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元港町昼食  作者: 白石 薬子
一章 春
11/20

元港町昼食【キリコのアトリエにて】六月の第三週

 『アドウ ナシエ デザインワークス』と表札にある。

 青空団地の三階にあるこの部屋は、入室にブザーを押す必要が無い。開けっ広げに開いていて、深夜になっても閉まらないという噂もある。中に入ると、何もさえぎるものが無くまるまる見渡せてとても広い部屋に見える。彼女の住居、兼、アトリエだ。奥の方に青空団地特有の変わった仕掛けがあって、カコとミライは気まずそうに目を合わせた。

「よう、お二人とも、上がってよ」

 阿堂さんの声に促されて、二人は部屋に入って行く。備え付けの下駄箱は蓋が外されて、小さな絵画ギャラリーになっている。鉛筆画に単色で色づけされたものが小さな額縁に入っているのは、いかにも商品って感じだ。かわいい。305号室は土足で上がることになっている。畳は取り外されて、一部をベッドに改良してある。ちなみにベッドが置かれているのは青空の部屋だ。

 白を基調にして壁という壁をぶちぬいた部屋や家具に、一つ二つデッサン人形が飾られている。スチールラックの本棚にも、食器棚にも、居ないのは風呂場とトイレだけだった。小人の国に来たみたいで楽しくなるね、とはカコの談だ。デッサン人形にイメージを重ねて絵を描くの、と阿堂さんは言っていた。別の世界を幻視する時、余計な表情は邪魔になるのよ、と。

 真っ白なカンバスを背に阿堂さんはカコとミライを見つめている。大きな目だ。眼鏡も大きい。長い髪をひっつめて、だぼだぼのサロペットパンツだけ着ている。首回りには大きめの白いタオルが巻かれている。これが彼女の作業着なのだ。デニム地のサロペットはわざとつけられた傷が無数にあって、彼女の肌がところどころ覗いている。その下には何も着ていないことを二人は知っている。その方が動きやすいのだとか。

 屈託の無い表情で阿堂さんは言った。

「久しぶりだねえ。お腹空いた?」

「はい。後、阿堂さんの絵を見に」

 カコは彼女の絵が好きなのだ。

「中々遊びに来れなくて、すいません」

「なに、謝ることは無いよ。ミライちゃんが見ても怖がらない絵も、描くようにしてるよ」

 自分に話を振られて、ミライは微妙な顔をした。確かにミライは阿堂の絵が苦手だ。阿堂の絵は、粉砕された女の絵ばかりだからだ。と言っても、ミンチになったグロテスクなものとかではなく、石膏像のように滑らかで、果物のように柔らかい四肢がばらばらにあるいは絡みあっている絵だ。分断された女の絵は妙な怖さがあって、ミライはちょっと好きになれない。それにあまり上手とも思えない。構図もバランスも不安定な気持になる。けれどそれが結構な高値で売れているというから驚きだ。ファンもいるらしく、けっこう高値で売れているのだとか。ペンで以て描かれて、薄墨もしくは単色でさっと色づけられた阿堂さんの絵は、確かに静かな迫力がある。好きになる人は、好きになるのかもしれない。そんな彼女がカンバスを用意するなんて珍しいな、とミライは思った。でも、もしかしたら絵画教室用のものかも、と思い返す。

 耽美的、かつ女的、と評される阿堂本人は、気さくなお姉さんである。週に一度、絵画教室の講師もやっているらしい。団地の裏庭の青空菜園で、近所の農家の人と野菜を作っていたりもする。

「実はトマト、たくさんあるんだよ。これで、食事にしよう。ソースはキリコが作ってくれてあるから、平気だよ。

 さ、キリコ、お昼お願いね」

 阿堂さんはデザイン人形をキリコと呼ぶ。とたん、顔の無い木人形達が立ちあがって、コックコートを身につけ始めた。これからこの人形達が、三人の食事を作ってくれるのだ。

 土曜日の昼下がり。カコとミライは道草をして、こんな「あり得ない部屋」で昼食をとる。


「ほら、これなんかどう?」

 待ち時間の間、三人は青空の部屋で歓談する。折角来てくれたんだから、青空の部屋で待とうと阿堂さんが言うのだ。ガラスの椅子にガラスのテーブル。遠目から見たら、きっと三人が空気に腰かけていると思うだろう。注意深くスカートを抑えて腰かけた二人に、阿堂さんが作業台から一枚絵を持ってきた。

「花なら、ハズレないでしょ。これ。どう?」

「あ、はあ」

 ミライの笑顔が曇る。A3くらいのケント紙に描かれているのは、鉛筆画の椿だ。花弁の一つ一つが淡く濃く柔らかく描かれて、確かに力作。しかし。

「暗いですね」

「私はこれ、いいと思う」

 素っ気なくカコは言って、椿の絵を引き寄せる。厚ぼったい花が幾重にも重なって、アスファルトに落ちたふうわりとした柔らかさを表している。白黒なのに色まで見えそうなほど豪奢で、落ちた花の誰も口が聞けないくらい静謐だった。ミライは言う。

「なんかこの絵、生きて無いみたい。生きて無いのに生きてる感じ」

「活き活きしてるってのとは違うけれど、線とか鉛筆の使い方とか、すごいいいと思う。生きて無いってのとは違うよ」

 ムキになって言うカコと渋い顔をするミライ二人を見て、阿堂さんは面白そうな顔をする。

「絵の感性は、ミライちゃんの方が鋭いかもね。ミライちゃんの指摘は、あたしが嫌いな自分の部分だから」

「わ、私のは?」

「カコちゃんは、描く人の側に立った見方ね。あたしのファンだから、それでいいと思う」

「どういう意味ですか?」

 傷ついた声でカコが言うので、阿堂は少し考え込んで、天井を見た。つられてミライも思わず上を見ると、透き通った天井から、男の人が歩く足の裏が見えた。その更に上には誰も居ない棚だけの部屋、その更に上も。それから透明な屋上の上に、名前に恥じない青空が。何階でも青空が見える、というのがここの売りなのだ。そして拗ねたカコが目を伏せた足元に、女の人がこちらを見上げているのが見えた。彼女はこの部屋を、洗濯物を干す部屋と決めているようだ。確かに屋上まで透明なこの部屋にはちょうどいいかもしれない。椅子に座っているから見えないはずなのに、カコは思わず制服のスカートの裾を直す。目が合った女性は気まずそうに目をそらして隣の部屋に向かった。

 青空団地は、こんな青空の部屋がある。一室だけ、天井も床もガラス張りの部屋があるのだ。なんとなく落ち着かずもじもじする二人に、阿堂は、そうねえ、と言う。

「相手が何者か、気づいていて選んでいるのがミライちゃん。気づかないまま好きになっているカコちゃん、かな。そしてミライちゃんは素直過ぎて、カコちゃんは頭が良すぎるの」

「え?!」

 阿堂の「素直」という評価に皮肉を感じて、ミライの顔が引きつる。画家はその変化を軽く無視して椿の絵を受け取り、片づけるために立ち上がった。二人も急いで立ち上がって、阿堂の後を追う。

「なに? 椅子で待っててもいいのに」

「いえ、もっと他にも見せていただきたくて」

 カコが熱心に言う。あの場所が落ち着かない、とは、ここで生活している人にはとても言えない。それに阿堂の作品を他にも見てみたかったのは確かだ。けれど阿堂はそんな心境はすっかり見抜いているようでふふふと笑うと。

「シャボンエレベーターの時は、四方透明でも平気だったのにねえ」と言った。

「え?」

「カコちゃんたち、四月の四週目に、シャボンエレベーター乗ってたでしょ? あれだって下からも上からも丸見えだったのに、どうしてここはダメなの? アトラクション感覚で楽しめばいいのに」

「あ、あれは、小雨も降ってたしみんな藤を見てたし、って、阿堂さん、居たんですか?!」

「うん。モデルとね」

 さらっと応えてから微笑して。

「二人とも池の中にどんどん沈んでったよね」

「阿堂さん」

「ずいぶん仲よさそうだったじゃない。上からでもよく見えたよ」

「あの……」

「深水寺って、水きれいだものね。底の方までよく見える」

 顔を真っ赤にしたカコを、阿堂は面白そうに眺める。

 ガス台からは煮詰めたトマトのいい香りがする。コック服を着た人形たちが、手際良く作業を進めている。

「ん? ちょっと待って」

 手を振って呼びかけてくるキリコの側までいくと、煮えている鍋からスプーンで一匙とって舐める。

「いいんじゃない? 塩味もちょうどいいよ」

 と囁いているのが聞こえる。キリコには顔が無い。味見は阿堂さんの仕事なのだ。

 ミライは大きな作業台に足を運ぶ。ペン画を主体にする阿堂はいつもここで作業している。ちょっと覗きこんで、はっと息を飲んだ。ペンや鉛筆、ボールペンが差し込まれている缶や、定規、絵の具に混じって絵があった。ミライが阿堂に呼びかける。

「阿堂さん、これ、いいです!」

 トマトの水彩画だった。

 籠に収められた、真っ赤なトマトが淡い色調で描かれている。ぱっと見、瑞々しく、美しい。側にトマトの茎と葉が描かれていた。ん? と振りかえって阿堂がやってくる。

 平たい声でカコが言った。

「でもこれ、阿堂さんが描いたのじゃありませんよね」

「いや、あたしが描いた」と阿堂。

「あたし以外の視線から描いた、トマト。他人の目のトマト」

 それからイーゼルに立てかけてあった白いカンバスを置いて、壁に立てかけたカンバスとりかえた。

「それで、これが、さっき言ったモデルさんの絵」

 二人とも、はっと息を飲んだ。椅子に座った裸婦だった。色は白黒で、けれどどこも欠けていない綺麗な女性の絵だった。そしてその背景は、あの上下が透き通ったガラス張りの部屋だった。青空団地の、青空の部屋。ガラスだけが薄く青く彩色されていて、透き通った先に階下階上の生活がほの見えた。モデルさんは、カコがどこかで見たことがある顔だった。誰だったろう。眉を顰めて見つめるカコに、阿堂さんは説明する。

「彼女を実際描いたのは、こっちのアトリエだよ。下からは椅子で隠れるけれど、上からは隠れないからね」

「これも、いいと思います。あたし、この絵、好き」

 感心したようなミライに、阿堂さんはため息をついた。

「うん。あたしもいい出来だと思う。でも、この絵にはまだ何か足りないんだよ」

「なにがです?」

 カコが尋ねると、彼女は首を横に振った。自分でもそれが何だか判らないようだった。


 アツアツのマルゲリータピッツァが運ばれてくる。カプレーゼにポモドーロ、カツオのフライトマトソース、豚のトマト煮込み、トマトジュースと、阿堂さんの前には缶ビール一つ。それから真っ赤に売れたザル一杯のトマト。

「レッドアイにするんだ。失礼」

 ぐいっとトマトジュースの入ったコップを傾けて、そこにビールを注ぐ。バジルとトマトの香る昼食。

 上を見れば、青い空が見える。アツアツのピザは糸を引いて美味しい。

「なんか、以前食べた時より、味付けが柔らかくなりましたね」

 カコがフライをフォークで切りながら言う。

「食べやすい。美味しい」

「ありがと」

「キリコたちが腕を上げたんですか?」

 口の周りをトマトで真っ赤にしてミライが尋ねると、阿堂さんは皮肉っぽく。

「そうだね。先生が良かったからね」と応えた。

「料理の先生は、モデルさんですね?」

 とミライが無邪気に言って、カコはすかさず左足を上げた。蹴って黙らせようとしたのが、外れる。ただ、カコが妙な動きをしたのには気づいて、ミライはえーっと、とポモドーロをフォークに巻きつけた。

「初めて、モデルを使って描いたんだ」

 阿堂さんはイーゼルの上の絵を見る。そしてその遥か先まで見ている。

「ふ、と目が合ったんだ。そして思わず、モデルになってください、と頼んだ。そんな衝動こみ上げたの、初めてだった。

 彼女は言った。

 あなたにモデルなんて要らないでしょう?

 だってあなたはいつも自分しか描かないもの、って」

 カコは付け合わせのパンをちぎって口に運ぶ。トマトで塗り固められた昼食は、美味しいけれど重い。

「あなたはデッサン人形に囲まれて、自分しか見ていない。欠けた顔の中で安心している。そして欠けた顔に、自分の顔を当てはめて悦んでいる。でも、覚えていて。無貌という名の顔はあるのよ。

 そう言われた」

「でも、その人は、モデルになってくれたんですよね?」

 ミライが問いかけると、阿堂はうなずいた。

「あなたも、あなたの仮面を脱いでくれたら、と誘われた。

 あとは、あー。

 よそう!

 中学生に話す話じゃないね」

 煮込まれた豚にナイフを当てると、トマトの酸味で柔らかく切れる。噛みしめ、咀嚼し、飲み込んだ後、彼女は口を横に引き結んで手を止めた。ぽつりとつぶやく。

「あれからずっとキリコの料理は彼女の味だ。まいったよ」

 それから立ち上がると、ザルの中のトマトを一個掴んだ。少しもてあそんで、重みを計る。そして。

「これはね、彼女が持ってきたトマトなの!!」

 言うが早いか、椅子に腰かける裸婦の絵に向かって投げた。熟し切ったトマトが当たって、真っ赤に飛び散る果肉、倒れるイーゼル。

 元港町の、昼下がりを告げる空砲が鳴る。

 ぜいぜいいう阿堂の呼吸に、泣き声が混じる。ぎゅっと握った手元が痛々しい。顔を覆う彼女の脇に思わずカコとミライは寄り添う。

 天井では筒抜けの青空に雨まじりの雲がかかってくる。

 尊敬する彼女を、どうやって慰めていいのか判らないカコの足の下に、女が立っている。

 家族の洗濯物隙間から、あのイーゼルにかけられた絵とそっくりの女が睨みつけるようにこちらを見ている。

「ごめんなさい……せっかく、お昼に来てくれたのに……こんなとこ見せて、ごめん……」

 カコもミライも、どうしていいかわからず顔を見合わせる。

 無貌の人形達が音もたてず、しめやかに昼食の幕を閉じる。


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