元港町昼食【終業式あとの喫茶店】七月の第三週
「起立、礼」の号令が済むと、いつもより少し多い荷物を持った生徒達が教室の戸から出ていった。来週から夏休みになる。追いだしのためか教室のクーラーは止められて、代わりに窓が大きく開け放たれた。窓に遮られていた蝉の声がひと際大きく聞こえる。
「蝉、鳴きだしたね」
毛海楽衣は鞄の中から包みを取り出して窓際の机に置いた。赤地に白ドットのハンカチを開くとこれまた赤白の小さなお弁当箱が現れる。中身はソーセージ、玉子焼き、ブロッコリーをおかずにした簡単なものだ。芦田和歌子は自分のお弁当を開いて。
「からあげあげる」
と大振りのからあげを一つ取って、ゴマの振ってある楽衣の白米に乗せた。
「港さん、いつも多めに作るんだから」
「男の子のお弁当みたいね」
「多すぎるのよ」
いただきます、と楽衣は和歌子に手を合わせてからあげを食べる。港さんは芦田家の家政婦さんだ。綺麗な人で離れたところに娘が住んでいるという。二人より少し年上らしい。楽衣や和歌子の母親より若そうな人なのに、自分達寄り年上の子がいるなんて不思議だった。
噛むとしっとりと肉汁が溢れる美味しいからあげだ。自分でも一個口に含んで咀嚼したあと、和歌子は迷惑そうに。
「残してもいいって言うけれど、そうはいかないでしょ」
「美味しいものね」
和歌子のお弁当箱にぎゅうづめにされているミニトマトをつまんで、楽衣は口に入れる。眉をぴくっと動かしただけで和歌子は何も言わない。ただおむすびからラップを取って別に用意されている味付けのりをくるりと巻いた。
「はい」
「あたしに!?」
「言ったでしょ? 港さん、お弁当の量多いのよ」
喜んで受け取る楽衣に、心なしかうんざりした顔の和歌子だった。おにぎりはあと三つある。さすがに一人でこんなには食べられない。おにぎり一つでお茶碗一つ分はありそうなのだから。改めて自分の分のおにぎりに手を伸ばした時、窓から急に声が聞こえて、楽衣と和歌子はギョッとした。
「なにそれ、美味しそう!」
顔を向けた先には『 』倶楽部長が逆さまになって教室を覗いていた。顔にはロングヘヤーが中途半端に巻きついていて怖い。ミライが顔を顰めた。
「スカートめくれるんじゃないの?」
「大丈夫。下に短パン履いてるし」
明るい笑顔でぐるんとひっくり返ると、『 』倶楽部長は壁に立つ。見れば腰回りにロープが巻いてあった。おそらく屋上の手すりにロープを結びつけて、ここまで下りてきたのだろう。
「なんでまたこんなことしてるの?」
カコの質問に『 』倶楽部長はニヤッと口をゆがめる。
「最近ちょっとアニメはまっちゃってさ。そのアニメってさ。主人公とかワイヤー壁に刺して、ワイヤーを巻き取る力で空をびゅんびゅん飛ぶのね? 私も出来ないかなあって思ってさ」
ただ下りてきたわけじゃ無いわけだ。確かにロープ魔術を使える彼女なら、これ一本で校舎の何階でも移動可能だろう。けれどその理論だと、ロープを身体に巻きつけたりほどいたりしながら上下することになる。
「ヨーヨーみたいにならない?」
「そうなのよ! ナナコったら下で真っ青な顔してたわ。ちゃんと保険かけてるのにね。で。
あ」
身体を器用に振って回って、隣の窓から教室に入ろうとしたところで『 』倶楽部長は足を滑らせた。慌てて二人で窓の外から身を乗り出すと、くるくる回りながら落ちていく長い髪と細い手足が見える。回転にスカートはめくれず、やがて彼女は地べたに顔から落ちた。
「死んだ」
ため息をつくと楽衣は椅子に座りなおしてソーセージを口に運び、またため息をついた。カコは窓の外にぶらさがったロープを持って。
「引き上げた方が、いいー?!」
と呼びかける。下からは素朴な返事がある。同じクラスのイトチューだ。
「何やってるのー?」
「お昼食べてるー。今日はおべんとー」
「あたしたちも、いくー!」
重力を操る能力のイトチューが手を振ってロープにつかまった。おそらく『 』倶楽部長が落ちた瞬間、イトチューが重力を操ったのだろう。その結果、地面との追突のダメージはほとんど無かったようだ。泣きじゃくる『 』倶楽部長の服の埃を落としているのは『 』倶楽部書記のナナコさんだ。こちらを見上げると口に手を添えて呼びかける。
「あたしは階段で行くから!」
なるほど、それが一番堅実だ。楽衣に手伝わせて、和歌子はロープを引っ張り上げる。二人がかりで引くロープの手ごたえはほとんど無くて、無事にイトチューと『 』倶楽部長は教室に着く。
終業式の昼下がり学校に居残って、こんな騒がしい昼食をとる。
「夏休みも二人は土曜日に一緒に食事するの?」
イトチューがおにぎりを食べながら尋ねる。中身はシャケだ。彼女の素朴な質問に楽衣は頷く。
「別に強制じゃないけどね」
「美味しいもの食べられるのよね」
さっきの泣き顔もどこへやら。『 』倶楽部長の好奇心あふれた瞳に、そんなんばかりじゃないよ、とカコは苦笑する。
「たまに酷い目にもあう。ほら、柏餅とか」
「ああ、そんなこともあったね」
あっけらかんとして、和歌子のからあげをつまむ。ナナコさんは遠慮して食べない。
「よかったら半分食べない?」
イトチューは食べかけのおにぎりを半分にしてナナコに手渡す。ほろほろと崩れかけた部分を海苔で抑えてかぶりついた。おさげ髪で黒ぶちの眼鏡をかけたイトチューもかなり自由な子だ。そういえば、と楽衣が思い出したように尋ねた。
「イトチューは夏休みも、あのエレベーターでバイトするの?」
「まさか。まったりすごします。
みんなは? 夏休みどうやって過ごす?」
「私達は倶楽部があるからなあ」
「木場鳥さんの下で『郷土研究』倶楽部する予定なんです」
『 』倶楽部長とナナコさんの言葉に、楽衣はあの探偵の姿を思い出す。シルクハットと燕尾服を着た謎の人。蜘蛛先生を「脚多」と呼ぶ唯一の人。ああ、木場鳥さんね、とイトチューも知っていた。イトチューがバイトしていたエレベーターは木場鳥探偵の住むビルだ。知っているとすればそのせいだろう。
「ねえ。蜘蛛先生の本名って知ってる?」
楽衣がためしに聞いてみたら。
「蜘蛛先生は蜘蛛先生でしょ」
と『 』倶楽部長は変な顔をした。その後にんまりして。
「今度一緒に星座観察に行くんだ。二人っきりで」
「ナナコさんは行かないの?」
楽衣が尋ねると和歌子が冷ややかな視線を送る。なんでこの子こんな余計なこと聞くのかしら。ナナコさんは平坦な声で答えた。
「あたしも行きます」
「ああ、うん、そう、ナナコも行くんだよ。私とナナコはセットみたいなものだから数で数えて無いんだ。ごめんごめん」
全く悪気無い調子で笑う『 』倶楽部長にナナコさんはそっと目を伏せる。和歌子は鼻で笑う。
「二人とも仲いいわ。まるで木場鳥さんと蜘蛛先生みたい」
「え?」
『 』倶楽部長と楽衣の顔が強張った。和歌子は気にしない。指でからあげを二つに裂いて、半分をナナコさんの口に運びながら言う。
「あの二人の結びつきも固いみたいだし。まるで恋人、ううん、恋人以上に見えるかもね」
「ちょっと和歌子!」
楽衣が頬を赤く染める。突然何を言い出すのか、和歌子は。とっさの出来ごとに言葉が出てこない楽衣の代わりに、笑顔でイトチューが。
「あの二人同級生だもんね」
と言った。さりげないイトチューのフォローに、『 』倶楽部長の強張った表情が安心したように緩んだ。
「ああ。そうだね。それなら確かに結びつき固いわ。私とナナコみたいにね」
「私、あの人のああいうとこ厭だわ」
和歌子が渋い顔をするので、楽衣は苦笑した。
「『 』倶楽部長もそんだけ蜘蛛先生のこと好きなんだよ。周りが見えなくなるくらい」
「自分の都合で相手を振り回すのなんて、最低よ」
弁当をつまんだ三人がお礼を言って教室を出た後、和歌子と楽衣はお昼を再開する。三人はこれでロープで飛ぶ訓練を一端終えて、一緒に炊き込みご飯を食べに行くのだそうだ。
「いいお店を教えてもらったので、誘いました」
淡々と言うナナコさんの頬が微かに朱に染まる。そのお店の名前は言わなかったけれど、和歌子も楽衣もどこだかすぐにピンときた。お茶だけでも一緒にどうですかと誘われたけれど断った。今、貝気楼には行きづらいい。
静かな食事が終って、弁当箱を片づけて、何も無い机の上で互いを見合う。
和歌子が小さく言った。
「本当に。学校が終ると、この瞬間が切なくなる」
それは楽衣の心の中そのままだったので、楽衣も微笑した。
「そうだね」
そのまま、また来週、と別れてしまうことは容易い。毎週土曜日に奇妙な昼食を取ることが出来る、それは二人に与えられた不思議な巡り合わせだけれど、しなければならない義務でもない。だから別れの言葉も「二学期にね」だって、全く問題は無いのだ。去年の夏休みの前、まだ関係がぎくしゃくしていたときはそうやって別れた。
久しぶりに二人だけで食べる昼食。特別なことなんて何も起こらない、二人だけの食事を終えて和歌子が観念したように。
「また来週ね」と言った。
「うん。また来週」
二人で鞄を肩にかけて教室を出る。がらんとした廊下と昇降口を通り抜けて、運動部の活動が始まってにわかに騒がしくなった運動場に背を向ける。
「それにしても、暑いね」
「そうだね」
なんとなく一緒に並んで歩いて、いよいよお互いの家に向かおうとするその時、楽衣が足を止めて言った。
「ちょっと、お茶飲んでいかない?」
「え?」
「アイスティー飲みたい。午睡茶房でちょっと涼んでいこうよ」
楽衣の提案に和歌子は花が咲くような笑顔になった。
「いいよ。行こうか、ミライ」
手を繋いで二人で食後のお茶を飲みに行く。飽きるまでおしゃべりをするために。
合唱するにはまだ足りない蝉の歌がところどころで聞こえる。
午後を告げる元港町の空砲が、青い空に轟く。