24.人の……
暗い森の奥の沼地には、昔から恐ろしい魔物が棲んでいて、今でもその魔物の唸り声が風に乗って聞こえてくるという、木こりや狩人さえ近づきたがらないウワァフ·フフウの森の近くの古びた一軒家に、イリヤ·ヒッコリーというおばあさんが住んでいた。
近くのオアの村からは少しばかり離れた、フフウの森が暗い影を落とすさびれた旧街道のそばのその家は、みるからに寂しげで、物騒なところにぽつんとたたずんでいるのだが、住人のイリヤばあさんはそんな事は一向も気にしていない様子で、昔から、一人でそこに住んでいた。
村はずれに住んでいる事もあって、オアの村の人たちは、イリヤばあさんの事を詳しく知っている者はあまりいなかった。
イリヤばあさんは時々、村の人たちのちょっとした雑用を引き受けて小銭をもらったり、自分のところでとれた鵞鳥の卵や、山羊の乳や、フフウの森で摘んだ薬草などを街で売ったりしている様だったが、いつも愛想が良くて、きちんとした身なりをしているこのおばあさんが、いったいどうやって生計をたてているのか、村の人たちは知らなかった。
だから村の人たちの中には、魔物の森のそばに一人で住んでいるなどという、この少しばかりかわったおばあさんの事を、実は“魔女”なのかもしれない、などと言う者もいた。
「いっそホントに魔女様だったら、あたしの暮らしも、随分と楽な事なんだけどねえ」
だが、その、村の一部の人たちの陰口を聞くたび、イリヤばあさんは言うのだった。
「お宝や御馳走を魔法で山ほど出してさ、でもって、こんなしなびたばあさんの姿なんてしてないで、もっと若くて綺麗な娘っ子の姿で、ずうっといられる様にしてるってばさあ!」
しかし……イリヤばあさんは本当の魔女ではないにしても、ある事についてだけは、充分に魔女めいた事が出来るばあさんなのだった。
その、ばあさんが出来る、魔女めいた事というのは
魔物を“封印”してしまえる事だった。
とはいっても、ばあさんにも、はじめからこんな事が出来たわけではなく、“封印”の方法も、特別に高等な魔法によるものではなく、現れた魔物に適当な名前を付けて、その名前を御札や護符で呪縛して、名付けた人間に従わなくてはならないようにする、という昔ながらの方法であった。
ばあさんは長いこと、魔物の森のウワァフ·フフウの森のそばに住んでいたため、時々、フフウの森から抜け出して来る妖魔たちに悪さをされるたびに、フフウの森の隣の、ウールユーバの森に住む、幼なじみのまじない師のラーサーじいさんや、他の村や街の司祭たちに、どうしたら妖魔たちの悪さを防げるのかいろいろと教えてもらってるうちに、他の者たちよりもそういったものたちの扱いに、ちょっとは心得がついてしまっただけだった。
というわけで、ばあさんの古びた家の台所奥の食料倉庫の、一番大きな戸棚の中には、ばあさんがラーサーじいさんにもらった魔封じの御札で、小さなガラス壜などに封じ込めた“壜詰悪魔”たちが、いつもいくつか並んでいて、呪縛された空き壜の中で、キイキイと騒いでいるのだった。
そしてその“壜詰悪魔”がある程度の数になると、ばあさんはそれらをラーサーじいさんのところへと持ってゆき、何枚かの金貨とかえてもらい、じいさんはじいさんで、それらの“壜詰悪魔”に魔封じの御札よりももっと強力な魔法をかけて自分の使い魔にしたり、他のまじない師や魔法使いや、物好きな金持ちに売ったりしていたのだった。
つまりは、ばあさんが封印する哀れな小魔たちは、ばあさんたちのいい生活費になっていたのだった。
とはいっても、ばあさんは根はとても親切な気のいい人間ではあったので、自分が封印した小魔たちが自分の手から離れた後は、一体どんな事になるのか、少しは気にしていたのだった。
名付けられた魔物は、名付けた人間の命令に背いたが最後、塵になって跡形もなく消え去ってしまうとかで、人間の奴隷や召使いとは違い、主から逃げも反抗もできない。
なものだから、使い魔の呪詛主の中には、それをいいことに、使い魔となった魔物たちをなんともひどく扱う者もいるとか……やはり根は善良なラーサーじいさんの使い魔になるのなら、そんな心配はいらないのだが……
と、ある日。
「……?」
お気に入りの安楽椅子に座り、出来がよければオアの村の雑貨屋に買ってもらおうと思っていたテーブルクロスの刺繡をしていて、ばあさんはふと何かの気配を感じた。
(…………)
ばあさんは刺繡を続けながら、何気ない様子であたりの気配をうかがった。
(またフフウの森から、ロクでもない魔物がいたずらしに出てきたのかねえ?)
「……」
ばあさんは目だけを動かして、まわりを眺めた。部屋の中には、何の姿もなかった。
だが、やはり何かの気配はあった。そして、
(おんや……?)
ばあさんは思った。
(これはなんだか……いつのも魔物の気配とはちがうねえ?ああいったイヤな気配じゃないよ。ああいうのを、“邪悪な気配”っていうんだって、ラーサーじいさんは言ってたけど。でも、これは……)
そこでばあさんは刺繡から顔をあげ、
「何だい、誰かいるのかい?」
と、あたりを見回して、何気なく言った。
すると、その言葉に、
「あ、あの……す、すみません」
と、誰かが応えた。
「?」
それにばあさんは少しばかり驚いて、再びあたりを見回した。
だが声はすぐそばで聞こえたにもかかわらず、部屋の中にはやはり誰の姿も見えなかった。
「だ、誰だい?どこにいるんだい??出ておいで。年寄りをからかうもんじゃないよ」
ばあさんは椅子から立ち上がり、ラーサーじいさんにもらった魔封じの御札を、近くの机の小引出しから取り出そうとした。
「か、からかうだなんてとんでもない……す、すみません、すみません。あ、あのっ……」
声の主は再び、ばあさんのそばのどこかで言った。それは若い女性の声だったが、おどおどとした、ひどく怯えた様な声だった。
「わ、私はここです。ほら、おばあさんの前の、テーブルのそば」
と、声がそう言うと、ばあさんが座っている前のテーブルの上の、飲みかけの蜂蜜茶が入ったカップが、コトコトと小さく音をたてて揺れた。が、そのそばにはやはり、誰の姿もなかった。
「……?」
ばあさんはその、ひとりでに動いた様にしか見えないカップを、まじまじと見つめた。
「あ、あんれえ……?」
さすがのばあさんも、不思議そうな顔をして、きょろきょろとあたりを見回した。
「ちょっと!やだねえ、おどかしっこなしだよ!一体誰なんだい?どこに隠れてるのさ?出ておいでよ。年寄りをからかうもんじゃないって、言ってるだろ?」
「あ、あのっ、ですから……」
それになおも声は怯えた様子で言った。
「私はここにいるんです。このテーブルのところに。で、でも、私の姿はおばあさんには見えないんです。いえ、他の誰にも……」
イリヤばあさんのところへとやってきたのは、ばあさんがいつもフフウの森の妖魔を封じ込めているように、やはり魔封じの御札で、誰かに呪縛された魔物であるらしかった。
そしてその、ブラン·スタシ(白い保安員)という名で封印された、ひどく怯えた声の、姿の見えない魔物の話をばあさんが聞いてみると、その魔物は、あまりたいした魔力をもっていなかったために召使い代わりに使われ、なんとも気の毒な目に遇ってきた魔物であるらしかった。
魔物――スタシ、は、それまで意地の悪い女主人の使い魔にされていたらしかったが
「毎日毎日、何かのたびに、ご主人様には叱られて」
『おやまあ』
スタシの、以前の女主人は、自分のいいつけた仕事をスタシがやっているたびに、何かと口やかましく言ったのだった。
『あんたってば、まあまあ、なんだい、そのジャガイモの皮の剝き方は。そんな事もロクにできやしないのかねえ。情けないもんだねえ、まったくさあ。そんな事くらい、あんたたちお得意の魔力とやらで、ちょいちょいとやってのけられないのかねえ?ええ?』
『ちょっと!周りをご覧よ!水がこぼれてるじゃないのさ!あとでちゃんと拭いとくんだよっ!ほら何立ち止まってるんだいっ!まだまだ台所の水瓶はいっぱいになってないんだからね!』
『ああ、ああ、ああ、もういいよ!あんたってば、ホントに何もロクに出来ない役立たずなんだねえっ?!あんたみたいなのは、他に見た事もないよ。まったく!前にいた小魔もロクな事ひとつ出来ない魔物だったけど、それでも時々は少しばかりの金貨なんかを出して、私を喜ばせてくれたものさ。でもお前はそれさえも出来ないなんてねえ。買った時はそこそこな値だったってのに、これじゃまったくの“飼い損”だねえ!』
スタシは以前の女主人との事を話しながら、自分の姿についての事もばあさんに話した。
「それで……そんなに役立たずな自分がとっても恥ずかしくなって、もう消えて無くなってしまいたいって思ってたら、ある日から、本当に自分の姿が、足の先から、だんだんに消えてきてしまって」
「消えて……?」
「はい」
スタシはうなずいた(とはいっても、それはばあさんには見えないのだが)。
「で、その見えなくなってしまった部分がどんどん広がってきてしまって……最後にはこうなってしまって。ご主人様は身体が消えてゆく私の事をとっても気味悪くお思いになられて、すっかり私の姿が見えなくなってしまってからは、姿の見えない使い魔なんて、どこにいるのかも分からなくて使いにくくてしょうがないから、もう用がないから出て行けっておっしゃられて……」
「まあ」
ばあさんは言った。
「まあ、まあまあまあ。なんてひどい奴もいるもんだ。可哀想に、可哀想にねえ。あんまりじゃないかねえ」
そう言いながら、ばあさんは刺繡をしていた木綿のテーブルクロスで目元をふいた。
「で、それであんた……そこから出てきたのかい?スタシさんや」
「ええ。ご命令ですから」
「ご命令?まあ、なんてひどい命令もあったものだろうねえ。でも、そんなところなら、おん出てやってよかったってもんだよ。で……どうしてここに来たんだい?あんたが出て来た家ってのは、ここらの近くだったのかい?でも、ここらの近くの家で、使い魔を使ってるところってのは、聞いたことが……」
「私がいたのは、ここからもっとずっと遠くにはなれたクラスタの街でした」
スタシは言った。
「ご主人様のお屋敷を出てから、どこへ行っていいのかわからなくて、しばらくあたりをふらふらとしていたら、何だか随分妖気を感じる所があったので、そちらへと行ってみたら、その妖気を放っている所というのがここの森で……で、森に入ろうとしたら、こちらのお宅が見えて」
「へえ。それで、ここへ来たってわけかい」
「はい」
「へええ。にしても……何だねえ、やっぱり許せない話だねえ。使い魔にそんなひどい事するだなんて。あたしゃ許せないよ。そうさ、許せるもんかね」
涙をふいていたテーブルクロスを、ばあさんは今度はぎゅっとばかりに握りしめた。
「あ、あの……」
そのばあさんに、スタシは言った。
「え?」
「お、おばあさんも、じゅ、呪詛主なんですか?ここのお台所の奥の倉庫に、私の様な、封印された魔物が、いくつか……」
スタシの言葉に、ばあさんは少しばかり表情をかえた。
「あれ、まあ」
ばあさんは、テーブルをはさんだ向かい側にいる(と思われる)、スタシを見つめた。
「……見ちまったのかい?」
「ええ、あ、あのっ、すみません……別にのぞき見するつもりはなかったんですけど、壜の中で、魔物たちがキイキイ騒いでいたもので、いったい何かしらと思って」
「まあま」
それにばあさんは、いたずらを見つけられた子供の様な、奇妙な苦笑を浮かべた。
「困ったねえ。あれを見つけられちまったのかい。やだねえ、他には内緒にしといておくれよ。たのむから。でないと、それこそ、あたしゃホントの魔女だって事にされちまうもの。
でもねえ、あたしゃ、もちろん魔女でもないし、呪詛主でもないんだよ。時々、ウチに悪さをしに来る小魔どもを、壜の中に御札で閉じ込めちまうだけさね。あたしに出来るのは、ただそれだけ。
なんたってあたしゃ、魔法なんてものは使えない、ただのばあさんなんだから。ホントだよ。捕まえた魔物を自分の使い魔に使ったりもしてないし。
壜に閉じ込めた奴らはね……知り合いのまじない師のじいさんに引き取ってもらってるのさ。
で、そのまじない師のじいさんが、私の捕まえた魔物を使い魔にしたりしてるんだけどね。
にしても……何だねえ。責任を感じてきちまったよ、あたしゃ。今までにあたしが捕まえた魔物の中にも、あんたみたいなひどい目に遇わされてるのがいるのかもしれないと思うと……ああ、ああ、なんてこったろう。どうしたものだろうねえ」
ばあさんはテーブルクロスを握りしめたまま、一人で悩みはじめた。
「……あ、あのっ」
そのばあさんにスタシは言った。
「それなら……それなら、おばあさんもよくご存じだと思うんですけど……わ、私、前のご主人様に見捨てられてしまったんですけど、まだ名前で呪縛されたままで……だからまだ誰かにお仕えしないといけないんです。
でも、普通の人は、私みたいな使い魔を怖がるといいますし……だから私、よろしければ今度はおばあさんにお仕えしたいんですけど。おばあさんなら、私を怖がったりなさらないでしょう?
それとも……姿の見えない私なんて、やっぱり気味が悪いでしょうか?」
「え?あたしに??」
スタシの思わぬ申し出に、ばあさんは一瞬、目を丸くした。が、それからばあさんは小さくうなずき、にっこりと笑った。
「ああ、いいともさ。こうなったのも何かの縁さね。……可哀想にねえ。御札で封じられちまったばっかりに、今までさんざんな目に遇っちまったねえ。まったく、なんて奴なんだろうねえ。
名前を取り消さないまま追い出すなんてねえ。ああ、ホントになんてこったろう。どうにかしてあげたいものだねえ。ラーサーじいさんのところに行って……あ。ああ、そうそう、それもいいけど……」
とそこで、哀れな魔物を何とか助けてやりたいと思ったばあさんは、ふと思い出して言った。
「そういや……前にラーサーじいさんにもらった、いろんなまじないの方法なんかが書いてある本に、何か書いてないかねえ。あの本にはいろんな事が載ってたよ。ちょっとお待ちよ。調べてみようねえ。まかしておおき、このあたしがきっとなんとかしてあげるから」
姿の見えないスタシに、にっこりと優しく微笑むと、ばあさんは隣の部屋の物入れを開け、中から、なんとも古びた革表紙の分厚い本を取り出した。
そしてそれをテーブルの上に置いて、黄ばんだページをめくりだした。
「ええと、何々、これは……ああ、ちがうねえ」
スタシが見つめている前で、ばあさんは大真面目な表情で、ぶつぶっと言いながら、しばらく本を見つめていた。そして、
「あ。ああ、これかね。うん、これだねえ」
ばあさんはあるところで目をとめた。
「『姿消えの病』……『姿消しの術』の項の呪文によって、術者が対象とした者の姿を消す事も出来るが、時には呪文によるものではなく、人間、魔物、その他の動物全般に、病として発症する事もある。原因としては、発症したものの気の病によるものが多い……ああ、これ、これだねえ」
本の内容を読み上げながら、ばあさんはにっこりと笑った。
「で、その治し方ってのはっと、ええと……『その術返し法と治療法』……ああ、あった、あったよ。これだねえ、これ。『その治療法』……術によるものであれば、術返し、もしくは術封じが有効であるが、気の病が原因とみられる場合は、人の……」
と、ばあさんはそこでなぜか声を途切れさせた。そして、
「人の……あんれえ??」
目を落としているページの前後に何かを探している様に、ページをぴらぴらとめくり、ばあさんは困った様な表情を浮かべた。
「どうなさったのですか?」
それにスタシはたずねた。
「いやね、ページが……」
それにばあさんは本を見つめたまま言った。
「この肝心なところが書いてあるページのところが破けちまってて……先がわからないんだよ」
「まあ」
「やだねえ、困ったねえ」
そう言いながら、ばあさんはその無くなってしまっているページの部分がどこかから出てはこないかと、本の背を持って、ばたばたと本を揺すった。が、本のページの間からは、何も出てはこなかった。
「あんれえ、ほんとに困ったよお。『人の』って……いったい、『人の』何なんだろうねえ?『人の』……持ち物か何かなんだろうかねえ?人に何かをしてもらうとか、人に何かを貸してもらって、何かをするとか、ねえ??やだねえ、何なんだろうねえ?」
「…………」
「こうなったら、やっぱりラーサーじいさんのところへ行って……あ。そうそう、やだねえ、じいさんは今、あっちこっちの街の市に、物を売り歩きに行ってて、留守なんだよ、たしか。薬草やら魔除けの御札なんかを」
と、ばあさんはふと思い出して言った。
「今は一体どこにいるのか、わからないねえ。ああ、こりゃまた困ったねえ。どうしようねえ。じいさんが帰って来るまで、あたしたちでなんとかするしかないねえ。『人の』……人の、一体何なんだろうねえ」
というわけで。
「さあさ、スタシさんや。あたしのエプロンをつけるんだよ。外に出る時はあたしのショールをかけてね。あたしのものを身につけるって事は、人のものを身につけてるって事なんだから。
それと、寝る時はあたしのべッドを使うんだよ。あたしはお客用のべッドを使うから。それからそれから……」
ばあさんは持ち前の、気のいい、お節介をフルに発揮して、スタシに自分のものを何でも使わせだした。
「でね、あんたは食事の支度はしなくていいからね。でないと、人の作った食事を食べた事にならないからね。ああ、ああ、いいんだよ、気にしなくっても。みーんなあんたを元の姿にもどすためなんだからさ。あたしにまかせておくれ。あたしの気の済むようにさせておくれよ」
今まで自分が封じ込めた魔物たちに対する負い目と、哀れなスタシの身の上に、イリヤばあさんは、まるで身内の不幸の様に、スタシの世話をやいた。
「本当は何が正しいのかわからないけどね。じいさんが帰って来るまで、あたしたちで、とりあえず何でもやってみようねえ」
他の者から見れば、それはとても滑稽に見えた事だろう。しかしイリヤばあさんは大真面目なのだった。
そして、スタシがばあさんのところへとやって来て、五日目の朝。
「おばあさん!」
スタシは台所で朝食の支度をしているばあさんのところへと飛び込んで来ると言った。
「見てください!ほら、足が!」
スタシは、ばあさんの部屋履きと、ばあさんの靴下を履いた足で、ぱたぱたと床を踏みならした。
スタシに言われて、ばあさんが目を落とすと……そう、そこには、ばあさんの部屋履きと、ばあさんの靴下を履いた、細い、白い足が、床に立っているのがばあさんに見えた。
スタシらしき足先が、床に立っているのが。
「あんれえ!」
それを見るなり、ばあさんは声を上げた。
「あんた……あんた、足が!」
スタシは嬉しそうにうなずいた(とはいっても、その表情の方はまだ見えないままなのだが)。
「ええ!」
「今朝起きたら、ここまで元に戻ってたんです!」
「まあ、まあ、よかったねえ。ほんとによかったねえ。何が効いたのかはわからないけど、でも、あたしたちがやった事は間違いじゃなかったんだねえ」
「ありがとうございます」
スタシは見えない手でばあさんの手をしっかりと握り、今やすっかり明るくなった声で言った。
「このご恩は忘れません。ずっとずっとおばあさんのおそばにいて、お役に立たせて下さい」
「まあま、恩だなんて。あたしゃちっともそんなふうには思ってないんだよ。いいんだよ、そんな事……」
ばあさんは先程まで刻んでいた、玉葱の匂いが染みついたままの手でエプロンの裾をとり、涙をふいた。
と、その台所の二人のところに、
「いやあ、いい匂いがするなあ。玉葱のスープか?たまらんなあ。ワシにも馳走してくれんかな。明け方から歩きずめで、腹が減って……」
台所の裏口のドアが開いて、薄汚れた大きな布袋を背負った老人が入って来た。それは……ラーサーじいさんであった。
「いつものとおり、壜詰悪魔はみんな売れちまったよ。あんたが作った薬草の風邪薬や熱さましも、どこへ行っても好評だったよ。一度ワシも作り方を教わらにゃいかんなあ」
じいさんはそう言いながら布袋を下ろし、これまたすすけ汚れた帽子をとって、若い頃から白っぽい灰色であったが、歳をとってからはもっと白くなってしまった髪を、もしゃもしゃと掻いた。そして、
「やっぱりフフウの森の薬草は……――?」
やっとの事で、じいさんは、イリヤばあさんのそばにいるものに気がついた。
「ばあさん、そいつは……おい、そこのお前」
ラーサーじいさんの灰色の瞳が、ぎろりと鋭く銀色に光った。じいさんの顔は、さきほどまでの気のいい吞気そうな表情から、歳古りた一人のまじない師の顔へと変わっていた。
「お前、こんな所で何をしている?また、悪さをしに来た妖魔か?」
じいさんは厳しい表情で、ずいとスタシの前に詰め寄った。
「あ、あ、ちがうんだよう、やめとくれよ、じいさん!」
その間に、ばあさんは慌てて割って入った。
「こ、この子は……ちがうんだよ!」
「ちがうって、何が?」
じいさんはスタシを睨み付けたまま、ばあさんに言った。
「だから、この子はねえ、悪さをしに来たんじゃなくて……」
「…………」
今やまじない師としての職業意識にすっかり立ち戻り、姿の見えない自分を、怖い顔でじいっと見据えるラーサーじいさんにスタシは震え上がり、後ずさった。
と、その、震えながら、一歩、二歩と後ろに退がってゆくスタシの足が、すうっと……消えていった。
「あ、あ、あ……」
イリヤばあさんはそれに気づき、そして、キッとラーサーじいさんを振り返って言った。
「もうっ!このばかっ!このばかっ!!」
ばあさんはわめいた。
「また消えちまったじゃないかっ!せっかく元に戻りだしてたのに、あんたが怖がらせるからっ!また消えちまったじゃないかっ!」
「また……?」
声をあげて床を踏み鳴らすばあさんの剣幕に、じいさんは驚きながら言った。
「そうだよっ!」
ばあさんは再びわめいた。
「その子はねえ……!」
「ふん……」
スタシの話をイリヤばあさんから詳しく聞かさせて、ラーサーじいさんは緑茶をすすりながら、難しい顔をして言った。
「で、」
そのじいさんに、ばあさんは言った。
「あんたなら、この子を元の姿にもどしてやれる方法を知ってるんだろう?」
「いんや」
だが、期待に満ちた表情でたずねるばあさんに、じいさんはにべもなく言った。
「ワシは今まで、そんな病を治した事はないよ。まあ、ワシの他の本にも、その治し方が載っとるかもしれんが……」
しかし。
ラーサーじいさんはそれから自宅へ帰って、自分の蔵書をいくつか調べてはみたが、スタシの“姿消えの病”なるものの治し方、はどの本にも載ってはいなかった。
じいさんの呪縛解きのまじないで、スタシを名前の呪縛から解いてやる事は出来たが、彼女の奇妙な病を治してやる事は出来なかった。
「困ったねえ」
それにイリヤばあさんは言った。
「じいさんが頼みのつなだったのに。ああ、ほんとにまったくもう」
それでばあさんは仕方なく、またしても、自分の思いつく限りの事で、スタシの世話をやき続けたのだった。
それから、十日を過ぎた頃。
「ごめんよ」
その日は、イリヤばあさんの方が自慢の薬草を持って、ウールユーバの森の、ラーサーじいさんの家へとやって来た。
「おお」
それにじいさんは魔除けを作る手を止め、玄関へと迎え出た。そして――
「……?」
じいさんは、その、にこにこと笑っているばあさんの後ろにいる者に気がついた。
それは真新しい綺麗な白いエプロン姿の若い娘だったが、しかし、その娘というのは……
「あんた……スタシさんか?」
じいさんは言った。
「ああ、そうさね」
それにばあさんはにっこりと笑って答え、ばあさんの言葉に、その若い娘も微笑んで、ぴょこんと頭を下げた。
それは、黒い真っ直ぐな髪と、澄んだ翠色の瞳の、たいそうな美人であった。だがそれ以外に、じいさんの目には、他の者には見えないものが見えていた。それというのは……
その娘の背中の、純白の大きな翼であった。
「何と、お前さんは……天使だったのかね?」
じいさんは娘の、神々しいばかりの翼を見つめて、なかば呆然として言った。
「はい」
それにスタシは再び微笑んで言った。
「妖魔と同じ様に、御札の魔力で封じ込まれてしまう様な、まだまだ非力な天使ですが」
「綺麗な、可愛い子だろ」
イリヤばあさんは自慢げに言った。
「あたしのお節介も捨てたもんじゃないねえ。この子を助ける事が出来たんだもの。でも一体、“人の”何が良かったんだろうね。何でもかんでも思いつき次第、片っぱしから試してたから、さっぱりわからないよ」
「さあ、それは……」
ラーサーじいさんは白く輝くスタシの姿を見つめながら考え込み、そして、
「それは……きっと、“人のあたたかい心遣い”だったんじゃないかな」
じいさんは言った。
「“人の……あたたかい心遣い”?」
ばあさんは首をかしげた。
「そうさ」
自分の言葉に納得するかの様に、じいさんはうなずいた。
「その子の病の原因は、元の主人に意地の悪い事をされたからだったからな。それをお前さんが、まるで身内みたいに、親身に世話をやいてくれたものだから、その子の心の病も治っちまったってわけさ。お前さんのした事は、どれが正しかったって事じゃなくて、どれもが正しかった、って事さ」
それにばあさんは少しばかり分かったような、それでいてまだ不思議そうな表情のまま、
「へええ……そうかい」
と、何度かうなずいた。
「このご恩は、何万年経っても忘れません」
そのばあさんに、スタシはいっそうの笑顔で言った。
「呪縛が解けても、病が治っても、私はこれからもずうっと、おばあさんのおそばにいます。私はまだまだ修行の足りない下級の天使ですが、おばあさんからは“慈悲の心のありかた”を教わりました。本来は人の心を癒すのが天使の役目だというのに、反対に私が心の病を癒していただくだなんて。おばあさんのおそばなら、きっと、立派な修行をつめることでしょう」
「“慈悲の心のありかた”なあ……」
スタシの言葉に、じいさんはつぶやいた。
「ま、このばあさんのはた迷惑なお節介も、たまには天使さえ救う事もあるって事か。何ともたいしたものだな」
「あれ、ヤな言い方だね、この子の治し方が分からなかった三流まじない師のくせに」
それにばあさんは笑いながら言った。
「ふん。悪かったな、役に立たなくて。……さ、こんなとこで立ち話もなんだ。入った入った、お嬢さんがた」
じいさんは扉を大きく開け、二人を招き入れた。
篭いっぱいの薬草をかかえたイリヤばあさんとスタシが中へと入り、扉が閉まると……部屋の中からは、楽しそうな三人の笑い声があたりに響いた。




