元港町昼食【古書のパイ】六月の二週目
『古書店グーテンベルク』の一階は店主のガラクタで埋まっていて、実際の店舗は二階にある。
「いらっしゃいませ、お二階へどうぞ」
勧められるまま二人で古い階段を上がっていくと、びっくりするほど高い天井が備え付けられていた。
「ここ、こんなふうになってたんだ」
上を見上げてミライが感嘆した。
「ぎっしり、本ばかりだねえ」
この奇妙な塔みたいな店の存在は知っていたけれど、どんなお店なのかは全く知らなかった。古書店だと知ったのは、今日初めて看板に気付いたからだった。商店街の裏にあるもう一つの商店街は昔の闇市の跡地で、奇妙に古いお店が固まっている。普通中学生ならあまり通らない道だった。
「壁から天井まで本だね」
色がくすんだゴブラン織りのカーペットの上を歩いて、カコは窓際に席を取った。窓は、この緩やかな円錐型の塔をぐるりと囲んでいる。本が無いのは窓までで、窓の下には百科辞典と思しき厚い本がぎっしりと詰まっている。
「あの柱が、大黒柱なんだね」
ミライが言うのは、ここの中央に立っている太い柱のことだった。その周りを、これまた細い階段が螺旋状に上っている。コツ、コツ、と杖をつくような音がして、この店のママが上ってきた。茶のチノパンに小花柄のシャツを着た、上品そうなお婆さんだった。片足は棒状の義足だった。二人の前に水の入ったコップを置くと。
「ご注文は」
と微笑した。どこかの王様の前で挨拶しても見劣りしないくらい魅力的な笑顔だった。
「パイと栞のお茶を下さい」
「本ならこちらの中から好きなものをお選びください」
ふ、とママが振りむく。みっしりと本の詰まった本棚が黙ってカコとミライを見下ろしている。
「よい具合に焼きあげるのに、お時間かかりますから」
「お勧めの本とかありますか?」
ミライの質問に優しい目をして。
「さあ、どれも美味しいですけれどね。あまり新しい物は水気がありすぎるかもしれません。適度に、古い方がいいと思いますよ。適度に乾燥して、わりかし分厚いものが食べ応えありますよ」
「あの、高いところにある本は、階段から手が届かないと思いますけれど、別にはしごがあるんですか?」
ふふふ、とママは笑ってカコに「あのマジックハンドがあるでしょう」と、細長い杖を指差した。
「階段から、あれを使って取るんですよ」
土曜日の昼下がり。カコとミライは道草をして、こんな「あり得ない店」で昼食をとる。
「どれがいいか目移りしちゃうね」
とミライは螺旋階段に手をついて上る。マジックハンドは小脇に挟んでいる。使い方は判っている。駅の人があんなので線路の上から物を取ってるの見たことあった。小さい物でも器用に取るものだ。そんなことを言ったらカコに「本取り係」に任命された。図書委員のカコがやるべき、という意見は速やかに却下された。足元から呼びかける声がする。
「上下巻で取ってよ」
カコの声はだいぶ小さい。それだけこの壁の本棚は高いのだ。
「二人で食べ比べしよう」
「わかったー」
「後、一分で降りてきて」
「なんでよー」
カコの呼びかけに顔をしかめる。落っこちたら怪我じゃ済まないだろう。高いところにそれほど恐怖感を覚えないミライでも、ちょっとひやりとするくらいだ。カコの真面目な声が聞こえる。
「下から、見えてるの!」
「え?」
「ミライの、スカートの中!」
「は!」
思わず右手をおしりにやって、脇からマジックハンドが滑り落ちた。うわっ、と声がして固い物がぶつかる音がする。ミライは階段にしがみついて叫ぶ。
「ごめん! 大丈夫だった?!」
「あぶないよ!」
「マジックハンド、持ってきてよー」
カコが両手を腰に当て、ムッとした顔をした後でマジックハンドを同じように脇に挟むと、軽々と階段を上ってきた。
「早く選んで下りよう」
「オッケー」
二人でぐるりと見回して、二つ並んでいる本を探す。カコが「あ」と声を出した。
「あれ、いいんじゃない? 厚さもちょうどよさそう」
「どれどれ」
螺旋階段に左手を添え、右手でマジックハンドを支えてミライは器用に本を取る。Uの字を描いたマジックハンドの先はがっちりと本を掴んでいる。後は引き寄せていくだけだ。
「ずいぶん軽いのね」
「水分がいい具合に抜けてるからかもね」
受け取ったカコが発行年を確認する。今から五十年くらい前のものだ。青い海に白い港町の装丁がされている。中身もぱらぱらとめくる。
「古さもまずまずね」
「じゃあもう一冊取る」
「あ」
二冊目を取った頃、カコが変な声を出した。ゆっくりとマジックハンドを手繰り寄せた後で、ミライは「どうしたの」と尋ねた。
「なんか見つけた? もしかして紙魚とか居た?」
「そういうんじゃないの。下降りた時、話すよ」
二人並んで下りてきたところで、一階の戸が開く音が聞こえた。次の客が来たようだ。いらっしゃいませ、お二階にどうぞ、の声がする。狭い階段を、いかにも本を読んでます、というような二人の若い男女が上ってきた。
「で、どうしたの?」
本をテーブルの上に置いてミライが尋ねた。ん? とカコが首を傾げると。
「さっき「あ」って声出してたじゃない」
「ああ。あれね。この本、読んだことあったからさ」
「どんな本なの?」
「女海賊の、お話」
ぱらぱらとめくると、少女の挿絵があった。海の絵、船の絵、それから鮫の絵。
コツコツと階段を上る音がして、ママがお水を持ってきた。その無駄の無い給仕ぶりを二人で黙って見つめる。男がマジックハンドを取りに席を立つ。頬杖をついたミライが囁いた。
「綺麗な人だね。ママ」
「ん?」
「身体の動かし方が」
「うん」
「で、どんなお話だったの?」
「小さい頃読んだ話だからあんまり覚えて無い。でも、メスの鸚鵡を飼ってたはず。確かニルソン」
「それ、長くつ下のピッピじゃない? あたしも読んだことある」
「ピッピのは猿じゃない。それにオスだった。鸚鵡は、確か海軍提督からとったとか書いてた」
「どこ?」
小さい字がびっしりと並んだ冒険小説は、すぐに名前が拾えない。二人で眺めていたら、向こうから「あ!」ととがめるような声がする。さっきの男性が難しい顔をしてマジックハンドを弄っていた。
「ママ、これ、曲がっちゃってるよ」
「あら、ほんと。ちょっと待ってね」
マジックハンドを弄るママの声を聞いて、さっと二人は顔を合わせた。神妙な声でミライが言う。
「……多分あれ、あたしが落とした時に曲がったんだろうね」
「でしょうね」
「どうしよう……」
「ミライが取った時は、取れたんでしょ? それなら問題無いよ」
「はい、これで大丈夫ですよ」
女主人の声にミライはもじもじしてしまう。カコは全く平気だ。澄ました顔で水を飲んでしまう。それから窓の外を見て、思い出したように言った。
「まあ、でもピッピみたいかもね。元気で、活発で、力持ちで。昔、足を鮫に食われて片足なのよ」
「片足?」
コツ、コツと階段を下りていく音に、ミライがそっと目をやる。螺旋階段をさっきの男性が上っていく。下から女性が遠眼鏡を見ながら、本の指示を出している。すぐに戻ってくる音がして四冊の本が運ばれてきた。老婦人が苦戦している男性を見上げて言う。
「あら、取れないの?」
「なかなか難しいですよ」
苦笑交じりの声が上から降ってきた。息が少し荒い。
「すんなりいきません」
「あら。あの女の子たちは二人で取ったわよ。思い切りよくやんなさいよ」
突然話を振られてギクッとする。ミライが顔をひきつらせて笑った。
「あー、いやー、こういうの得意なんで……」
「コツがいるのよね」
と、女主人は階段をすいすい上り始めた。両手には本を抱えている。やがて男性の側まで来ると、階段に本を置いて手を伸ばした。
「マジックハンド、貸して下さい。どれがいいの?」
マジックハンドを受け取ると、すんなりとマジックハンドで本を取り出す。二冊目も取ってあげて、彼に手渡した。
「身軽だねぇ」
「ほんとね」
「あの人がさ、この本の物語の人なんじゃない?」
「え?」
「女海賊の……」
「まさか」
カコは肩をすくめた。
「その女海賊はグリーブって言うのよ? 食われた足に、鎧のすね当てをつけてるの」
女主人が本を持ってきたのは、客が取った本の補充をするためのようだった。男を先に階段から降ろして、抜き取られた隙間に本を押し込んで行く。
「大海原を鸚鵡のネルソンと旅して、ついに宝を手に入れて……。よくある話よ。でも、読んでてドキドキした」
「ふうん」
目を通そうと捲ると、優しい声が呼びかけてきた。いつのまにか女主人が側に立っている。悪戯っぽく言った。
「さ、どれを焼きあげましょうか」
「え?」
「それともお読みになりますか? こちら」
「あ、いえ。ありがとうございます。この上下巻お願いします」
お礼を言って本を手渡す。女主人は両手で本をしっかり持って。
「ずいぶん面白い本を選んだわね」と笑った。
「懐かしい。私も大好きな本よ」
「カコが読んでたんです」
「そう」
女主人がそっと手を差し出す。その手に、意味が判らないまま握手をして、お好きなんですか? とカコが尋ねた。
「ええ。そりゃもう。大事な想い出ですからね。この本を書いた人と友達だったんです」
「もしかして、このお話って本当にあったことなんですか?」
ミライが尋ねると、女主人は笑顔のまま首を傾げて。
「さあ。どうでしょうね」と応えた。
「これは昔の元港町の風景が書いてあってね、それも懐かしいの。
後、鸚鵡の名前はネルソンよ。その本の作者と同じ名前。ネルソンさんよ」
焼き上がったパイのいい香りが立ち上ってくる。
元港町の空砲が鳴る頃、二人の前に焼き立てのパイがやってきた。表紙の。
『大航海物語 ネルソン・パロット』
の文字までこんがりと。
上巻はカコが、下巻はミライが食べる。熱で膨らんだ茶色く艶のある熱い本にフォークを差し込むと、さくっと音がして切れていく。外側はぱりぱりで、中からスープが零れてきた。半熟の卵の黄身が割れる。白くとろけるチーズにパイ皮を絡めて食べる。栞から出たお茶を飲みながらカコが言った。
「そういえば思い出したんだけど、女海賊は最後に自分のグリーブをあげちゃうのよ。旅の記念に」
「誰に?」
「王女様。呪いで鸚鵡に変えられてたの。氷漬けになった王女様の身体が、隠された宝だったのよ」
「結構面白そう」
「貸してあげるよ。確か家にあったはず」
ミライが入れるナイフの手が、ぴたりと止まった。見覚えのある字が見えたからだ。それは今の字よりもずいぶん幼くて、でもきっちりとした性格は昔からだったのだと思えるような文字で。
あしたわかこ。と。
「どうしたの?」
怪訝そうな声を出すカコに、なんでもないよ、とミライは笑い、素知らぬ顔で切り取った先を口に運んだ。カコは目を細める。
「古本は、香ばしいね。それでちょっとほろ苦い」
「想い出の味はみんなそうかもね。時間をかけて炙られて、香りだけが残る」
パイにナイフを入れるカコの手元を見ながら、ミライは栞茶を啜る。
「想い出は想い出の中に収めて、ただ味わえばいいだけかもね」
食べ比べしよう、と二人でお皿を交換する。
カコは几帳面だから、本に名前を書くときも、同じ場所に書く。