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帰り道

「その後、舞のお父さんは包丁で自分の首を切って……」

「待って」


 冴子さんが僕を制止する。


「ごめんなさい。そこまで言わせる気はなかったの。ただ、知りたくて」


 仕方ないことだろう。あの時、舞の祖母は突き飛ばされていて気を失っていた。あの瞬間を目撃したのは僕だけだ。


「私、あの頃は仕事で海外にいて、戻ってからもどうしても実家には戻りづらくて」

「わかります。僕もあれ以来、舞の家には遊びに行けていません。おばあ様にわざわざ別の場所や、学校でお稽古していただくように……」

「姉が悪いの、全部。タチの悪い男に引っかかって……」

「いえ、そんなことはないです。舞のお母さんは本当に優しい、いい人でした。それに、こんな言い方をしては何ですが、奥さんを殺した後、すぐに舞のお父さんは自殺しました。根っからの悪人とか、そういうのでもないと思うんです。何か、名門の重圧とかそういったものに……」

「根っからの悪人ではない、か……」


 冴子さんは僕の言葉を繰り返すと、自嘲気味に口角を上げた。その表情は、悲しみというよりも、行き場を失った怒りが霧散していく瞬間のようにも見えた。


「弦君、あなたは優しすぎるわ。あるいは、お姉様がお稽古を通して教えたかった『中庸』を、誰よりも深く理解してしまっているのかもしれないわね。……憎しみだけでは語れない何かが、あの凄惨な最期にはあったと、あなたはそう言いたいのね」

「……わかりません。ただ、あの瞬間の父親の目は、誰かを憎んでいるというより、自分自身に絶望して、何かに追い詰められているように見えたんです」


 僕は畳を拭き終え、雑巾をバケツに浸した。水の波紋が広がり、すぐに静まる。

僕は楠家の、舞のお母さんやお父さんの詳しい事情を知らない。あえて事件後は何も聞かないように過ごしてきた。そんな僕に何かを言う権利はないかもしれないが……。


「舞のお母さんは最期まで舞のことを考えていました。そして、僕を信じて舞を託してくれたんだと思います。その事実だけが、僕にとってのすべてです。……冴子さん、お母さんが悪かったなんて、思わないであげてください」


 冴子さんは細い肩を震わせ、一つ大きなため息をついた。


「……そうね。ありがとう、弦君。あの子があなたを信頼しきっている理由が、今、少しだけわかった気がするわ。……さあ、湿っぽい話はここまでにしましょう。お掃除、手伝ってくれて助かったわ」


 彼女はいつもの凛とした「楠流の人間」の顔に戻り、僕を促した。


 部室の重い引き戸を閉め、校舎の出口へ向かう。昇降口の近く、西日が長く伸びる柱の影に、見覚えのある制服の背中があった。


「あー! 遅い! 弦、遅すぎるよ! 冴子叔母さんと何の話してたの? もしかして私の黒歴史とか、昔の変な写真とか見せられてた!?」


 舞がアイスの棒をくわえたまま、大仰に手足を振り回して駆け寄ってきた。その騒々しさに、僕の胸を占めていた重苦しい澱が、ふっと軽くなるのを感じた。


「自意識過剰だ。お前のことなど一言も話題に出ていない。ただ、お稽古の片付けをしていただけだ」

「嘘だー! 絶対私の悪口言ってたもん! 『あいつは茶道よりゲーミングLEDに夢中なダメ人間です』とか言ってたんでしょ! 知ってるんだから!」

「……そこまで詳しく言語化した覚えはないが、概ね事実に相違ないな」

「ほらやっぱり! 弦のいけず! 氷河期! 抹茶味の氷柱!」


 舞はぷーっと頬を膨らませ、僕の腕をポカポカと叩いてくる。その手は、十二年前のあの夜と同じように、驚くほど熱かった。彼女がこうして騒がしく、バカげたことで怒っている限り、あの日の血の匂いも、凍りつくような静寂も、ここには入り込めない。


「ほら、帰るぞ。もうすぐ日が沈む」

「ええー。ねえ、弦。お詫びに帰り道、また冒険していかない? ほら、あそこの公園に『巨大な怪獣の影』が見えるよ!」

「あれはただの滑り台だ」

「ちがうもん! あれは古代のドラゴンが眠ってる姿だよ! さあ騎士さま、聖剣を構えて!」

「カバンしかない」


 カバンの中には教科書と私物の茶道具。これで舞を守れるのか、そんな考えが一瞬頭をよぎる。

 舞は僕の腕を強引に引き、夕焼けに染まる道を走り出した。彼女の笑顔の裏にあるものを知っていても、いや、知っているからこそ、僕はその手を引き返すことはしない。


「……わかった。ただし、ドラゴンを倒したら、明日のお稽古は真面目にやれよ」

「ええー! それは等価交換じゃないよー!」


 オレンジ色の光の中、二人の影が重なり合いながら、どこまでも伸びていった。  十二年前の布団の中で夢見た『ずっと一緒にお茶を飲む未来』とは、少し形が違うかもしれない。けれど、今こうして隣を歩いているこの時間が、僕たちにとっての唯一の正解なのだと、僕は確信していた。

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