第1話 神の誤送信
……ああ、いい匂いだ。あたたかい……。
最初に感じたのは、包み込まれるような心地よさだった。
アロマのような、強すぎず弱すぎず、すべてが絶妙に調和した空気。
……ここはどこだ?
辺りは淡いピンク色の靄に包まれていて、周囲の状況がまるでわからない。
いや、それ以前に──自分の状態すら不明だった。
立っているのか、座っているのか、それとも浮いているのか……。
足どころか、手の感覚もない。
まるで肉体というものから切り離されたような、自我だけがポツンと浮かぶ存在。
「夢だな」
そう結論づけるのに、時間はかからなかった。
ラノベを買って、熱中症で倒れたのも、全部夢だ。
夢はいつだって支離滅裂で、現実味がない。
そうだ、これは夢──
「あなたは熱中症で倒れ、そのまま意識不明になったのです」
!?
声がした方向に咄嗟に振り向く。
そして、俺は息を呑んだ。
そこには、一人の女性が立っていた。
薄い桜色の髪に、透き通るような白い肌。
浮世離れした服装。浮世離れした顔立ち。
でもなにより、まるで二次元から抜け出してきたようなその存在感に、僕は言葉を失った。
ただ一言、思った。
美しい……。
本能がそう告げた。
異論なんて、あるはずもない。
「はじめまして、黒木冬夜さん。私はレルワニ。あなたの世界でいうところの“女神”です」
女神──そう彼女は名乗った。
俺ももう子どもじゃないし、厨二病も卒業してる。
けれど、その言葉を聞いても「嘘だろ」とは思わなかった。
むしろ、自然と受け入れていた。
なぜなのかはわからない。
彼女の纏う空気のせいか、この場所の雰囲気のせいか……。
いずれにせよ、「この人は女神だ」と俺の中の“現実”が納得していた。
……まるで夢の中のように。
夢の中では、空を飛ぶことも、魔法を使うことも自然なことだ。
そんな感じだった。
「混乱しているところ申し訳ありません。これから事情を説明しますので、どうか心を落ち着けてください」
その声は、まるで脳に直接語りかけられているようだった。
ASMR顔負けのささやき声。聞くだけで心がほぐれていく。
(鈴を転がすような声だな……。ずっと聞いていたい)
「ふふっ、そう言っていただけると照れますね」
……え?
俺、今、口に出してたか?
「いいえ。ここでは、あなたの“思考”そのものが私に伝わります」
思考が漏れてる!?脳内傍受だ、アルミホイル巻かないと、
「褒めていただけて嬉しいですよ」
そう言って女神様は微笑んだ。
あまりの可愛さに、思考が吹き飛びそうだ。
「では、本題に入りましょう。あなたは現在、生死の境にいます。炎天下で倒れ、このままでは命が危うい状態です」
一気に現実に引き戻される。
……そうだ。俺は今、倒れてるんだった。
「なにか助かる方法は……!?」
「ご安心ください。ここは天界。あなたの世界とは時間の流れが異なります。あなたの命は、私が繋ぎ止めています」
命を繋ぎ止めている──。
抽象的だが、不思議と信じることができた。
「あなたには、二つの選択肢があります。一つは“運命を受け入れること”。もう一つは、“私と取引を交わすこと”」
「運命を……受け入れる?」
「はい。今のあなたの肉体に干渉せず、そのまま見守ること。つまり、奇跡的に誰かがあなたを助けなければ、あなたは死にます」
「もう一つは?」
「命の保障と引き換えに、私と“契約”していただきます」
そう言うと、彼女は手のひらに載せた水晶を俺に示した。
水晶の中には、見たこともない町が映っていた。
高層ビルと石造りの建物が混ざり合い、魔法のような光が街路を照らしている。
「ここは、あなたの世界で“異世界”と呼ばれる場所です」
異世界──。その響きに、なぜか胸が高鳴った。
「この世界は、科学ではなく魔術と錬金術により発展してきました。
私はこの世界で“魔王候補”の捜索をしており、その手伝いをしてほしいのです」
「魔王候補……?」
「将来的に世界に甚大な被害を及ぼす可能性が極めて高い人物のことです」
「それを見つけ出せば、僕の命は助かる?」
「えぇ。見つけられなくても構いません。あなたが協力してくれるだけで十分です。
そして、もし魔王候補の発見に成功した場合──
あなたの“どんな願い”も、一つだけ叶えましょう」
どんな願いでも……?
「じゃあ俺の黒歴史、消してもらうこともできますか!?」
「歴史の修正はできませんが、関係者すべての記憶を書き換えることは可能ですよ」
その瞬間、俺の中で何かが吹っ切れた。
「やります。契約、します。異世界で魔王候補を見つけ出してやりますよ!」
女神様は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔が、本当に“感謝”の気持ちから出たものだと、俺にはわかった。
「では、いくつか事前にご説明を──」
少しだけ間を置いて、僕は口を開いた。
「……いくつか、質問してもいいですか?」
女神様は静かに頷いた。
柔らかな光が彼女の髪と衣をなで、まるで水面に咲いた桜の幻のようだった。
「ええ。どうぞ。どんなことでもお答えします」
⸻
Q. 魔王候補を探すって……具体的には何をすればいいんですか?
「これからあなたには、魔王候補が潜んでいるとされる“学園”に生徒として潜入していただきます」
女神様は、手をかざすと空中に淡い光のスクリーンを映し出した。
そこには、白い塔と緑の広がるキャンパスが、まるで映画のワンシーンのように映っている。
「学園内で怪しい人物や兆候を感じたら、私に報告してください。それだけで構いません」
「……まるで探偵みたいですね」
「ふふっ、確かに」
女神様は楽しげに微笑む。光がその輪郭を際立たせ、ほんの一瞬、時間が止まったように感じた。
⸻
Q. 異世界の言葉とか生活、ちゃんと対応できるんですか?
「言語に関しては心配いりません。転移先の身体に“言語理解機能”を付与してあります。読むことも、話すことも、すべて自然にできます」
ハイテクすぎる……いや、ハイマジック?
「生活様式についても、あなたの世界とそれほど変わりません。
この世界では“魔術”や“錬金術”がインフラとして機能しており、科学技術の代わりに文明を支えています」
女神様が指先で空をなぞると、魔力で動く照明や浮遊する乗り物、店舗の街並みなどが連続して浮かび上がった。
「全体的に、魔法で動く現代日本のような世界と考えてもらえれば、違和感は少ないはずです」
なるほど……異世界とはいえ、“異物感”は控えめなんだな....
⸻
Q. 正体がバレたりしたら、どうなるんですか……?
「女神である私の存在を認識できる人間は、ごく限られています。
仮にあなたの正体が疑われても、ほとんどの人間は“そんなもの信じない”でしょう」
「……それはそれで辛いですけどね」
「ただし、危険を感じた場合は即座に私に呼びかけてください。
魔力によってあなたを保護、あるいは転移させる措置をとります」
「心強いです」
女神様の声は静かで優しかった。
その音が、緊張していた僕の鼓動を、少しずつ落ち着かせてくれる。
⸻
Q. ……もし、あちらの世界で僕が死んだら?
「転移先の身体は、私が作った“人造人間”です。
人間に限りなく近い構造ですが、耐久力は一般人よりも高く設定されています」
「……ってことは、痛みもあるってことですよね?」
「はい。ただし、身体に重大な損傷が生じた場合、私が癒します。
けれど、心の傷は完全に消えない場合もあります……。どうか、無理はしないでください」
⸻
Q. 最後に、どうして僕を選んだんですか?
女神様のまなざしが、わずかに揺れる。
その瞳は宝石のように澄んでいるのに、どこか“ためらい”の色があった。
「……学園に潜入する以上、条件は“学生であること”が必須でした。
さらに、ある程度の学力と、精神的な順応性も必要で……」
「……それと、僕の性格的に“頼めば受けてくれそう”だったから、ですか?」
どうせ思考は聞かれているんだ。
本音で聞こう。
女神様は静かに、けれど申し訳なさそうに頷いた。
「……正直に言うと、はい。ごめんなさい。でも……もう一つ、理由があります」
彼女は手を前に差し出し、指先に小さな光球を浮かべた。
「あなたには、“この世界では発現していないある能力”があります。それが、私の目に止まりました」
「能力……?」
「詳しくは、後ほど。いずれ必ず目覚めるはずです。焦らずに受け入れてください」
僕は一瞬だけ目を伏せて、それから顔を上げた。
「……質問は、以上です。準備、できてます」
女神様は、ほっとしたように微笑んだ。
「では、転移の儀式を開始します。行き先は、デア王国・アルディア市内にある“聖エクス学園”です。
あなたはすでに制服を身に着けた状態で転移されますので、生徒として自然に振る舞ってください」
「制服、ありがとうございます」
「それでは──手を、取ってください」
僕はそっと、彼女の手に触れた。
小さくて、温かくて、でも確かな感触。
「黒木冬夜さん。あらためて……ありがとう。どうか、ご無事で」
「……任せてください。必ず、魔王候補を見つけてみせます」
言い終えると同時に、僕の身体が淡い光に包まれていく。
景色が崩れ、視界が白く満ちていく。
──が。
「……あっ、嘘っ」
「え?」
その声が最後に響いた。
え、今の、何? 女神様、なんかミスった?
白で埋め尽くされた世界が、じわじわと色づいていく。
重なっていた光の層がはがれ、ぼんやりとした線が輪郭を持ち始める。
目の前に広がったのは、白と木目を基調とした、まるでリゾートのような内装の廊下。
外の窓からは、高層ビルがいくつも見える。…かなり都会だな。
そして、廊下の先にはいくつもの部屋。プレートに書かれた記号──301、302、303。
学校……にしては……あれ?
「ちょっと、そこのあなたっ!!!」
甲高く、通る声が響いた。
僕は反射的に声の方へ振り返った。
そこには、一人の女生徒が立っていた。
金髪ストレートの髪がさらりと揺れ、青い瞳に凛とした光を宿している。
細長い足、華奢な腰、抜群のスタイル……って、それは置いといて。
「な、なにか……?」
「ここ女子寮よ!? なんで男がいるのよ!!?!」
……はい。完全にやらかしてますね、女神様。
さっきのあの顔、
「やっべ」って表情してたわ……。
「ち、違います!僕は怪しい者じゃ……」
「どこのクラスの生徒!? 先生に言いつけてやるんだからっ!!」
異世界に来て、わずか1分。
僕の異世界生活、すでに終了しそうです──