第2章:忘れ香の塔編-第5話:玲華の記録香
観香庁の試香室。
静華は厳重な封印を解きながら、手の中の香壺を見つめていた。
《玲華・記録香 第十一式》
記録塔の最上階で見つけた、小さな香壺。
それは、玲華が遺した「未公開の香」だった。
(母さん……あなたは、何をこの香に記したの?)
香壺を開く。
立ち上るのは、静かで、深い香気――。
——白梅の冷気。
——蜜柑の皮。
——ほのかな紅花。
そして、遠く潮のような香りが重なる。
静華は香濾布を当て、慎重に呼吸を整える。
すると、記憶のような映像が、淡く意識の底に流れ込んできた。
暗い室内。
記録塔の最上階。
玲華が一人、香を焚いていた。
(これは……母さん自身の記憶)
「……これが、“香に記憶を封じる術式”。香は記録であり、同時に鍵にもなる」
玲華の声が、香気の中から響く。
それは日記でも、手紙でもなく、香に“封じた思念”そのもの。
「塔の奥には、“鈴香”を使う者がいた。香によって記録を改ざんし、記憶すら上書きする」
「その女は――リュウと名乗った。私は彼女を“鈴の女”と呼んだ」
静華は息を呑んだ。
(リュウ……!)
「リュウは、帝国がかつて隠した“記録抹消の術式”を扱う調香師。
記録官として香に記憶を封じ、そして消していた。
……だが私は、忘れない。香はすべてを記憶している」
場面が変わる。
玲華が誰かと対峙している。
黒衣の女。手には銀の鈴と、煙を上げる香壺。
「静華を巻き込むわけにはいかない。記録香第十一式に、私の記憶を封じる。
あの子が真実に辿り着く頃、これが開かれるように」
玲華は静かに香を焚きながら、こう呟いた。
「香は、真実を閉ざすためにあるんじゃない。人を導くためにあるんだよ――」
香が消えたとき、静華の目には涙が浮かんでいた。
「母さん……あなたは、“鈴の女”と戦っていた」
記録香の中に刻まれていたのは、玲華の最後の意志と、真実への導き。
静華は香壺を静かに閉じ、胸に抱いた。
(“鈴の女”リュウ……香を記録し、記憶を封じる調香師。
塔の記録官殿が言った“あの女”は……今もどこかにいる)
その時、扉がノックされた。
「静華様。新しい証言者が現れました。塔で数年前に働いていた記録官です。
彼は、玲華様と“鈴の女”を直接見たことがあると――」
静華は立ち上がり、香包を握った。
「行きます。すべてを繋ぐ“最後の記録”が、そこにあるかもしれないから」
香の記憶は目を閉じてなお、静かに囁いていた。