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綿の騎士

作者: 樹都

  1・きしのかくせい


 まどろみの中を、光がくぐり抜ける。

 ちくり、ちくりと、幾百度も。

 長い時間をかけて、おれは目覚めた。

 なにものか。

 おれは、騎士だ。目覚めたときからおれはそれを知っていた。

 騎士。守り手。熱い魂と不屈の意思と鋼の肉体を備える騎士のなかの騎士だ。

 おれはまず、おれ自身の魂に注意を向けた。熱く燃えている。おれは自分の名も今いる場所も知らなかったが、そんなことは恐れるに足りぬことだった。

では、肉体は。騎士に相応しい肉体がおれに備わっているかどうか。大地を踏みしめて退かぬ脚は。重厚な鎧を支える肩は。剣を振り上げ盾をささげ持つ両腕は。

 確かめるために、おれは体を起こして自分の手足を見ようとした。

 ――できなかった。まるで体中が綿で出来ているように動かない。体を折り曲げることも、腕を上げることも叶わない。

 深い傷を負っているのか?


「おほ、ようできた」

 焦りはじめたおれを間近に見下ろして、男がそうつぶやいた。相好を崩している。

 年寄りだ。白い髪とひげを短く刈っている。身に付けているものは粗末な茶色い服だ。

 彼の後ろの、部屋全体も茶色かった。工房、だろうか。壁一面が古い木の棚で埋まっていて、工具やら、変色した図面の束やらだ。

 整理されてはいるのだろうが、全体の印象は雑然としている。老人の顔に刻まれたしわのように。

 片隅には、古びた分厚い木箱もあった。何者かを閉じ込めるように、麻ひもでがんじがらめにしてある。紐の交差で作られた文様が怪しい魔術めいていた。

「はじめまして。騎士殿。わしがあんたを目覚めさせた……まあ、作ったとも、言うが」


 ――作った、だと?

 ゴーレム、という連想が浮かんだ。そんなおとぎ話向けの知識がなぜかおれにはあった。

 まさか。おれが、魔術師の土人形だと?

 不安と戦うおれに、老人は告げた。

「さて、あんたは騎士だ。勝手に作っておいて頼めた義理でもないんだが……」

 おれは一時、疑いを忘れた。老人の声に、真摯なものを感じたからだ。懸命な嘆願をむげにする騎士はいない。

「ルリィを……孫娘を守っておくれ。わしの代わりに、全てかけて。わしの――」


「おじーたん!」

 老人の声に被せて扉が開き、舌足らずな甘い声の主が飛び込んできた。

 一目でわかった。彼女こそ、おれが守るべき「姫」だと。

「おじーたん、おじーたん、もうできた?」

 幼い。四歳か三歳か。前のめりに部屋に駆け込んだ足取りが危なっかしかった。ハチミツ色の髪に濃いブルーのリボン。レース飾りのついた淡い緑のワンピースを着ていた。

 老人を見上げる期待に満ちた瞳はとび色。ほおはばら色に染まっている。

 十数年すれば、きっとすばらしく美しいレディになるだろう。

 老人は娘を、目を細めて見下ろしていた。まなざしには愛情と、それに、老いた者が抱える寂しさが映っていた。おれはそう思った。

「あ!」

 姫――ルリィがおれに気づいた。もともと丸い目をさらに大きく開き、口元もほころんで、花開いたように喜ぶ。

「わぁ! かあいい!」

 おれに抱きついた。抱き上げた。

 ……おれはルリィの胸に抱え込まれ、抱き上げられた。いとも簡単に、鼻先を彼女の胸のレース飾りにうずめられる。

 幼い子供がおれを抱く。つまりは、おれが、小さい?

「ぬいぐるみさんだぁ……」


 ちょっとまて!


 騎士は、不測の災難に遭ってこそ鉄の意志を保ち、決して動じてはならない。

 とはいえ、ものには限度というものがある。


「そう、わしが作った、この世で一つきりのルリィだけのぬいぐるみじゃよ……」


       ※       ※


 真っ白いくもり空とレースのカーテンを抜けて、朝の光が柔らかい。

「あさ、です、よお、んしょ!」

 もぞもぞとかけ布団を押しのけて、ルリィが体を半分起こした。声がまだ寝ぼけている。

 足を布団に入れたまま、ベッドサイドのたなに腰掛けていた青い眼の人形を取り上げた。ルリィとおそろいの、薄いピンク色の花模様がついた白いねまきを着ている。

「ロザリーもおはよう。あさ、です、よー」

 よー、と言葉を伸ばしたまま、体を前に折って布団につっぷしてしまった。人形――ロザリーを、布団ごと抱く。

「だめですよぉ、ロザリー。おきないと、あさごはんですよぉ」

 半分転がり落ちるようにして、やっとベッドを出た。裸足でじゅうたんを踏んで、鏡台の前へ。ルリィにはやや背が高すぎる鏡台の上には、ルリィの分とロザリーの分と、これもおそろいの服がたたんで置いてある。

「みゃぁぁああ」

 ……ねこ、ではない。服をぬぎながらのびをしている女の子だ。

「はふぅ……。あ。」

 こちらを向いた。

「だめよ、きしたん。あっちむいてなさい」

 くるり、と、本棚に腰掛けていたおれは絵本の背表紙と向き合わされる。

「ロザリーもお着替えしましょうね……」

 いつもの朝だ。


 自分が着替えてからロザリーを着替えさせて、自分の髪をとかしてから小さなブラシでロザリーの髪をとかす。

「ルリィ、ごはんよ。おいでなさい」

「はぁい!」

 母親のノックに応えてから、おれを抱き上げて、枕の上に座らせた。

「ロザリー、いいこにしてましょうね。きしたん、ロザリーを守ってね」

 おれの隣にロザリーを座らせる。

「まま、おまたせぇ。いまいきまぁす」

 ロザリーの頭をなでて、おれの額にキスをして、子供部屋を出て行った。


 いつもの朝だ……おれも変わらない。

 ベッドの向かいには鏡台がある。おれは自分の姿をいやでも目にすることになる。

 騎士であるからには甲冑を身にまとっている。灰青色のフェルト地のよろいだ。バイザーもついているが、丈夫にぬい付けてあるので顔に下ろす事はできない。

 目は、黒くつぶらだ。丸い目の、熊である。やや青みがかった緑色のくまのぬいぐるみだ。ご丁寧に、かぶとにはこれも丸い耳の形の出っ張りがある。

 手も足も、ただ愛嬌を振りまくためにあるかのように短く丸い。


 せめて、と思う。せめておれが人形――文字通り人の形をしたものであったら、と。

 そう思うと、ロザリーですらうらやましくてならない。

 なぜおれは、くまのぬいぐるみとして作られたのだろう。

『そりゃ、人形じゃまずいでしょ』

 傍らのロザリーが、面倒くさげに呟いた。……人形であるロザリーの声が、おれには聞き取れるのである。

『あたいもぬいぐるみの声を聞けるけど』

「ええい! それより、なぜだ、ロザリー」

 そしておれの声もロザリーには聞き取れるらしいのだ。

「なぜ、おれが人の形をしていると都合が悪いのだ? 今の姿よりはおれにふさわしいではないか」

 問うと、ロザリーは「はぁぁ」と声に出してため息をついた。肩を落とすかこめかみをもむか、何かしぐさがつきそうなものだが、おれたちは動けない。声を出しても唇すら動かないのだ……おれの顔には口すらない。

『あのね……ここは四才の女の子の部屋なのよ? 屈強な男のリアルな人形なんかあったら怖いでしょうが!』

「むぅ……生意気な町娘ならいいのか」

『世間ではね、あたしみたいなのは「かわいらしいおひめさま」というのよ』

 ロザリーは、人形として目覚めてからの年数で言えばおれより年かさである。その分だけ世の中に詳しいことを鼻にかけている。

「中身は下町なまりのとんだお転婆だがな」

『あんたね。騎士サマだったらレディを大切にしなさいよ?』

「おれの姫以外は女ではない」

 ロザリーはしばらく沈黙した。

『……まあ、あんたって幼女趣味だものね』

 ちょっと待て。

「ひ、人聞きの悪いことを言うな!」

『人には聞こえないわよ』

 そういう問題ではない。

『だってあんた、毎朝あの子の着替えを眺めているじゃない』

「いや待て。それはルリィが……」

 毎朝、着替え始めてからやっとおれの存在を思い出すのだ。あるいは、ごっこ遊びのようなものなのかもしれない。

『でもあんたもまんざらじゃないんでしょ? じーっとルリィを見つめちゃってさ』

 おれは咳払いをした。

「それは、違うぞ。いいか、ロザリー、おれがルリィを見つめて思うところはだな……」


「ただいま!」

 ルリィが戻ってきた。同時におれたちの会話はやむ。どういうわけか、人がいるところでは話ができないのだ。

「ふたりともいいこにしてましたか?」

 小首をかしげてそういってから、ベッドに転がる。おれとロザリーは跳ね上がった。

「あのね、きょうもわたしたちおるすばんなの。いいこでなかよくしましょうね」

 転がって、おれたちを向いた。とび色の瞳におれが映りこんでいる。

 おれを抱き上げた。抱き上げられたおれは、ぎゅう、とルリィの胸に抱え込まれた。

「きょうもいいこにしましょうね……」

 昨日も、その前も同じだった。サンギョウという地方に革命が起きて以来、このあたりでも日増しに空が曇りがちになり、ルリィの両親は毎日のように外に働きに出ているのだ。それがかわいい娘のためだということも、ルリィは理解している。

 ぎゅうう、と、ルリィは体全部でおれを抱きしめて丸くなった。火照ったほおが押し付けられる。

「ちゃんとおるすばんできるもんね……」


 ぎゅう、と、こういうときに抱きしめられるのは、体に綿が詰まっているおれの役目だ。

 手足が硬く細工が細かいロザリーではこうはいかない。

 丈夫にぬい合わせられた単純な形のおれだから、小さなルリィのめいっぱいの「ぎゅう」を受け止められる。今のところこれだけが、おれにできる唯一の役目である


 ちらと眼の端にロザリーが映った。おれをからかって笑っているような気がした。

 おれは憮然としていることにした。

 ルリィがはなをすすった。



  2・きしのほんりょう


 おれが目覚めたあの日から一日もたたぬうちに、ルリィの祖父であった老人が死んだ。

 おれがあの男について知っているのは『ルリィの祖父で、優れた人形職人であり、老いてからも近所の工房で寝起きしていた』ということだけだ。

 おれは『人形職人』であった彼が残した、唯一のぬいぐるみであるらしい。

 ルリィの腕に抱かれて、土をかけられる棺を眺めながら、おれは心に叫んだものだ。

『なぜにおれはぬいぐるみなのだ?』

『おれになにができるというのだ?』と。

 問いには今も答えが無い。

 おれはただ、ルリィに抱かれている。


 昼食は、母親が作り置いたサンドイッチだった。ルリィはバスケットを子供部屋に持ち込んで食べた。形ばかり、俺たちにも一緒に食べるふりをさせた。

 長い午後は、転がって、絵本をロザリーに読み聞かせて過ごした。

 おれは本棚の上に戻って、そうした二人を見守っていた。

「りゅうは、とてもおおきくてつよかった。きしのけんよりうろこがかたい……」

 ルリィのお気に入りの物語を、おれももう暗記していた。竜はとても強く、人の身である騎士の力は限られている。

 しかし騎士には、姫がいる。

「そのとき、りゅうのおおきなせなかのむこうに、おひめさまがみえました。おひめさまのために、きしは……」

 ちりりん、りん、と余韻を残して揺れる呼び鈴が、朗読を中断した。

「はぁい、どなたぁ?」

 舌足らずなりによそ行きの声を作って――母親のまねだ――ルリィは玄関に出て行った。

 残されたおれとロザリーは眼を見交わした。たまたま、目が合う転がり方をしていただけだが。

『誰が来たのかしら。切り裂き魔だったらどうする?』

「馬鹿をいうな」

 おれは眉をひそめたつもりだが眉は無い。

「しっかりした子だ。知らない相手にドアを開けるものか」

『もし押し入ってきたら?』

 だれですかぁ、と繰り返すルリィの声がかすかに聞こえてくる。ドアの向こうの相手は沈黙しているようだ。

「……そのときは、おれが守る」

 できるの? とは問われなかった。


 ルリィはしばらく戻ってこなかった。

 おれとロザリーがただただ待っている中、ややあってドアが開く音がし。ルリィがなにやら驚きの声を上げ。走り出さんばかりに、いや、走り出せぬこの身におれが狂おしさを覚えていると。

「ねえねえねえ、この子どこの子かなあ?」

 ルリィは腕に拾い物を抱えて戻ってきた。

 拾い物――胴体を抱えられて手足をぶらぶらとさせているそれは、ルリィの半分ほどの背丈の人形であった。

 人形は、男だ。ルリィは人形をひとまず床に座らせる。フリルタイ付きの白いシャツを着て、棒のように細い足に気取ったタイツをはいている。ぎょろ眼と四角い口、ぴんと尖った口ひげまでが動かせるつくりのようだ。

『かなり、キモいわね。ポイしなさいポイ! って感じ』

 ロザリーがささやいた。

「同感だ、しかしロザリー……」

 おれは全身のパンヤが膨れ上がるような戦慄を覚えながら、問うた。

「お前、なぜ今しゃべれるんだ?」

『……あんただってしゃべってる。……こいつ、ナニモノなの?』

 今までにないことがおきている。となれば、理由は外から持ち込まれたこの人形なのではないか?

 おれたちの声はルリィには聞こえないようだ。謎の人形をためつすがめつ眺めている。

「あら? これ、なぁに?」

 人形はベルトの後ろに、革製のケースをつけていた。中に納まっている折りたたまれた紙片をルリィが見つけて、広げた。

 字が書いてある。

「えと……『わたくしは、したてや、です。わたくしをつくったマスターは、コンラード・オーンウェルといいます』……おじーたんのなまえだぁ。じゃああなた、おじーたんがつくったのね?」

 仕立て屋。なるほど、彼の腰のケースには、身の丈にあった小さなハサミも収められているようだ。服の袖にはまち針がついている。彼は仕立て屋の人形らしい。

 しかし……手紙を書いたのは一体誰だ?

『じいさんの昔話を思い出したわ』

 かたい声で、ロザリーがささやいた。

「おれもだ」

 姫に出会う前に、老人の頼みを聞いた。老人は、おれに言ったのだ。

〈わしの代わりに、全てかけて――〉

 ルリィはなおも手紙を読んでいる。

「『マスターがいなくなってから、ずっとうごけないでいました。がんばって、ここまできました。どうかゼンマイを巻いてください』……ほんとだ、ネジまきついてるね」

 仕立て屋の背中には、ブリキ製の『8』の字のつまみがついている。

 ルリィは「すぐうごかしたげるね!」と言ってぜんまいを巻き始めた。

 何も疑っていない様子だ。

『昔ね、じいさんはカラクリ人形作ったんだって。……すごく良く出来た失敗作』

 んしょ、んしょ、とネジを巻く。

 やめろ! とおれは叫んだが、ルリィに聞こえる声にはならなかった。

 かつて老人は言ったのだ。

〈守ってくれ。わしの、過去の過ちから〉


「よし、でっきた!」

 ルリィがゼンマイを離すと、

『カカカカカカカカカカカカカカカカカカ』

 仕立て屋が笑った。

 笑った、と表現していいのか? 顔の稼動部分を一斉に震わせてもの凄まじい音を立てたのだ。

 びょん、と自分の背丈ほども跳ねて立ち上がりつつ、首を一回転させる。

「きゃあ!」

 ルリィが遅れて悲鳴をあげた。下がる。本棚に背中をぶつけた。

『待っていた。この時をワタクシは待っておりましたぞぉぉぉおおお!!』

 仕立て屋は甲高い声で叫びたてた。

『バカナバカナバカナご老体め~~っ。最高ケッサクたるこのワタクシをっ! 箱にしまいこむとはなんたるっ! しっかぁ~~し、時代は変わったのですっ!』

 なんとケタタマシイ奴だ。ルリィまでもが怯えて耳をふさいでいる。なにしろ『笑い音』だけでも凄まじい。

『うるさい! ポンコツ!』

 ロザリーが反応良くつっこんだ。

『あんたも人形でしょうがっ! 子供おびえさせてどうするのよっ!』

『カカカカカ! ちっが~うのです。人形は子供のおもちゃではないのですっ! 真の、人形はっ! 人間よりも優れているぅっ!』

『なるほど……救いようのない失敗作ね』

 同感だ。

「おい、お前もう黙れ。本当に」

 おれは棚の上から言ってやった。

「これ以上ルリィを泣かせるとただではおかないぞ」

『ほっほぉ~』

 ぎょろぎょろと二回転も余分に目玉を回してから、仕立て屋がおれをねめあげた。

『これはこれは、騎士殿であらせられる? それで? 一体なにができますので?』

「ぐ……」

 もしおれに筋肉があり骨があり歯があったなら、屈辱に全てがきしんだだろう。

『黙ってそこで見ていなさい! このワタクシ、最高のヒトカタが!』

 仕立て屋は、いつしかハサミを手にしていた。大仰に構える。

『人間を越える瞬間を~~っ!』

 ハサミを振り上げて、跳び上がった。

 ――きょんとしているルリィに向かって。


 その瞬間。

『やめろ、ばかぁぁぁあああ!』

 ロザリーは魂消るような叫びを上げていた。

 おれは、ただ一つのことを祈っていた。

 真に、おれが騎士であるなら。

 ぬいぐるみで終らないのなら。

 今この瞬間に、力を。姫を守る力を。おれはそのためにこの世にいるのではないのか?


 ルリィは。

 とび色の目でおれを見上げた。


 おひめさまのため、きしはきせきをおこす。


 おれは、前のめりに棚から落ちた。

「姫!」

 せつなに俺が叫べたのはそれだけだ。

 仕立て屋の突き出された腕を踏みつけ、再び空中に跳ねてルリィの元へ。

「カカッ!」

 空中でバランスを崩した仕立て屋が歯噛みした。

「いまだ! ルリィ姫、下がって!」

 おれは、まだ動けないでいるルリィをひとまず突き飛ばす。

 ――突き飛ばそうと、した。


 ぽふ。


 絶望的にやわらかい感触がした。俺自身から。

 目の前が薄い白い幕の重なりに包まれている。ルリィの胸元のレースだ。おれの体はそこで止まった。

「きしたん?」とルリィがおれを呼んだ。「カッ」と仕立て屋は笑い飛ばした。

 背中でじょきりと沈み込む音がして、冷たい切断面がおれの中を通った。

 ハサミだ。人形サイズといっても、おれの抜けない剣に匹敵する刃渡りはある。

 背からパンヤをはみ出させながら、おれは床に落ちていった。


 刃は胸には抜けていなかった。厚手のフェルトのよろいのおかげだ。

 ルリィは傷つかなかった。おれが誇りうることがあるとすれば、それだけであった。



  3・きしのたびだち


 時が過ぎる。傷口から時が零れ落ちていく。


 切り裂かれた背中を下に、おれは床に転がっている。

 人の身であれば今頃血の海に沈んでいるのだろうが、ぬいぐるみはやぶけたまま転がるだけだ。

 しかし確実に、何かが流れ出していた。


 鏡に口紅で、乱暴な文字が書き付けられている。ぬい付けられた丸い目玉の視界は広い。

〈騒ぐとじょきじょき切ります。従いなさい〉と、書いてある。

 口紅は、ルリィが鏡台にちょこんと乗せていた、お気に入りのものだ。つけることはないけれど、お気に入りだった。

 今は先がつぶれて半ばから折れかけて、おれの隣に転がっている。

 仕立て屋はハサミでルリィを脅し、リボンに乱暴に掴まって頭に乗って、指差すままにルリィを外に連れ出していった。

 おれはそれをなすすべなく見送ったのだ。背中を深く切り裂かれたところで、ぬいぐるみは意識を失いはしなかった。

 無駄に目覚めたまま、転がっている。


『大丈夫。ルリィはまだ生きてる。怪我もしてない』

 ロザリーがぽつりと言った。

 落ち着いたようだな、とおれはまず思った。おれが倒れて――ルリィが泣きながら部屋を出て行く間のロザリーのわめきようはそれはひどいものだった。今なら人形の身でも涙をこぼせるのではないかと思えるほどの。

 どれくらい時間がたったのだろう、いつの間にかずいぶん陽射しが動いている。

 ――まだ生きている、か。

「なぜわかる?」

『あんたには、わからないの?』

 あきれた、と小声で付け加えた。

『ほんとにあんたって……。あたしたちのルリィが無事かそうでないか。そんなこともわからないの?』

「どうわかるというんだ。ルリィはあの狂ったカラクリに連れ去られたんだぞ?」

『ばっちりわかるのよ』

 きっぱりと言い切った。

『あたしはルリィの人形だもの』

 そういうことはあるのかもしれない。が。

「いったいそれが、なんの役に立つ?」

『馬鹿』

 ロザリーの声が再び熱を持った。

『あんたってほんとに大馬鹿野郎ね。頭の中にはパンヤだけ? おまけに勝手にがんじがらめになってんの。よろい脱げ馬鹿!』

「む、無茶を言うな……」

 なぜおれはひるむ?

『なんの役に立つ、ですって? いい? ルリィがいて、あたしたちがいるのよ? あんたはルリィのぬいぐるみなのよ?』

「おれは騎士だ。役立たずの」

 背中の傷からつぶやくような感覚がある。

「いいか、おれとて夢見たことがある。いつの日か、姫の――ルリィの危機にあって、おれは、きせきを、起こすのだと。今のこの身は仮の姿で、しかしてその時こそ、真に騎士としての本領を発揮するのだと。おれは、夢見ていた」

 ロザリーのため息を感じた。おれは同情されているのか。

「しかし、奇跡はもう終わった」

 一度だけ、ルリィに向かうハサミを逸らした。そして終わったのだ。

「おれはその程度の騎士であったのだ」

『そうね』

 この際、励まさないのも思いやりであろう。

『確かにあんたは、ダメ騎士だわ。けどね、ルリィのお気に入りなんだから』

 ロザリーはなぜかそこで口ごもり、やっともう一つ呟いた。

『……ぎゅうされてるくせに』

「うらやましかったのか?」

 返事は聞けなかった。ロザリーはもう一度、『今に思い知るんだから』と繰り返した。

 おれは、じゅうたんにしみ込む涙の粒を見たような気がした。


 時間が過ぎてゆき、影が伸びる。おれは沈黙し、ロザリーもまた黙っていた。

 おれはゆっくりと、温度が変わっていくのを感じていた。

 冷えていく、おれの体。もとより血が通っているわけではない。凍えたところで不都合は何もない。

 認めざるをえないだろう。この冷たさは、心が感じているものだと。そばに、ルリィの体温がない。

 しかし、だ。代わりに見出しつつあるものがあった。目を閉じると――これも心の中での話だ――離れたところにぽつんと浮かんでいる輝きがある。

 輝きは遠く、しかし、輝きが発している熱をおれは近いものに感じている。

 これは、夢か?


「ロザリー、一つ聞きたい」

 この感覚について尋ねることにした。

「ルリィの無事がなんとなくわかる、といっていたな。それは……体温か?」

『そうよ。ああ、やっと気付いたのね』

 ロザリーがほっと息をついた。

『あたたかいでしょ。なくして思い知った?』

「いや、違うな」

 ぼんやりと遠い感覚に意識を向けていたために、おれは言葉を選べなかった。

「おれは、ルリィを『あたたかい』と感じたことはない」

 ロザリーは絶句した。

「ルリィ? いるの?」

 性急なノックが響き、おれたちは言葉を失った。ルリィの母親が帰ってきたのだ。


 女性についてあれこれ品評するのは騎士の礼儀に叶わないが――ルリィの母親を一言で表現するなら、『貴婦人になりそこねた人』であろうか。

 幼い頃はきっとルリィに似ていたに違いない。しかし髪はぱさついて赤みを帯び、体つきは指先まで骨ばってきている。『コウバ』という仕事から帰った彼女の質素な装いは、煙でいぶしたようだ。

 しかしおれはこの女性を尊敬している。

 彼女が身をやつすのは、ルリィを淑女に育てるためだからだ。自分が途中でなくしたものを、この人は、ルリィに最後まで与えようとしている。そういう強さもあると思う。


「ルリィ? かくれんぼはやめてちょうだいな。ルリィ?」

 今、彼女はうろたえている。部屋にルリィがいない。おそらく玄関も開け放たれていただろう。鏡には乱暴な文字が塗りたくられ、床には切り裂かれた人形が落ちている。

 彼女はおれを手に取り、血の気の失せた唇を震わせた。

「ルリィ、まさか……」

 もし言葉が話せるなら、おれは彼女に誓いたかった。おれは必ずルリィの元にたどり着く。そして守る、と。

 もう一つ、伝えたい事がある。

(ロザリー、聞こえるか)

 伝わらないかもしれないが、強く念じる。

(いいか、大丈夫だ。お前のおかげだ。任せろ)

 そうだ、警察、と呟いて母親が部屋を出る。おれを持ったままだ。

(おれには今、ルリィが感じられる。離れているが、確かにルリィの体温がわかる)

 部屋から持ち出される直前、おれはロザリーに、自慢した。


(熱いんだ。泣いているときのルリィはな)


「あ……」

 不安がめまいにつながったか、玄関先で母親はよろけた。

 おれは汚れた石畳の上に落ちた。

 転がったおれの鼻先に、居合わせた犬の前足がぶつかった。みすぼらしい犬だ。古すぎるブラシのような汚れた茶色の毛並みが、垂れた耳までを覆っている。

 犬は半端なくしゃみをするように息のかたまりを吐くと、おれを鼻先で検分した。

 あるいはおれの中で今昂ぶりつつある熱を、この獣は感じ取っているのかもしれない。

(よし、お前だ)

 おれは、犬の瞳を見据えて念じた。

(お前は、誇りある騎士の愛馬だ)

 おれの信念が通じたに違いない。

 犬は、おれをくわえ上げ、走り出した。



  4;きしとひめぎみ


 夕暮れの通り。石畳の上に積もったすすが夕陽に灼かれている。馬車が通り過ぎ、硬く細い軌道を残す。

 ガタン! と一度はねた。車輪が大粒の石をはじいたのだ。

 はじかれた石は、レンガの壁をわずかに削った。

 通りに面した一軒のレンガ造りの小屋だ。壁の低い位置に四角い穴が開いている。そこから低くかすかに、少女のすすり泣く声が漏れているが、道行く人々は気付かない。

 穴は、明り取りの窓であった。その向こうは半地下の工房である。

 今は主がいない工房には、二度と使われない道具類が収められ、差し込む西日によって赤と黒のコントラストに切り刻まれている。時折、行き交う足の影が部屋をよぎる。

 明り取りから見えるぎりぎりのところに、座り込んだ少女の靴先だけが見える。

『ええい、泣くな! 働きなっさ~い』

 カカカカカッと木を打ち合わせる音が、泣き声を遮った。仕立て屋のカラクリ人形が、少女の前でわめいている。ハサミを持った腕を苛立たしげにぐりぐりと回転させる。吊り上った口ひげはほとんど真上を指していた。

『お前はワタクシの召使いなのだっ!』

 耳障りな音を立てて、はさみの先で床を削った。何度も同じことを繰り返したのか、床には白くカナクギ文字が刻み込まれている。

 いわく、<ワタクシのネジを巻け!>

「……やだもん……」

 かぶりを横に振ったのか、髪の端が見えた。

 カカッ!

『巻くのです!』

 仕立て屋は腕を人間にはありえない角度で背中に回すと、回れ右をした。ハサミをつきつけつつゼンマイを少女に向けたのだ。

 カカカカカカカカッ! カカカ……

『早くぜんまいを巻くのです。巻かないとお嬢さんもあのぬいぐるみと同じ目に……』

 言いかけた口が、四角く開きっぱなしになった。合わせて目も見開く。

 おれは言ってやった。

「あのぬいぐるみが、どうした?」

 夕陽によってくっきりと縁取られた影がエンブレムのごとくに、工房の床に丸いフォルムを描いている。丸に耳がついている。

 すなわち。くまたんのきしたんの影。

 おれは今、明り取りの縁にいる。

『ばかな! ぬいぐるみがどうやってここまで来たというのだ!』

 折りよく風が吹いた。おれはひらりと工房に舞い降りる。三回跳ねてから、絶妙のバランスで仕立て屋の前に仁王立ちとなった。

「……きしたん?」

 ルリィが泣き止んだ。おお、ルリィがおれを見た。しゃくりあげ、目元の涙を拭った。

 おれは、深くうなずいた。……ぬい目がほころびて、頭がグラグラしているのである。

「きしたんだぁ!」

 立ち上がりかける。スカートのすそが、ふわりと広がった。ルリィが動き出すとき、おれはいつも花が開くさまを連想する。

 カカ!

『シャラップです!』

 仕立て屋がハサミでルリィの動きを制する。明らかに動揺している、が、

 カ……カカカカカ……と笑い出した。

『確かにすごい。ここまで来たのは驚きました、が、来るのが精一杯だったようですね』

 キィ、と目元が細められている。

『見ればズタズタのボロボロではありませんか。きしどころかズタ袋のごとき有様だ』

「そうだろうな」

 自分ではどんな姿になっているのか見えないが、ひどいさまだろうと予想はつく。

「犬は、路地裏でゴミを漁りだすと同時におれの存在を忘れた……」

 堂堂とおれは語り出した。

「おれを拾い上げた掃除人は、おれがぬいぐるみなのを確かめると舌打ちして放り捨てた。職務に怠慢な男だ」

 彼が勤勉だったら、おれは今頃ゴミ袋の中だろうが。

「しかもつま先で蹴り上げた。おかげで馬に踏まれずにすんだがな。蹄に二回蹴り上げられて、おれは馬車の車軸に巻き込まれた。知っているか? ぬいぐるみは回転しても目を回さないようだぞ」

『か、代わりに片目が取れかけていますな』

 おれの威厳に押されて、仕立て屋は笑うのをやめている。

「すぐそこで車輪が跳ねた音はお前も聞いたな? そしておれは、ここに立った」

 おれを見るルリィの目からぽろぽろと大粒の涙が落ちはじめた。

「きしたん、がんばったんだね……」

 たとえ声は聞こえずとも、おれの姿が雄弁に、辿った道行きを物語っているのであろう。

『それは……すごいというか運のいい方だというか……よくここに』

 仕立て屋のヒゲが横一文字まで降りている。

「偶然ではない」

 おれの頭は今度は後ろに倒れ、胸をそらす形になった。

「おれとルリィの絆がおれを導き、友の教えとおれの意思が、ここまでの道のりを手繰り寄せたのだ。すなわち……」

 ふ、とおれは笑った。ロザリーの言葉を思い出したのだ。

「思い知れ。これが愛されているぬいぐるみの底力だ」


 カ……カ、カ……カ……。

 歯車が引っかかったかのように、カタカタと仕立て屋の顔が動いた。

『な、なにが思い知れだ。なにを思い知れというのだ。苦労したからすごいというのか? わ、ワタクシだって、ですなあ!』

 左手で部屋の片隅を指した。ふたの開いた木箱に切れた麻縄が絡んでいる。

『今まで、閉じ込められていたんだぞ? わずかな動力を守るために自分で自分のネジを巻き続けるみじめさが貴様にわかるか? ゼンマイ切れを恐れながら箱をこじ開けたワタクシの焦燥がわかるとでも言うのか!』

「わからん」

 おれは言い切り、仕立て屋はカクンとあごを落とした。

「貴様の物語に聞く価値などない。なぜなら貴様は……」

 おれは再び、ルリィに頷きかけた。反動で右腕が跳ね上がりほつれた糸に引っかかって、びしりと仕立て屋を指した。

「貴様はルリィを泣かした! 子供を泣かす人形はくずだ!」

『ダマレェ!』

 限界まで顔のパーツを開いて仕立て屋は叫んだ。

『人間に従属する価値なぞナッシング! ワタクシが人間を従えるフューチャァ!』

 壊れたのではないかと思われるような軋む音が、仕立て屋の胴体から響いた。カラクリも逆上する事があるらしい。

『だからワタクシは動けるのだ! ぬいぐるみはどうだ。子供のおもちゃめ!』

 突き出されたハサミが、おれの腕の付け根を挟んだ。おれは振り上げられ、滅茶苦茶に振り回された。

『ははは、どうだどうだ! 動けるワタクシがエライのだぁ。あやまれ!』

 なすすべなくおれの体は翻弄される。そうとも、なす術はない。そんなことはわかっている。しかし、しかしだ!

「貴様は……滑稽だ……」

 おれは言ってやる。

「おれが貴様に屈することはない!」

『カカカカカカカカァ!』

 カラクリはついに言葉を失った。馬鹿力でハサミが閉じた。腕が切り離され、おれは宙を舞う。


 宙を舞いながら、おれはひどくゆっくりとしたときの流れを感じていた。そして、天から降る声を聞いた。

「きしたぁぁぁぁん」

 女神のような、ルリィの声だった。

『カカ?』

 ぎょっとした仕立て屋が頭上を見上げる。直後――

「きしたんをいじめるな~~~~っ!」

 ルリィは両腕を振り下ろした。手にしていた分厚い本ごと。

『コカッ』

 ニワトリのような悲鳴とともに、あわれ仕立て屋は本の下敷きとなった。

「許さないんだから!」

 さらにルリィは両膝で仕立て屋を踏みつけ、ネジ巻きを引っつかむ。

「この! この! この!」

 力任せにネジを巻く。左巻きに。

『コカコケコカカカクコケコカクッ?』

 仕立て屋は首を十数回転させつつヒゲを数十回転させ、ハサミを取り落として動かなくなった。


 結局のところ、おれの使命にとって、動けるかどうかは重要なことではなかったのだ。

 今なら、老人がおれをぬいぐるみにした理由がわかる。思い当たる。

 おれは、ぬいぐるみは、ルリィのそばにいるものだ。ルリィのそばにいて、心を支えることに、全ての時間と全存在を賭けることが出来るものだ。

 いいとも。おれはルリィのぬいぐるみだ。


「きしたん! きしたんだいじょぶ?」

 ルリィが、おれを抱き上げる。おれの頭がぬれた。ルリィの顔がぐしょぐしょなのだ。

 とめどなく流れる涙が、おれをつかむ小さな両手が、くっつけたひたいが、泣きじゃくる合間の息が、熱い。

 おれがよく知っている、ルリィの温度。

 外れていない片目でルリィを見つめ、おれは眩しさを感じた。

 ――女神だ。おれの、絶対の人。

「あのね、きしたんががんばったから、ルリィもがんばったんだよ。だから……」

 必死におれに訴えるルリィ。

 ああ、そうか。

 おれにとってルリィは女神だが、しかし女神を力づけたのはおれなのだ。

 それこそが騎士たるおれの――いや、ぬいぐるみたるおれの、本領だったのか。

「だからきしたん、死んじゃダメだよぉ!」

 そして今、おれは女神を泣かせている。

 ……ロザリーがまたうらやましがるな。

 遠のく意識の中で、おれは微笑した。



  5・きしのやすらぎ


 うす闇の中を、ちく、り、ちく、り、とたどたどしい光が通り抜ける。針穴を通して、世界が明るくなる。


 ――どうやらおれは目覚めたらしい。

 子供部屋に再び、朝が訪れていた。今日の朝日は雲間に光の筋を広げている。

 ルリィがおれを見下ろしている。ベッドに腰掛けておれを膝に置き、一心不乱に作業をしていた。

「んしょ、んしょ、んしょ、んしょ、」

 細かい手作業なのだが、一生懸命になるあまり体も動いているのが微笑ましい。

 ちく、り、ちく、と右肩を通る感触が、おれを優しくまどろみから引き上げる。


『あれから大変だったんだからね……』

 鏡台からロザリーが見物していた。

『ルリィは泣き止まないし、親も心配しまくるし、大人たちはいもしない変質者捜しまくるし……あんた大騒ぎの中で三日も寝てたのよ? ったく、能天気なんだから』

「ああ……ありがとうな」

 おれはロザリーをねぎらった。

「その間、お前が姫についていてくれたのだな」

『ふん。独り占めよ。うらやましい?』

 つんとした答え。しかし、涙声が混じっていた。

「ありがとう」

 おれは繰り返した。

「んしょ、んしょ、んしょ、んしょ、」

 ちく、り、ち……ちく、り、ちく。

 ゆっくりと一針づつ、ルリィが裁縫を進めている。

 じっと真剣なまなざしでおれを見つめ、腕をぬい付けてくれている。

「んしょ、んしょ! んと、そいで、たまどめ、だよねえ? できるかなぁ」

『カカ。』

 ルリィに問われて、仕立て屋が励ますようにうなずいた。ルリィのそばに腰掛け、手元には何の冗談なのか、作りかけのごく小さなくまのぬいぐるみを置いている。器用に玉止めの手本をやって見せた。

「……驚くタイミングがわからん」

『カ?』

 おれににらまれた仕立て屋は、びくりと肩を震わせた。ヒゲは真下を向いている。

「なぜお前がここにいる」

『カカカ……』

 仕立て屋は首を回し、助けを求めるようにロザリーを見た。

 どういう力関係だ?

『あー……よしよし。そうぴりぴりしなくても大丈夫だから』

 ロザリーがとりなす。

『そいつね、しゃべれなくなってるんだけど……故障だかショックだかで』

 なるほど、たしかにあの体験はショックだろう。

『筆談したけど……なんか、主がいることの喜びに目覚めたらしいよ。ぎりぎりの体験で』

「あれでか?」

 おれはまじまじと仕立て屋を見る。仕立て屋は顔を背けて、『カ』と呟いた。

『まあ、いいんじゃない? こいつがいるとあたしたちしゃべれるみたいだし。魔力だかなんだか知らないけど』

 そういうものか。……いいのか? それで。

「できた!」

 ルリィが玉止めを成功させた。おれの肩からぴょんと飛び出た糸の先で、大きな玉止めが揺れている。それがおれの視界の端にある。

 ……まあ、勲章だと思おう。

「おじたんもおつかれさま。おさいほうおしえてくれてありがと」

 ルリィになでられた『おじたん』はうやうやしく胸に手をあてた。

 口元が緩んでいる。長方形に。

『ったく。うちの男どもは変態ばかりなんだから……』

 聞き捨てならないことを言う娘がいる。

「待て! こいつはともかくおれは……」

『着替えをのぞいてるし』

「あれはだな! 前にも言いかけたが……」

 ええい! うろたえるようなやましいことは何もないのだぞ?

「ルリィを見て……その、なんだ、白い、きゃしゃな体を見てだな、おれが思うところは……」

「きしたんのえっち……」

 おれの弁明を最後まで聞かず、ルリィはほおを赤らめて呟いた。

 ――ルリィが。

 俺たちの言葉が聞こえていたのか? ロザリーは息を呑み、仕立て屋もヒゲを逆立てた。

「あら?」

 ルリィはくびをかしげ、そっと自分の口元を押さえた。無意識の呟きだったのか。

「えっと……」

 左右を見て、ついでに仕立て屋に向こうを向かせる。

「おはよ、きしたん」

 ルリィがおれに口づけた。はなとはなをぎゅっとくっつけて。


 ――ずっとこの子を見守りたい。



               おしまい。

読んでくださってありがとうございます。

お気に召したら一言残していただけるととてもうれしいです。

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