香りのしない女だと婚約破棄された私ですが、香りで心を操らず“寄り添う”ことを選んだら、氷の王子に溺愛されました
「お前は香りのしない、価値のない女だ」
王太子レオナルド殿下の声が、満座の大広間に響き渡った。
春の夜会。
シャンデリアの灯りが揺れる中、私──リリア・エーデルシュタインは、数百の視線を浴びながら立ち尽くしていた。
「公爵令嬢ともあろう者が、香水ひとつ纏わぬとは。
貴族社会における最低限の礼儀すら弁えぬ女に、王太子妃の資格はない」
殿下の隣には、伯爵令嬢のセレナ嬢が寄り添っている。
彼女の周囲からは、甘く華やかな花の香りが漂っていた。
バラとジャスミンを基調とした、わかりやすい香り。
社交界で好まれる、典型的な「令嬢の香水」だ。
「本日をもって、リリア・エーデルシュタインとの婚約を破棄する」
ざわめきが広がった。
同情、嘲笑、好奇──様々な感情が空気を濁らせていく。
私は何も言わなかった。
言い訳をするつもりはなかった。
香水を纏わない理由を、この場で説明したところで理解されるとは思えなかったから。
「何か申し開きはないのか、リリア」
殿下が眉をひそめる。
きっと泣き縋るか、怒り狂うか、そのどちらかを期待していたのだろう。
けれど私は、静かに一礼した。
「長らくお世話になりました、殿下」
それだけ。
殿下の表情が、わずかに歪んだ。
期待した反応が得られなかったことへの苛立ちが、その顔に滲んでいた。
私は背を向けて歩き出す。
誰も声をかけてこなかった。
ただその時、脳裏に亡くなった母の顔が浮かんだ。
王都を離れる馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。
春の風が頬を撫でる。草原の青い匂い、遠くの森から漂う木々の呼吸。
この国では、香りは特別な意味を持っている。
人の感情と記憶を繋ぐもの。社交の証。身分の象徴。
だからこそ、貴族は皆、香水を纏う。
それが当然の礼儀とされている。
だからこそ、私は香水を纏わなかった。
十二年前のことを、今も鮮明に覚えている。
母の部屋から漂う、濃密な香り。
バラ、ジャスミン、ムスク。幾重にも重ねられた香水の層。
「もう一度、振り向いてほしいの」
母は鏡の前で、何度も何度も香水を重ねていた。
父が愛人を作ったのは、私が六歳の時だった。
母は泣き、怒り、そして──香水に縋った。
「香りで心を取り戻せる。調香師がそう言ったわ」
母は毎日、新しい香水を試した。
調香師を呼び、高価な香料を取り寄せ、自分の体に幾重にも香りを纏わせた。
けれど父は、戻ってこなかった。
「なぜ……なぜ効かないの……」
母の香りは、日に日に濃くなっていった。
母は香水に執着し過ぎるあまり、自分で調香も始めだした。
しかし、残酷なことに母には調香の才能があったようで、素晴らしい香水を作っては同じような悩みを持つ公爵夫人たちに配っていた。
毎日のように部屋中が重い香水の匂いで満たされ、私は息が詰まりそうだった。
そしてある日、母は倒れた。
医師の診断は「香料による中毒症状」。
過剰な香水の使用が、母の体を蝕んでいた。
「香りでは……人の心は……繋ぎ止められないのね……」
病床の母は、そう呟いた。
その顔には、諦めと絶望があった。
母はそれから一年後に亡くなった。
香りを追い求めすぎて、自らの命を縮めたのだろう。
私はその時、誓ったのだ。
香水には頼らない。香りで人の心を操ろうとしない。
本当の自分で、愛されたい。
香りではなく、私という人間を見てほしいから。
そんなことを考えていると馬車が止まった。
王都の外れ、古い石造りの建物。
かつては誰かの工房だったらしいその場所を、私は母から受け継いだ僅かな資産で買い取った。
婚約破棄と共に、公爵家からの援助は最低限になった。
父は「自業自得だ」と冷たく言い放った。
けれど、構わない。
私にはまだ、生きる術がある。
建物の扉を開けると、埃の匂いがした。
長い間使われていなかった工房。けれど、道具は揃っている。
蒸留器、調合用の器具、精油を保管する棚。
「……香水工房、か」
皮肉なものだ。
香水を纏わないと決めた私が、香水を作る仕事をする。
けれど、生きるためには仕方がない。そして──
私は母の日記を思い出した。
病床で書かれた、最後の言葉。
『香りは、人を操る道具ではない。寄り添う、優しさなのだと思う。
私は間違えた。でもリリア、あなたなら──正しい香りを、作れるかもしれない』
母が最後に残した、希望。
「……やってみるわ」
私は工房の掃除を始めた。
工房を開いて三日目、最初の客が訪れた。
「失礼します……ここで、香水を作っていただけると聞いたのですが」
扉を開けたのは、初老の男性だった。
商人風の質素な服装をしている。けれど、その目には深い悲しみがあった。
「いらっしゃいませ。どのような香りをお求めですか」
「……妻が、先月亡くなりまして」
男性は俯いた。
「妻が好きだった香りを、もう一度嗅ぎたいのです。
形見に残された香水瓶は、もう空になってしまって」
私は静かに頷いた。
「奥様が好きだった香りについて、教えていただけますか」
「ええ……妻は、ラベンダーが好きでした。
それと……何だったか、甘い花の香りも混ざっていたような……」
「他には?季節の香りや、思い出の場所の匂いなど」
男性は目を閉じた。記憶を辿るように。
「妻と初めて会ったのは、春の市場でした。
花売りの娘だった妻は、いつも花の香りに包まれていて……」
「花の種類は?」
「スミレと……あとは、ヒヤシンスだったかな」
私は棚から精油の瓶を取り出し始めた。ラベンダー、スミレ、ヒヤシンス。
「奥様はどんな方でしたか」
「優しくて、よく笑う人でした。子供たちにも慕われて……」
男性は話し続けた。妻との思い出を。
出会った日のこと、結婚式のこと、一緒に過ごした日々のこと。
私は耳を傾けながら、香りを調合していった。
ラベンダーの穏やかさを基調に。
スミレの可憐さ、ヒヤシンスの甘さを重ねる。そして…
「お待たせしました」
小さな瓶を差し出す。
男性は蓋を開け、香りを嗅いだ。
その瞬間──彼の目から、涙が溢れた。
「これだ……これです……妻の香りだ……」
男性は震える手で瓶を握りしめた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
私は小さく微笑んだ。
これが、香りの本当の力なのかもしれない。
人を操るのではなく、大切な記憶に寄り添う。
失われたものを取り戻すのではなく、心の中にある思い出を、優しく照らす。
男性が帰った後、私は工房の窓から外を眺めた。
「お母さん……これで、良かったのかな」
答えは返ってこない。けれど、胸の奥が少しだけ温かかった。
それから、工房には様々な客が訪れるようになった。
恋人への贈り物を求める若者。仕事の成功を願う商人。故郷を懐かしむ旅人。
私は彼らの話を丁寧に聞いた。
どんな香りを求めているのか、どんな思いを込めたいのか。
そして、一人一人に合わせた香りを作った。
華やかな香りを好む人には、バラとジャスミンを。
落ち着きを求める人には、サンダルウッドとシダーウッドを。
私には母のような調香の才能はなかった。
けれど、人の話に寄り添える力はあった。
相手が本当に求めているものを理解し、それに寄り添う香りを作る。
それが、私のやり方だった。
「リリアさんの香水は、不思議と心が落ち着くんです」
ある日、常連客の一人がそう言った。
「他の香水とは、何か違うんですよね」
その言葉が、少しずつ評判を呼んだ。
『リリアの工房』という看板は小さかったが、評判が人伝に広がっていった。
秋の初め、工房に一人の男性が訪れた。
「……失礼する」
低く、抑揚のない声。
私は顔を上げ──息を呑んだ。
白銀の髪に、氷のような青い瞳。
整った顔立ちには、一切の表情がない。
第二王子、アレクシス・ヴァン・ローディア殿下。
社交界にはほとんど姿を見せず、「氷の王子」と呼ばれる方。
「いらっしゃいませ、殿下」
私は平静を装って一礼した。
「……知っているのか」
「王族のお顔を存じ上げるのは、臣民として当然のことです」
アレクシス殿下は工房の中をゆっくりと見回した。
その青い瞳が、棚に並ぶ精油の瓶を一つ一つ確認していく。
「香水を、作ってほしい」
「どのような香りをお求めですか」
「……わからない」
私は眉を上げた。
「わからない、とは?」
「俺は……自分が何を好むのかが、わからないのだ」
殿下は無表情のまま言った。
「香りを嗅いでも、良いのか悪いのか判断できない。
心地よいと感じるべきなのか、不快と感じるべきなのかが……わからない」
その言葉には、どこか諦めのようなものが含まれていた。
「……少し、お話を聞かせていただけますか」
私は椅子に座るよう勧めた。
アレクシス殿下は、幼い頃に母を亡くしたという。
「母上は、いつも優しい香りを纏っていた。それだけは覚えている」
「どんな香りでしたか」
「……覚えていない。ただ、温かかったということだけ」
殿下は窓の外を見た。
「母上が亡くなってから、俺は感情を表に出さないようになった。
泣くことも、笑うことも、怒ることも……全て、封じ込めた」
「なぜですか」
「王族は弱さを見せてはならないと、父上に言われた。感情は弱さの表れだと」
私は静かに息を吐いた。
「それで……感情そのものが、わからなくなってしまったのですね」
「……ああ」
殿下は頷いた。
「だから、香りも判断できない。
何が心地よくて、何が不快なのか。自分の感覚が、信じられないのだ」
私はしばらく考えた。
「殿下、今日はこれで一度お帰りください」
「……何だと?」
「香りは、一日で見つかるものではありません。
特に殿下の場合は、ご自身の感情と向き合う時間が必要です」
「……」
「また来週、いらしてください。その時に、少しずつお話を聞かせてください」
アレクシス殿下は、わずかに目を見開いた。
「……わかった」
それだけ言って、殿下は工房を後にした。
それから、アレクシス殿下は毎週工房を訪れるようになった。
最初は無言で座っているだけだった。
けれど少しずつ、言葉を交わすようになった。
「……今日の花は、何だ」
「カモミールです。リンゴのような甘い香りがします」
「……そうか」
殿下は花に顔を近づけた。香りを確かめるように。
「これは……嫌いではない、と思う」
「嫌いではない、ですか」
「……好きかどうかは、わからない。ただ、不快ではない」
私は小さく微笑んだ。
「それで十分です。少しずつ、ご自分の感覚を取り戻していきましょう」
三度目の訪問の時、私はある提案をした。
「殿下、様々な香りを試してみませんか?
好き嫌いではなく、ただ感じたことを教えてください」
私は棚から精油の瓶を取り出した。
「これはラベンダーの香りです」
蓋を開けて、殿下に差し出す。
「……落ち着く、ような気がする」
「では、これは?ペパーミントです」
「……目が覚める匂いだ」
「これは?」
「……重い香り」
「これは?」
「……軽い感じがする」
一つ一つ、丁寧に試していく。
殿下の表情は相変わらず無表情だったが、言葉は少しずつ増えていった。
「殿下は、感情がわからないと仰いましたが……感じてはいらっしゃるのだと思います」
私は静かに言った。
「ただ、それを言葉にすることに慣れていないだけです」
「……そうなのか」
「ええ。落ち着く、目が覚める、重い、軽い…これは全て、殿下の感覚です。
立派な感情の表現ですよ」
アレクシス殿下は、じっと私を見た。
「……お前は、不思議な女だな」
「よく言われます」
私は笑った。
つられたのかわからないが、殿下の口角がほんの僅かに上がったような気がした。
五度目の訪問。
「リリア」
殿下が初めて、私の名を呼んだ。
「はい」
「……お前は、なぜ香水を纏わないのだ」
その質問に、私は少し驚いた。
「殿下は……私が香水を纏っていないことに、お気づきでしたか」
「当然だ。初めて会った時から」
殿下は真っ直ぐに私を見た。
「他の貴族は皆、香水を纏っている。
だがお前だけが、纏っていない。……何か理由があるのだろう」
私は少し迷ったが、正直に答えることにした。
「……母が、香水に溺れて亡くなったのです」
そして、母の話をした。
父の愛を取り戻そうと香水に縋り、結果として命を落としたこと。
「母は香りで、人の心を繋ぎ止めようとしました。でもそれは……叶わなかった」
「……」
「だから私は誓ったのです。
香水には頼らないと。香りで人を操ろうとしないと」
アレクシス殿下は、しばらく黙っていた。
「……だが、お前は香水を作っているだろう」
「ええ。でも私が作る香水は、人を操るためのものではありません」
私は工房を見回した。
「人の記憶に寄り添うため、心を落ち着けるため、大切な思い出を照らすため……
香りは、そういうものだと私は思うのです」
「……なるほど」
殿下は小さく頷いた。
「お前の作る香水が、なぜ他と違うのか……わかった気がする」
「殿下?」
「お前は、香りで人を支配しようとしていない。
だから、お前の香水は……優しいのだ」
その言葉に、私の胸が温かくなった。
「ありがとうございます、殿下」
「……アレクシスと呼べ」
「え?」
「二人の時は……名で呼んでほしい」
殿下の頬が、わずかに染まっていた。
秋が深まる頃、工房に思わぬ客が訪れた。
「久しいな、リリア」
王太子レオナルド殿下。
その隣には、相変わらずセレナ嬢がぴたりと寄り添っている。
けれど、セレナ嬢の表情はどこか焦燥に満ちていた。
「殿下。ご用件は何でしょうか」
「お前の香水を、余に売れ」
私は眉を上げた。
「……香りのしない女の香水を、ですか」
殿下の顔が引き攣った。
「あれは……言い過ぎた。
だが、お前の香水には不思議な評判がある。ぜひ余も試したい」
「申し訳ございませんが、お断りいたします」
「何だと?」
「私の香水は、お客様一人一人のお話を伺って作るものです。
殿下が何を求めているのか、それをお聞かせいただかなければ、お作りできません」
「……では、聞いてもらおうか」
殿下は椅子に座った。
「余は……最近、心が落ち着かないのだ」
「落ち着かない?」
「ああ。セレナの香水を纏っていても……何か、足りない気がする」
その言葉に、セレナ嬢の表情が強張った。
「殿下、私の香水では不満なのですか?」
「いや、そういうわけでは……」
「でも、足りないと仰いました」
セレナ嬢の声が上ずっている。
その様子に、私は違和感を覚えた。
「殿下、セレナ様の香水は、どのくらいの濃度ですか」
「濃度?」
「香水の濃さです。強すぎる香りは、かえって心を疲れさせます」
私はセレナ嬢を見た。
「セレナ様、失礼ですが……最近、香水の配合を変えられましたか」
セレナ嬢の顔色が変わった。
「そ、それは……」
「もしかして、濃度を上げていませんか?」
「……」
セレナ嬢は答えなかった。
けれどその沈黙が、答えだった。
「殿下の心が落ち着かないのは、香水が強すぎるせいかもしれません」
私は静かに言った。
「香水は、適度な濃度であれば心を豊かにします。
けれど強すぎると、かえって心を乱してしまうのです」
「……そうなのか」
殿下は驚いたように私を見た。
「セレナ、本当なのか」
「ち、違います!私は殿下のために、より良い香りを……!」
「より良い香り、ではなく、より強い香りを、でしょう」
私は穏やかに言った。
「セレナ様、香りは強ければ良いというものではありません。
大切なのは、相手に寄り添う繊細さです」
セレナ嬢の目に、涙が浮かんだ。
「あなたに……あなたに何がわかるの……!
私は……私はただ……殿下に愛されたかっただけなの……!」
セレナ嬢の声は、悲痛というよりも、追い詰められた者のそれだった。
「愛は、香りで繋ぎ止めるものではありません」
私は、感情を抑えた声で言った。
「それは……私の母が、命を削って教えてくれたことです」
セレナ嬢の肩が、小刻みに震えた。
「でも……でも……それしか、方法がなかったの……」
その言葉に、私は微かな違和感を覚えた。
「それしかなかったとは……どういう意味ですか、セレナ様」
「……っ」
一瞬の沈黙。
そして、彼女はぽつりと零した。
「だって……あの人が言ったの……これを使えば、殿下は必ず振り向くって……」
私は、視線を逸らさずに続けた。
「あの人とは?」
「……調香師よ。王都の裏で……普通の香水じゃないものを扱っている人」
「……普通ではない、とは」
「感情を強くする“薬”が入っているって……」
「薬?」
私の声が、わずかに低くなる。
「……あっ……」
セレナ嬢は、はっとして口を押さえた。
殿下が、ゆっくりと眉をひそめる。
「セレナ……今、何と言った」
「ち、違います殿下……私は……!」
私は、静かに言葉を重ねた。
「つまりセレナ様は……殿下にお渡ししていた香水に、薬効のある成分を混ぜていた、ということですね」
「……っ」
「違う……私は……!」
彼女は、観念したように顔を伏せた。
「……殿下に、振り向いてほしくて……
気持ちを変えられる香水があるって聞いて……でも、それは少し危険で……」
嗚咽混じりに、言葉が零れる。
「でも……少しなら、身体に影響はないって……
殿下は鈍感だから、気づかないって……!」
その瞬間、全てが繋がった。
だから、香りの濃度を上げ続けた。
効果が薄れれば、さらに強く。心が慣れれば、もっと強く。
それは、香水ではない。
「……セレナ様、薬を混ぜた香水は、香りではなく、毒です」
私は、静かに告げた。
セレナ嬢の顔から、完全に血の気が引いた。
「香りは、人の心を正直にすることはあっても、無理やり作り変えることはできません」
私は、一歩だけ彼女に近づいた。
「それをした瞬間、それは愛ではなく、支配になります」
セレナ嬢は、床に崩れ落ちた。
「でも……でも……私には、それしか……」
殿下は、茫然と立ち尽くしていた。
「セレナ……お前は、俺に毒を盛ったのか!」
「ち、違うんです殿下……私は……!」
「もういい」
殿下の声は、低く、冷えていた。
「……余は、帰る」
「殿下!」
セレナ嬢が縋ろうとするが、殿下はその手を振り払った。
「しばらく……一人にしてくれ」
殿下は、それ以上振り返ることなく、工房を出ていった。
残されたセレナ嬢は、床に崩れたまま、うなだれていた。
私は、彼女を見下ろした。
哀れだとは思った。だが、同情はしなかった。
香りを信じすぎ、人の心を軽んじ、一線を越えた。
「セレナ様」
私は、静かに言った。
「あなたが本当に欲しかったのは、殿下の愛ではなく、誰かに、選ばれること。
香りがなくても、価値のある自分だと、認めてもらうことだったのではありませんか」
涙が、頬を伝った。
「……でも……もう……」
「まだ、終わっていません」
私は、はっきりと告げた。
「間違いを犯したからこそ、香水に頼らない人生を選ぶことができる」
私は、彼女の隣に膝をついた。
「私の母は、それができませんでした。でも、あなたは……まだ、生きています」
それから一週間後。
セレナ嬢は社交界から姿を消した。
噂では、実家に戻って療養しているらしい。
王太子殿下も、しばらく表に出てこなかった。
そして──
「リリア」
アレクシス様が工房を訪れた。
「アレクシス様」
「……お前に、見せたいものがある」
アレクシス様は小さな箱を取り出した。
中には、一枚の古い布が入っていた。
「これは……?」
「母上の、ハンカチだ。唯一残っていた、母上の香りが染み込んだもの」
私はそっと布を手に取った。
かすかに残る香り。ラベンダーと、ホワイトローズと……
「優しい香りですね」
「……ああ」
アレクシス様は目を閉じた。
「お前のおかげで、思い出せた。母上の香りを。そして……母上の温もりを」
「アレクシス様……」
「お前が作ってくれた香りを纏って、このハンカチを嗅いだ時……母上の声が聞こえた気がした」
アレクシス様は私を見た。
その青い瞳に、涙が浮かんでいた。
「泣いてもいいのよ、と……母上が、そう言ってくれた気がした」
私は何も言えなかった。
「リリア……お前は、俺に感情を取り戻させてくれた」
アレクシス様は私の手を取った。
「お前の香りではなく、お前という人間が……俺を変えてくれた」
「私は……何もしていません」
「いや、してくれた」
アレクシス様は優しく微笑んだ。
それは、初めて見る本当の笑顔だった。
「リリア……俺の傍にいてくれ」
「……はい。ずっと、傍にいます」
その後、王太子殿下が工房を訪れた。
「……リリア」
殿下の顔には、疲労の色が濃く出ていた。
「殿下。お加減はいかがですか」
「……正直に言おう。最悪だ」
殿下は椅子に座った。
「セレナの香水を纏うのをやめてから……頭痛が続いている。
眠れない。気分が落ち着かない」
「それは……香水と混ぜられていたものの依存症状かもしれません」
私は静かに言った。
「強すぎる香りを長期間使い続けると、体がその刺激に慣れてしまいます。
急にやめると、離脱症状が出ることがあるのです」
「……そうか」
殿下は頭を抱えた。
「俺は……操られていたのか。セレナに」
「いえ」
私は首を横に振った。
「セレナ様もまた……香りの力を過信していただけです」
「……」
「殿下、お尋ねしてもよろしいですか」
「何だ」
「殿下は……セレナ様を、愛していらっしゃいましたか」
殿下は長い沈黙の後、答えた。
「……わからない。あの香りの中にいた時は、彼女が世界で最も美しい女性に思えた。でも今は……」
「今は?」
「何も感じない。あれは本当に、俺の感情だったのか……」
私は少し考えてから言った。
「殿下、香りは感情を増幅することができます。
でも、ゼロから感情を作り出すことはできません」
「……どういうことだ」
「もし殿下の中に、セレナ様への好意が少しでもあったなら、香りはそれを大きくした。
でも、もし何もなかったなら……それは、香りが作り出した幻だったのかもしれません」
殿下は深く息を吐いた。
「では……俺は、幻を見ていたのか」
「それは、殿下ご自身が決めることです」
私は立ち上がり、棚から一つの瓶を取り出した。
「これを、お持ちください」
「これは?」
「カモミールとラベンダーを基調にした、鎮静の香りです。
夜、枕元に一滴垂らしてください。少しずつ、心が落ち着いていくはずです」
殿下は瓶を受け取った。
「……リリア」
「はい」
「俺は……お前に、酷いことを言った」
「婚約破棄のことですか」
「ああ。お前は香りのしない、価値のない女だと……」
殿下の声が震えた。
「だが、本当に価値がなかったのは……俺の方だった」
「殿下……」
「お前は香りを纏わなかった。
それは、お前なりの誠実さだったのに……俺は、それを理解しようともしなかった」
殿下は立ち上がった。
「すまなかった、リリア。本当に……すまなかった」
深々と、頭を下げる。
私は静かに息を吐いた。
「……顔を上げてください、殿下」
「リリア……」
「私は、殿下を恨んではいません。
あの婚約破棄がなければ、私はこの工房を開くこともなかった。
本当の香りの意味を知ることもなかった」
私は微笑んだ。
「だから……感謝しています」
殿下は目を見開いた。
「お前は……本当に、優しいな……」
「優しいのではありません。ただ、現実を受け入れただけです」
私は窓の外を見た。秋の空が、高く澄んでいる。
「殿下、これから……ご自分の心と、向き合ってください。香りに頼らず」
「……ああ」
殿下は瓶を握りしめた。
「ありがとう、リリア。そして……幸せになってくれ」
「はい」
殿下が工房を出ていく背中を、私は静かに見送った。
冬の初め、工房に特別な訪問者があった。
「リリア・エーデルシュタイン」
声の主は、王宮の侍従長だった。
「陛下が、お呼びです」
「……陛下が?」
「はい。王宮にて、調香師としての才能を認められ、正式に王室御用達の香水師として任命したいとのことです」
私は驚いた。
王室御用達──それは、この国で最高の名誉の一つだ。
「ですが……私はまだ、修行中の身です」
「陛下は仰いました。『技術ではなく、心を見る』と」
侍従長は微笑んだ。
「あなたの香水は、人々の心に寄り添う。
それこそが、真の調香師の資質だと」
王宮での儀式は、厳かなものだった。
国王陛下の前で跪き、香水師としての誓いを立てる。
「リリア・エーデルシュタイン。汝の才能を、この国のために役立てよ」
「謹んでお受けいたします」
儀式の後、私に与えられたのは王宮内の調香室だった。
広々とした部屋には、この国のあらゆる香料が揃っている。
貴重な精油、乾燥させたハーブ、遠い国から取り寄せた香木。
「……すごい」
「気に入ったか」
振り向くと、アレクシス様が立っていた。
「アレクシス様!」
「俺が、推薦したのだ」
「え?」
「お前の才能を、父上に伝えた。
お前がどれだけ人々の心に寄り添っているかを」
アレクシス様は私の隣に立った。
「リリア……お前は、この国の宝だ」
「そんな……私はただ……」
「謙遜するな」
アレクシス様は私の手を取った。
「お前は、香りという言葉で、人の心を癒している。
それは、誰にでもできることではない」
私の目に、涙が浮かんだ。
「アレクシス様……」
「リリア」
アレクシス様は私を抱きしめた。
「俺の妃に、なってくれ」
「……え?」
「お前がいてくれれば、俺は何も恐れない。
感情を封じ込める必要もない」
アレクシス様の声が、優しく響く。
「お前の傍にいれば……俺は、俺自身でいられる」
私は彼の胸の中で、静かに泣いた。
「……はい」
小さく、けれどはっきりと答えた。
「喜んで、お傍に」
その夜、私は調香室で一人、特別な香りを作っていた。
アレクシス様のための香り。
いや、違う。
私たち二人のための香り。
ラベンダーの優しさ。ローズの気品。サンダルウッドの温もり。そして──
ホワイトムスクの、静かな繋がり。
香りが立ち上った瞬間、扉が開いた。
「まだ起きていたのか」
扉を開けたのはアレクシス様だった。
「この香りは……?」
「私たちの香りです」
私は微笑んだ。
「アレクシス様と私、二人の……」
アレクシス様は香りを嗅ぎ、そして──笑った。
本当の、心からの笑顔で。
「……温かい」
「ええ」
「これが、愛の香りか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「香りは、愛ではありません。
ただ……愛を、そっと包んでくれるものです」
アレクシス様は私を抱き寄せた。
「リリア……お前は、俺に全てを教えてくれた」
「私こそ、教えていただきました」
私は彼を見上げた。
「香りは人を操るものではなく、寄り添うものだと。
そして……本当の愛は、香りがなくても育つものだと」
「……ああ」
アレクシス様は私の額にキスをした。
「お前という人間を愛している。お前の香りではなく」
「私も……アレクシス様ご自身を、愛しています」
調香室の窓から、冬の月が見えた。
静かで、穏やかな夜。
香りに満たされた部屋で、私たちは静かに抱き合っていた。
春が来た。
王宮の庭園には、新しい花々が植えられた。
ジャスミン、ローズ、ラベンダー。私が選んだ、香水の原料になる花たち。
「リリア妃殿下」
侍女が呼びかける。もう、その呼び名にも慣れた。
「今日も工房へいらっしゃいますか」
「ええ」
私は王宮の一角に、小さな工房を持っている。
王室御用達の香水師として、公務で香りを作ることもある。
けれど週に二日は、町の人々のために工房を開いている。
「リリア様、今日もお願いします」
「母の形見の香りを、作ってほしいのです」
「恋人への贈り物を……」
人々の声に耳を傾け、一人一人に寄り添う香りを作る。
それが、私の仕事。私の喜び。
「リリア」
アレクシス様が工房を訪れた。
「お昼の時間だぞ」
「あら、もうそんな時間ですか」
「お前は、また時間を忘れて作業していたな」
アレクシス様は呆れたように笑った。その表情は、かつての無表情とは全く違う。
「今日は何を作っていた?」
「明日の舞踏会で使う、会場の香りです」
私は瓶を見せた。
「春の花々の香り。華やかですが、押し付けがましくない……」
「お前らしいな」
アレクシス様は私の手を取った。
「では、昼食にしよう。今日はお前の好きな料理を用意させた」
「楽しみです」
二人で工房を出る。
廊下を歩きながら、ふと窓の外を見た。
王都の街並みが見える。
あの日、婚約破棄されて出ていった街。
「……何を考えている」
「いいえ、少し……昔のことを思い出していました」
「後悔しているのか」
「まさか」
私は笑った。
「あの時があったから、今がある。後悔なんて、一つもありません」
「……そうか」
アレクシス様は私の手を握る手に、力を込めた。
「俺も、後悔はない。お前と出会えたことが……俺の人生で、最高の幸運だ」
「私もです、アレクシス様」
その夜、寝室で。
「リリア」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか」
「何でしょう」
「お前は……自分に香水を纏うことは、考えないのか」
その質問に、私は少し考えた。
「……いいえ、今でも纏いません」
「なぜだ?」
「香りを纏わない私を、アレクシス様は愛してくださった」
私は微笑んだ。
「だから、これでいいのです。これが、私ですから」
アレクシス様は優しく笑った。
「……そうだな。お前はお前のままでいい」
彼は私を抱き寄せた。
「香りがなくても、お前からは……温もりの匂いがする」
「温もりの匂い?」
「ああ。言葉では説明できない、お前だけの匂いだ」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「アレクシス様も……同じ匂いがします」
「そうか」
「ええ。それは……愛の匂いかもしれません」
二人で静かに笑った。
月明かりが差し込む寝室。
香水の香りはしない。けれど、確かに感じる温もり。
それが、私たちの愛の形だった。
翌朝、工房に一通の手紙が届いた。
差出人は──セレナ。
『リリア様
お元気でしょうか。
私は今、実家で静養しています。
あの日、あなたが言ってくれた言葉を、ずっと考えていました。
「香水に頼るのをやめる」
最初は、できないと思いました。
香りなしで、誰かに愛されるなんて、無理だと。
でも……試してみました。
香水を纏わずに、ただ自分として、人と向き合うことを。
最初は怖かったです。
誰も振り向いてくれないのではないかと。
でも、不思議なことに……
香りを纏わなくなってから、人が話しかけてくれるようになりました。
前より優しくなったね
と、使用人がそう言ってくれました。
私は、香りに頼りすぎて、自分を見失っていたのだと思います。
あなたのように、誰かに寄り添うことができなかった。
でも、これから……少しずつ、変わっていけると思います。
いつか、もう一度お会いできる日を。
その時は、香水なしの私を見てください。
セレナ』
私は手紙を丁寧に畳んだ。
「……セレナ様」
彼女も、香りの呪縛から解放されたのだ。
「頑張ってください」
小さく呟いて、私は今日の仕事に取りかかった。
王宮の庭園に、新しい花壇ができた。
「リリア妃のための花壇」と、人々は呼ぶ。
そこには、あらゆる香りの花が植えられている。
バラ、ジャスミン、ラベンダー、カモミール、スミレ。
「綺麗ですね」
侍女が言った。
「ええ。でも……」
私は花々を見つめた。
「花は、人に見せるために咲いているわけではないのです」
「え?」
「花は、ただ咲く。そこにいる。それだけで、価値がある」
私は花に触れた。
「香りも同じです。誰かを魅了するためではなく、ただそこにある」
侍女は不思議そうな顔をしたが、やがて微笑んだ。
「リリア様は……本当に、花のような方ですね」
「そうかしら」
「はい。香りを纏わずとも、美しい」
私は笑った。
その夜、アレクシス様と二人で庭園を散歩していた。
「リリア」
「はい」
「幸せか」
「はい、とても」
「……そうか」
アレクシス様は空を見上げた。
「俺も、幸せだ」
「良かった」
「お前がいなければ、俺は今でも……感情のない人形のままだっただろう」
「そんなことありません」
私は首を横に振った。
「アレクシス様は最初から、豊かな心を持っていらっしゃいました。
ただ、それを表に出す方法を知らなかっただけです」
「……お前が、教えてくれた」
「いいえ、アレクシス様ご自身が、見つけたのです」
私は彼の手を握った。
「私はただ……傍にいただけです」
「それで十分だ」
アレクシス様は私を抱きしめた。
「これからも、ずっと傍にいてくれ」
「もちろんです」
私は彼の胸に顔を埋めた。
庭園に、花々の香りが漂っている。
バラの甘さ、ラベンダーの優しさ、ジャスミンの気品。
でも、私たちを包んでいるのは──
香りではなく、愛だった。
本物の、揺るぎない愛。
「アレクシス様」
「何だ」
「愛しています」
「……俺も、愛している」
月明かりの下、私たちは静かに抱き合っていた。
香りのしない悪役令嬢は、こうして──
本当の愛を、見つけたのだった。
【完】




