間話2 冬夜の深淵
中学三年の夏、炎天下。
クラス対抗リレー。走順は出席番号。
苗字が黒木の僕は走る順番が早めだった。
僕はクラスでは少し足が速い方――いや、当時の僕は自分の脚力を過大評価していた。
勘違いだったかもしれない。
でもその時の僕は、自分の能力に疑いなどなく、プライドだけは一丁前にあった。
周囲の目なんて、微塵も気にしていなかった。
スタートラインに立った瞬間のあの感覚は、今でも鮮明だ。
太陽が容赦なく肌を焼き、運動場の土の匂いが鼻を突き、乾いた風が顔に当たる。
バトンが手に触れた瞬間、心臓が一瞬止まったような感覚。――ほんのわずかなタイミングの狂いで………
バトンは手のひらから滑り落ちた。
「あ……」
時が止まった。
頭が真っ白になる。血の気が引き、心臓が喉まで跳ね上がる感覚。
一瞬の冷気のあと、掻きむしりたくなる痒みが全身を襲う。
ーーその後の記憶はよく覚えていない。
「はぁ……はぁ……!!」
走る、走る、走る、走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走走走走れ!!!
何かから逃げるように、言い訳をするように、少しでも罪を軽くするように。
当然ここは日本。付与魔術などない。
人間の……中学生の全力疾走などたかが知れている。
「なにやってんだよ、黒木ぃ!!」
「ありえない、マジでさぁ〜」
「うわぁ……。」
聞こえる。
いや、幻聴だ、幻聴であってくれ!!
砂埃を巻き上げ、靴の中に細かなものが微かに混じる感覚。
喉が乾き、身体中から嫌な汗が流れ出る。
グラウンドを一周して戻ってくるのがこんなにつらいことなどない。
今すぐ逃げ出したいこの足を次の走者に向け、力を振り絞る。
目が見えない、潤っている。汗のせいだ。
もうすぐ、もうすぐだ。
テイクオーバーゾーンに入り、腫れ物を押し付けるかの如く次の走者にバトンを押し付ける。バトンを次の走者に渡す瞬間、やっと現実に戻った。
バトンを渡した瞬間、ほんの少しだけ安堵したのを覚えている。
だが、安堵は一瞬で消えた。
「はぁ……はぁ……ゲホッ!ゲホッ!!」
息が苦しい……呼吸が辛い……目が潤い、前がちゃんと見れない。
いや、今は見れない方がいいのかも知れない。
「……何やってんの?」
そう一言、女子が告げる。
冷たい。怒っているはずなのに感情がない。
淡々と起こった事実に告げるように、絶対的な悪に鉄槌を下すように。冷徹で芯のある一言だった。
失敗したのは僕だ、バトンを受け取れなかった僕だ………。
なのに、その一言で僕はカチンと来てしまった。
(俺より足が遅いくせに……!!)
格下の一言が許せなかったのだ。
「……いや、渡したやつが悪いって、俺のせいじゃ……」
口に出した瞬間、空気が冷たく沈むのを感じた。言い訳だった。
自己保身のために無意識に繰り出した言葉。
だが、そんな言葉はさらに周囲の怒りに火をつけるだけだった。
呆れた目、軽蔑の視線、怒鳴り声が、耳の奥で響く。
「は?何言っての?落としたのお前じゃん。」
「黒木、何様だよ」
「自己中すぎる……」
「ほんと、ありえない。」
一言一言が胸に刺さり、疾走で温まった身体を凍らせる。
心が引き裂かれ、孤立感と絶望感が、骨の髄まで染み込んだ。
それでもこの馬鹿はやめなかった。
「いや、渡した奴の角度が悪かったんだ! 俺のせいじゃない!!」
「は?」
「もういいよ、こいつ」
「加藤さん可哀想〜」
さらに鋭く刺さる視線。声が飛んでくる。
失望、呆れ、怒りが入り混じり、全員が僕を一斉に見ているように感じた。
自分がどれほど愚かで、自己中心的で、未熟だったかを、全身で思い知らされる。
胸の奥で、痛みがぐちゃぐちゃに絡み合う。
涙が出そうになるけれど、手は震え、体は硬直して動けない。
自己評価とプライドで満ちていた僕は、あっという間に地の底へ叩き落されていた。
………クラスは最下位だった。




