マイルド茶道
静寂が支配するはずの放課後の和室。僕は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、柄杓を構えたポーズのまま
「……おい、楠。貴様、今何を茶碗に放り込んだ?」
と、およそ茶道部員らしくない言葉遣いで、何やら不穏な動きを見せる副部長――楠舞に、氷点下の眼差しを向けた。舞は、僕の視線に気づくと「あは」と太陽のような笑顔を浮かべ、手に持っていた小袋を隠すこともなく振ってみせた。
「クリーミングパウダーだよ、弦。コーヒーとかに入れるヤツ。お茶って、ほら、ちょっと苦いじゃない? だからマイルドにしようかなって」
「……」
僕は静かに深呼吸をした。肺の奥まで畳のいぐさの香りを吸い込み、爆発しそうな理性をどうにか繋ぎ止める。
(マイルドにするな。これはラテじゃない、宇治の高級抹茶だ。茶道の五百年以上の歴史を数秒でインスタントに変えるんじゃない。あと、部活中は弦と呼ぶなと言っているだろう。僕は部長だ)
心の中ではこれだけのツッコミが高速で駆け巡っているが、表に出る僕の顔はあくまでクールだ。それがこの茶道部の秩序を守る防波堤としての僕の役割だ。
「楠。今すぐその粉末を回収しろ。さもなければ、次の合同稽古の茶菓子は君の分だけすべておしゃぶり昆布にする」
「ええっ!? ひどいよ部長! 私の美肌計画が!」
「知らん。そもそも茶道にクリーミングパウダーなど、利休が草葉の陰で泣いてる。薄茶でそれなら、今度の濃茶の稽古はどうする」
薄茶は少量の抹茶をたっぷりのお湯で点てる、割とカジュアルに楽しめるお茶だ。来月から本格的に稽古が始まる濃茶は、たくさんの抹茶を少量のお湯で『練る』。正直とても苦いお茶。
舞は「ぶー」と頬を膨らませたが、僕の視線が本気だと察したのか、渋々小袋をカバンに仕舞い込んだ。彼女は成績は悪くない、容姿も、まぁ、それなりに。性格も明るくてみんなには人気だが、致命的に「わびさび」の概念が欠落している。
すると、入部したばかりの一年生、佐々木がおずおずと手を挙げた。
「あの……楠先輩、あ、部長。前から思ってたんですけど、男の先輩が部長なのって、やっぱり女子の楠先輩がこんなんだからですか? 茶道って、こう……おしとやかな女子がやるイメージというか」
きた。恒例の質問だ。僕は柄杓を静かに置き、淀みない動作で佐々木の方を向いた。
「佐々木。茶道の歴史を紐解いてみろ。茶聖と仰がれる千利休も、各流派の歴代の家元も、その大半は男だ。戦国武将たちが死を覚悟した戦の前に、己の精神を整えるために嗜んだのも茶だ。男が茶を点てて何が悪い」
「は、はあ……。かっこいいっすね。俺はお菓子が食べられればと思って入部しただけですけど、今では部長みたいにかっこよくなりたいと思ってますし」
「分かればいい。おしとやかさなど、二の次だ。必要なのは、自己の律動を静寂に同期させることだ」
決まった。佐々木が尊敬の眼差しを向けてきている(と思う)。
「でも弦、さっきお辞儀した時、足が限界でプルプルしてたよね?」
「……楠。貴様には、明日の朝までに茶入の紐の結び方を百通り練習してきてもらう必要があるようだな」
「わ、わー! ごめんごめん! 冗談だってば!」
舞が慌てて手を振る。その拍子に、彼女が点てたばかりのお茶が激しく揺れ、せっかくのきめ細やかな泡(パウダー入り)が僕の袴に飛び散りそうになった。この部活は、いつもこうだ。静寂を愛する僕と、静寂を物理的に破壊しにくる舞。僕たちは、幼稚園の頃からずっと隣同士の家に住み、こうして腐れ縁を続けている。子供のころから一緒に遊んでいるうちに、茶道の師範である舞の祖母に入られ、今となっては実の孫以上に僕の方が茶道の手ほどきを厚く受けている。
「ほら、弦も怒ってないでお菓子食べよ? 今日は奮発して、駅前の老舗の練り切り買ってきたんだから。有美ちゃんももっとこっちに来て」
舞が佐々木同様、一年生の倉本有美を手招きする。消極的で自己主張はあまりないが、すくなくとも舞よりは茶道に適性がある気がする。
「……あ、ありがとうございますっ」
倉本が近づいたところで、僕もしぶしぶ、銘々皿に盛られた美しい和菓子に手を伸ばした。舞は、自分が一番大きな菓子を確保すると、幸せそうに頬を緩めた。その顔を見ていると、先程までの苛立ちが少しだけ、本当に少しだけ、どこかへ霧散していくのを感じる。
「弦、美味しい?」
「……悪くない」
夕暮れの学校の一角。静かな和室 (たまにうるさいが)。
オレンジ色の光が、畳の上で踊っていた。




