序章
この小説は、クラシック界では名の知れたショパン、
彼の『バルカローレ』という曲をモデルにしています。
季節は夏、強い太陽の日差しが容赦なく地上に降り注ぎ、
今は、麦わら帽子を被り、淡い水色の海の浅瀬でポツンと立ちすくむ、
まだ幼い顔立ちの少年の白い肌を、ジリジリと焦がしていた。
「…………。」
少年は、呆然と一隻の船を見送っていた。
遠ざかっていく白い船には、少年の幼馴染が乗っていた。
今、この島に住んでいるのは、生まれて間もない赤子、海辺の村の長老、
そして、少年と同年代の子供達だけだ。
この島に生まれた子供達は、生まれつき、
海守り(うみもり)としての特別な力が備わっている。
海守りとは、荒れ狂う海を宥め、慰め、落ち着かせ、
島の穏やかな平和を守る役割の事だ。
大いなる、母なる海の加護を受けた子供達は、
時に歌い、時に笛を吹いて、
海の怒りや悲しみを受け入れ、そっと癒すのだ。
海は気まぐれではない。
人間と同様、理性を持ち、普段は温厚な性格をしている。
だが、時折、人間の身勝手を咎める事がある。
それは、色々なものが少しずつ積み重なっていった結果に過ぎない。
一国の工場排水、生活排水が川へ向かい、海へと流れ出し、
綺麗な水をじわじわと侵食していく。
だが、海を、ひいては自然を支配し、優位に立ちたいと願う王や、
エゴイズムを持った上流階級の貴族達は、我先に、と
海守りの特殊な力を借りようと、この島へ乗り出したのだ。
全ては、我が身可愛さと、国の発展のために。
元々、この島は自然が豊かで、生活には困らないが、
軍事力や経済力といった諸々は、全くと言って良いほど無かった。
そもそも、この島の住人は争い事を好まず、のんびりと穏やかに、
過ぎゆく日々に身を任せていたから、これまで縁が無かっただけだ、
と言われてしまえば、哀しい事に、それが真実かもしれないのだが。
ともあれ、状況が一変したのは、昨年の事だった。
突然、煌びやかな装飾を施した、この島には縁の無い豪華な船が、
何の前触れもなく、やってきたのだ。
〝海守りの少年を一人、私の国に連れていきたい。
もし、あまりにも唐突だとは思うが、
この要望を受け入れてくれるのなら、
私達は、この島のために、可能な限りの援助をしよう。
だが、一週間待つ間に出来なければ、……。〟
あえて、その先を言う必要は無いだろう。
明らかに、要望ではなく、命令であり、脅迫だった。
彼らは、自国を、そして、我が身を豊かにするために、
海守りの力が、喉から手が出るほど欲しかったのだ。
たった一人の要求を仕方なく受け入れてからは、気まぐれな風の悪戯か、
一人また一人、とドミノ倒しのように、じわじわと確実に、
島から働き盛りの少年達が消えていった。
そして、今日、この少年の幼馴染のユダも、数人の行商人に連れられ、
異国の地へと連れていかれたのだ。
ユダは、少年よりも二歳年上だったが、昨日までは、
共に楽しく遊んでいた仲だ、彼の、……唯一無二の親友だった。
砂浜で貝殻を拾ったり、それらを使って綺麗なペンダントを作ったり、
ある時には、海で一日中、ワイワイと騒ぎながら泳ぎ回っていた。
この島は、一周しても大して時間はかからない。
だが、島全部を探検し尽くすには、一生をかけなければ出来ないほど、
島の内部は入り組んでいて、二人は夢中で謎を解き明かしていた、
だが、それも今日で終わりだ。
この少年、ラーナは、彼らの前で、あまりにも無力だった。
彼らのした事は、村の長老にも有無を言わせない、
一方的な取引だったからだ。
そして、いつの間にか、太陽は沈み、夜になっていた。
真っ暗な闇が、ゆっくりと辺りを覆っていく。
ただ、空には、今にも溢れ出し、広い空間を埋め尽くしそうなほど、
無数の星が散りばめられていた。
ラーナは、引き連れていた馬の背を一度撫でると、
一気にドッと疲れが押し寄せてきたのか、
白い砂浜にペタンと座り込んでしまった。
ラーナは、決して諦めたわけではなかったが、それでも、
この世界には抗えない運命がある事を知った。
だが、空に輝く満天の星をぼんやりと眺めていると、何だか、
そんなつまらない事が全部、考えるのも馬鹿らしく思えてくる。
運命なんて、予定調和なんて、そんな事はどうでもいい。
大切なのは、自分がその時、何を思い、どう行動するか、
それだけだからだ。
ユダが何処に連れていかれたのかは分からないけれど、
きっと、今この時も、この世界の何処かで生きているのだろう。
風の知らせで聞いた事があるが、彼らは、連れていかれはするが、
それで命が奪われるわけではない。
寧ろ、この島で生活するよりもずっと、裕福な生活が出来るのだとか。
何故なら、彼らは海守り達の機嫌を損ねるような事は出来ないからだ。
何とも理不尽な言い草だが、それでも有難い事に変わりはなかった。
だが、星達が囁きかけてくる事は、どれもこれも、
今の自分にはあまりにも、優しすぎる慰めで、どうしようもないくらい、
心が痛んだ。
目頭が、じんわりと熱くなった。
切なくて、哀しくて、胸がギュッと締めつけられるようだった。
ゆっくりと右手を掲げ、満天の星空に向けて、伸ばす。
星をこの手に掴み取る事は出来なくても、何かをせずにはいられない、
漠然とした焦燥感、そんな気持ちだった。
本当は分かっているのに、
もう二度とユダに会えないかもしれないって事、
だけど、それを認めたくなくて。
虚しくなるだけなのに、また、手を伸ばしてしまう。
頬を、一筋の雫が伝っていくのが分かった。
「僕は、……いつまで、この島に残っていられるのかな……。
……ねぇ、ユダ、君は今、僕と同じ空を見ているかい……?
こんなに綺麗な星空は、今までに無いよ。
だけど、僕は、……この星達のどれかが君のような気がして、
凄く、不安になるよ……。
……なのに、空は何処までも澄んでいて、雲一つ無くて、
ぼぅっと見惚れちゃうくらい美しいから、今だけは、
大事な事も全部、放り出してしまいたくなるよ……。」
ラーナの呟きは、吹き抜ける風に流され、すぅっと消えていった。
生温く、微かに湿り気を帯びた風は、ラーナの頬をそっと撫で、
白い砂浜を軽やかに駆け抜けていった。
風は気まぐれで、やはり無邪気で、ラーナの短い銀髪を靡かせ、
彼の心をも深く揺るがした。
ラーナの肌は、今は闇に覆われていて見えないが、
透き通るような白から、健康的な小麦色へと変わっていた。
ふぅっ、……ラーナが一つ息をついた。
それは、単なる溜息だったのか、あるいは、
もっと別の意味を持っていたのか、当のラーナ自身も実は、
分かっていなかったかもしれない。
だが、ラーナの足元を先程からそっと撫でては離れていく漣だけは、
大いなる海だけは、彼の思いを知っていた。
そして、その更に一週間後、また一人、この島から子供がいなくなった。
この小説は当初、長編小説として書くか、
つまり、本ページの内容を序章(=プロローグ)とするか、
あるいは、これで一区切りとする(=完結させる)かで、
随分、私の中で葛藤がありました。
結局、先行きの見えないままに、
おぼろげに浮かんでいる続きを少しずつ書いていこう、という結論に至り、
現在、プロットを練っている最中です。