第2章:忘れ香の塔編ー第3話:記録官の沈黙
記香塔で倒れた記録官・殿は、観香庁の離れの静養室にいた。
薬香と鎮静香の柔らかな香りが漂う部屋。
そこに入った静華は、香包を胸に、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「殿さん、少しだけ……お話、できますか?」
中年の記録官は、しばらく天井を見つめたまま、かすかに眉を動かした。
「あのとき、私は……何を見ていたんだろうな」
声はかすれていたが、意識ははっきりしているようだった。
「香材を整理していたとき、棚から強い香気が漂って……それから……気づいたら、意識が」
「その香……どんな香りでしたか?」
殿は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
「甘い……けれど、冷たい香り。そうだな……冬の夜、凍った花のような……」
静華は、玲華の香と“鈴香”の調香帳の記述を思い出す。
(やはり、同じ系統……)
「もう一つだけ、お願いします。何か音を聞きませんでしたか? たとえば……鈴の音のようなもの」
その瞬間、殿の目が見開かれた。
だが次の瞬間には、表情が硬直する。
「……鈴?」
言葉を繰り返したのち、殿は急に肩を震わせ、こめかみを押さえた。
「……っ、あの音は、あれは……いや、思い出せない……!」
静華は慌てて香包から“鎮静香”を取り出し、小さな香壺で香を焚く。
柔らかな煙が広がり、殿の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
(香を思い出すと同時に、記憶が“拒絶”してる……これが、記憶封じの香の副作用?)
それは、香によって“記憶を閉ざされた者”が、再びその記憶に触れようとしたときに現れる反応。
記録官の口が小さく動く。
「……塔の、最上階……あの階には、誰も入れないはずだった……。けど……いたんだ。あの香……誰かが……」
そこまで言ったとき、再び意識が揺らいだ。
「……鈴の……女……」
静華は殿を寝台へ横たえながら、心の中でつぶやいた。
(“鈴の女”……それは、玲華の記録にもあった。香を操る存在……もしかして、今も塔に?)
その夜、静華は観香庁の香童資料室に籠もっていた。
調べていたのは、「鈴香」と関連する古い記録。
すると、かつて香都街で囁かれていた一つの伝承に行き当たる。
――《忘れ香の塔には、夜な夜な鈴の音が響く。あれは、記録された香の“声”だ》
――《鈴を鳴らすのは、過去を封じた女。彼女は塔とともに在り、香の記憶を守っている》
(香の記憶を“守る”? それとも……封じている?)
塔の最上階――誰も入れないはずのその場所で、玲華もまた“鈴の音”を記録していた。
今、同じ場所に、静華は導かれようとしている。
香が、記憶を訴えている。
そしてその奥に、“鈴の女”の存在が、香気の向こうで微かに輪郭を帯び始めていた。