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12年前 ③

十二年前。


 楠家のダイニングテーブルには、それだけで世界が平和になりそうな、甘くて香ばしいカレーの匂いが満ちていた。

 僕と舞の前には、可愛らしいクマのイラストが描かれたお皿。そこには、舞のお母さんが『子供たちが喜ぶように』と工夫してくれた、星形の人参が散りばめられたカレーが盛り付けられていた。


「わーい! お星さまだ! 弦君、見て、お星さまたくさん!」


 舞はスプーンを握りしめ、目をキラキラさせて跳ねた。さっきまで夢中で積み上げていた積み木のことなど、彼女の脳内からは一瞬でデリートされたらしい。


「本当だ。……いただきます」

「いただきまーす!」


 舞は大きな口を開けて、勢いよくカレーを頬張った。


「あむっ! ……んんー! おいしーい! 弦君、これ、お空の味がするよ!」

「お空の味はしないと思うけど……でも、すごく甘くて美味しいね」


 僕は舞のバグった語彙力に当時から冷静なツッコミを入れつつ、丁寧にスプーンを運んだ。舞の口の周りには、早々に黄色いカレーの「髭」ができ始めている。


「舞、お口、ついてるよ」

「え? どこどこ? んー、ぺろっ。……あ、おいしい」


 拭き取るのではなく、舌で回収しようとして失敗する。そんな彼女の無邪気な様子を見ていると、なんだかこちらまで楽しくなってくるから不思議だ。僕がお母さんから教わった通り、人参をひと噛みするごとに「美味しいです」と伝えると、キッチンから見守っていた舞のお母さんが、本当に嬉しそうに目を細めていた。


「ふふ、二人ともいい食べっぷりね。弦君、おかわりもあるからね」

「ありがとうございます。でも、まずはこれを大事に食べます」


 綺麗に、米を一粒も残さず食べる。それが僕なりの「お稽古」への敬意だった。  一方で、舞はすでに二つ目の星形人参を攻略し、最後の一口を惜しむようにスプーンを動かしていた。


「ぷはー! ごちそうさまでした! ……ねえ、弦君」

「なあに」


 舞は空になったお皿を前に、満足げな、しかし次なる「悪巧み」を閃いたような顔で僕を覗き込んだ。


「お腹いっぱいになったから、次は『冒険』に行こうよ!」

「冒険? でも、もうお片付けしないと」

「積み木じゃないよ! お庭に、おっきな『怪獣』がいたの、舞、見たんだから!」

「……それ、たぶん近所の野良猫だよ。ボス猫っていうんだって。この間見かけたけど」

「ちがうもん! 怪獣だもん! 弦君が騎士さまで、舞がお姫さまで、やっつけるの!」


 設定がめちゃくちゃだ。お姫様が自ら怪獣を叩き伏せに行こうとしている。僕は少しだけ困った顔をしながらも、自分のお皿を空にして、お母さんに「ごちそうさまでした」と頭を下げた。


「わかったよ。じゃあ、お庭に行こう。でも、転ばないようにね」

「やったー! 弦君、大好き!」


 舞は椅子から飛び降りると、僕の手をぎゅっと握った。その手は、カレーの暖かさと、彼女自身の体温で驚くほど熱かった。

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