶房のママの姿が見えて消える。

「これからあたしたち、二人で堕ちるのかしら」

 ミライが囁く。

「流れがどんどん速くなってる。ドキドキするよ」

「これ、子供が船に出来るくらい頑丈だから、大丈夫よ」

 鼻の上に眼鏡を乗せ直してカコが応えると、ミライは「あたしたちは子供なの?」と言った。

「いつまでも清らかでは、いられないでしょう?」

 カコはミライの手を、ぎゅっと握って頷いた。ただそれは、ミライの問いに応えた行為ではないのだが。

 絡めた指に気持ちが落ち着いて、ミライも頷いた。

 あとはただ流れに身を任せるだけ……。


 元港町のお昼のドーンと聞こえた途端、日傘がぐるん、と返ってカコとミライは水をかぶる。頭からなおさらさらと水をかぶるので顔を上げたら、公園の大噴水があった。あとはただ青い空。蝉の声。

「なるほど」

 カコが眼鏡を外して顔を振る。

「子供に相応しい場所だわ」

 水面を滑って行く日傘を拾うと、ミライはぶんっと振って水を切って何か思い出したらしく、ああ、と呻いた。

「麦わら帽子、忘れた」

「落としたの?」

「違う。青流庵に忘れた。もう取りに戻れない」

「え!?」

「三百円だったから、平気」

 二人で手を繋いで、噴水から上がる。服が水を吸って気持ち悪い。カコのワンピースなど身体にぺったり張り付いて足元にまとわりつく。二人で草を枕に寝そべって息をつく。こうして寝ていれば、服はすぐ乾くだろう。

「ねえカコ」

「ん?」

 坦々麺食べたかったよ。

 濡れた髪をかきあげながら拗ねたように言うミライに微笑して、カコは眼鏡を外す。

「私もミライの食べたかった」

 ミライは誘われるようにゆっくり身を起こすと、カコの顔に顔を重ねる。くんくんとにおいを嗅いで。

「カコから、幽かに、坦々麺のにおいする」

 そういうミライの唇からは清らかな水のにおいがして、カコは思わず瞼を閉じた。

 風が吹いて水面を揺らす。噴水からまた勢いよく水が噴き出す。

 少女の鼻先と鼻先が触れそうで触れない。

 そのときミライが置き忘れた麦わら帽子が、風に流れてきて。

 二人の頭上で、清濁合わせ飲む黒い影を作る。

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