プロローグ 灰色の青春
「正解は、42abです!!」
中学2年、数学の授業。
多項式の問題。
先生の「この問題、解ける人?」の声に、僕は迷わず手を挙げた。
自分で言うのもあれだが、当時の僕は勉強ができた。
黒板の前に立ち、チョークを握る手に自信が宿っていた。
――俺ならできる。誰より早く、完璧に。
一気に式を展開し、最後の答えを書き込む。
「どうだ!」と振り返ったその瞬間、教室は静まり返った。
……え?
凍りついた空気を破ったのは、先生の声。
「惜しいね!でも、不正解。」
明るい声とは裏腹に、胸に刺さる針のような言葉。
クラスのどこかから、くすりと笑う声が漏れた。
「マジかよ……」
「おい、マイナスだろそれ。」
「ドヤ顔じゃん……」
後ろの席の奴らが笑いを堪えるようにうつむく。
「あー、はっず……」と、わざとらしく呟く声まで。
黒板には、誰の目にも明らかな計算ミスが大きく書かれていた。
その瞬間、俺の血の気は一気に引いた。
「お、おかしいな……」
乾いた笑いで誤魔化そうとするけど、耳の奥がジンジンする。
頬が熱い。呼吸は浅くなる。
“穴があったら入りたい”って、まさにこういう時のための言葉だ。
あの光景が、今でも鮮明に頭を支配している。
思い出すたび、全身が縮こまって死にたくなる。
***
ーーー共感性羞恥。
他人の言動に共感して、自分まで恥ずかしくなってしまう現象。
ドラマの登場人物が滑ったとき。
動画で痛い発言をするインフルエンサーを見たとき。
あれと似ている。けれど、もっと深刻なやつ。
特に――自分の過去となると、最悪だ。
僕は中学生時代、典型的な“イタい奴”だった。
自分は頭が良いと思い込んで、誰も頼んでないのにクラスの空気を乱し、
反論されると黙り込んで、「理解されない俺」に酔っていた。
……それが、かっこいいと思ってたんだ。
まるで、物語の主人公にでもなった気で。
現在、高校一年、15歳。
今になって振り返ると、全身が焼けるように恥ずかしい。
これはもう「いたたまれない」ってレベルじゃない。
思い出しては、思い出しては、
変えられもしない過去に苦しめられる。
でも、もしかしたら。
この“いたたまれなさ”を直視できるようになったときこそ――
僕は過去を乗り越えられるのかもしれない。
***
「ありがとうございますーーーっ」
書店を出ると、ムワッとした熱気が僕を出迎える。
強すぎる日光に顔をしかめながら、袋の中の新刊ラノベを確認する。
『青春偏差値全国一位の高校で陰キャはどう生きていくべきか』
僕が今いちばんハマっているシリーズだ。
読んでるだけで、自分がちょっとマシな人間になれた気がする。
小説って、結局は“共感性”がすべてだと思う。
登場人物に自分を重ねることで、
友達のいない高校生活………
現実から一瞬だけ逃げられる……。
そう考えていること数分ーー。
赤信号。
僕は歩みを止めた。
車なんて一台も走ってないけど、ラノベのヒロインならきっと待つ。
……だから、今日は僕も待つ。彼女の前では、ちゃんとしていたいから。
坂の向こうから風が吹く。汗ばんだ首をかすめていった。
しかし、8月というのに蝉の声が聞こえない。
最近の酷暑の影響というのだ。
この道は僕が小中学校時代の通学路だ。
高校生になってから全く歩いていないが、
こうしてみると懐かしいものだな………
――気づけば、思い出していた。
中学の夏。
ポケットに手を突っ込んでカッコつけて歩いていたら、見事に転倒した日のこと。
後ろの女子に笑われた。
ただの転倒なのに、なぜか今でも思い出すと呼吸が苦しくなる。
「クソが……」
感傷に浸ろうとした瞬間、思わぬトリガーが僕の過去を呼び起こす。
もしも、神様にお願い事ができるなら、このフラッシュバックをなくしてもらいたい。
あ、青。
信号が変わり、ようやく歩ける。
駅近の本屋から徒歩数分にも関わらず、ここは人通りが少ない。
家まで少し遠回りだが、僕はこの人気のない雰囲気が好きだ。
太陽がじわじわと僕の意識を奪っていく。
不気味なほど静かな夏。アスファルトの照り返しで、視界がゆらぐ。
ちょっと舌を動かすと、テープみたいに上顎からベリっと剥がれる。
喉が、カラカラだ。
ラノベを買ったせいで水を買う金すらない。
ん?
体が、妙に軽い。
いや、重い? のか?
足が地面にくっついている気さえする。
熱を溜める黒シャツの中、汗はすでに乾いていた。背中は張りついて、でも感覚はない。
……あれ、僕、さっきまで何考えてたっけ。
思考が、もつれていく。
目の奥がズキズキと痛む。
ドサッ、と落下音。
ラノベを僕は落としていた。
いつの間にか、僕は手の感覚がなくなっていた。
「っ……!」
世界が、斜めに傾いた。
ーー否、これはーー。
崩れるの感覚などとうになかった。
一瞬、頭に強い衝撃が走り、
自分の頬が、焼けたアスファルトに触れた。
痛いはずなのに、何も感じない。
熱いはずなのに、感覚がない。
意識の奥で、何かがふっと切れる。
最後に思い出したのは、中学の廊下で滑って転んだ日のことだった。
あの女子の笑い声。真っ赤になった顔。
……ああ、学生生活、やり直したい。