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元港町昼食  作者: 白石 薬子
一章 春
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桜上のカレーライス 四月第一週

二階建てのカレーショップの主人は「いい眺めですよ」と二人をを三階に通した。手すりすら無い平たい屋上のテラスに、テーブルが無造作に置かれていた。

「貸し切りだね」

 とミライが無邪気な笑顔で言った。カコは椅子を引いてエスコートする。教育された従僕のような仕草だった。それから自分も腰かけて、一緒に古いメニューを眺めた。二人の濃紺のワンピースを見れば、カコとミライの二人の少女が上河岸田うえかした中学校の生徒だとすぐに判る。土曜日の昼下がりは二人とも道草をして、こんな「あり得ない店」で昼食をとることになっている。カコとミライは土曜日の二人なのだから。

 眼下は桜の海だ。街はピンクと白に染まって、ところどころ建物の屋根や屋上が岩場のように岩壁のように、漂流したゴミのように漂っている。風が吹くと桜の海が波を立てた。

「ご注文は?」

 何百年も経ったガラスの壺を撫でたような、深く透明感のある声で店主が尋ねた。そっけなくカコが応える。

「カレー」

「あたしも」

 ミライはいつもカコと同じ品を頼む。カコが食べていると、ミライも食べたくなってしまうからその予防策だ。目の前に置かれたグラスは青くて、金の彫り物がしてあった。店主が傾けた水差しから、水が流れ落ちてグラスの中で踊る。塩辛い顔をした老人にカコが話しかけた。

「高い三階ですね」

「三階は私の部屋ですから」

 微笑する店主に、ミライが「じゃあ、ここは四階ですか?」と聞いたら。

「四は縁起が悪いのですよ。船乗りは特にね」

 水を飲みながら、それならここは五階かしらと二人で話し合った。

「海のにおいがするね」

 うっとりするミライに、カコは瞑想でもするように目を伏せて優しい顔をする。

「海の想い出のにおいじゃない?」

「海はもう、遥か遠いのにね」

 ここは明治の頃は港になる予定だったのだとか。それがその計画は頓挫して、いつのまにか埋立てられてただの街になった。だからこの街の名は「元港町モトミナトチョウ」という。

 二階建てなのに五階の視野を持つ平たい屋上の広場でカレーを待つ。ミライは手を組んで顎を乗せて、桜の波立つ町を見ている。彼女は美しく、外国産の着せ替え人形みたいな顔をしていた。特にお化粧もしていないのにずいぶんと華やかに見える。スカートを履かないと一目で女の子に見えないカコとはずいぶんな違いがあった。なによりカコは滑らかだけれどふくらみがほとんど無い。あるとすればかけている眼鏡くらいのものだろう。

 カコが思い出したように言った。そういえばさ。

「海軍さんの金曜日はカレーだったんだって」

 ミライは即答した。

「きっと辛口だね」

「どうして?」

 何故金曜がカレーなのか、という疑問よりも、味のイメージを思い浮かべるミライが面白い。ミライは応える。

「だって海のオトコだもの」

 当たり前みたいに決めつけて、制服の襟にいつものハンカチをひっかけた。カレーは服を汚す。カコもそれに倣った。二人のハンカチはこの日の為にあつらえた大きな厚い白いもので、几帳面そうなカコによく似合う。まるで聖職者のよう。歯医者で治療を受けるみたいに見えるミライとは違う。だからミライは一工夫する。バラのコサージュをつけて、はい、完成。

「カレーはインドだよね」

 カコは頷く。

「その後、イギリス料理になったわ」

「それから日本にきた。

 長い旅をしたのね」

 ほっと溜息をつくと、ミライは夢見るように目を細めた。

「幾多の船に乗り、あまたの船を犠牲にしてカレーは世界を制覇したわけだ」

 そうね、と囁くカコに大きく頷いて見せて、ミライは溶けた氷を啜った。

「還らぬ船は水底で港の夢をみている」


 潮風に香り高いカレーのにおい混じった。

「そろそろ、水位が上がりますよ」

 カレーの皿をおきながら、主人がにこやかに言った。

「今日はいい日です。日本人なら桜が好きで、船はカレーが好きですから」

「日本人はカレーも好きですよ」

「それはよかった」

 主人には訛りがあった。肌はチョコのようで、目は蒼く、髪は塩が染みたよう、そして目元の皺は波のようだった。運ばれてきたカレーは深い黄土色で、鶏肉は柔らかい。一口大のジャガイモと人参と絶妙な玉ねぎ。固めのご飯は、しかし水気を充分に含んでいた。

 追加ドリンクに、二人でアイスティーを注文すると。

「アイスティーも、インドから英国に運ばれたお茶の、日本で作られたものですね」

 と、私達の会話を聞いていたように主人が微笑した。日本の湿気て暑い日を心地よく過ごすためのアイスティー一杯。シロップをたっぷりかき混ぜて飲むのだ


 一匙、二匙と運ぶと、花びらの飛沫を上げて桜が押し寄せてきた。私達はしばしカレーを食べるのを忘れる。近くで汽笛が鳴った。軍艦に乗って水兵が帰ってきたのだ。桜の海を黒い重い船が滑り込んでくる。

「幽霊だね」とカコが言うと、ミライは頷いてからジャガイモを半分に割って口に運んだ。

「海軍さんは今日もカレーだ」

「土日無いからね。月月火水木金金」

「二日目の金曜だから、味が染みてるね、きっと」

 私達は匙を口に運ぶ。運ばれてきたたっぷりのアイスティーをストローで口を潤しながら、辛いカレーを食べる。

 艦はゆっくりと前進する。

 元港街の土曜の昼は、昔ながらの空砲を鳴らす。


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