第2章:忘れ香の塔編ー第1話:記録官の眠り
帝都・第三記香塔。
そこは、帝国中の香材と香式の記録を保管する施設のひとつだった。
静華が到着した時、塔の前には香童と衛兵が慌ただしく動いていた。
空には薄雲がかかり、春とは思えぬ冷たい風が吹いている。
「観香官殿、お待ちしておりました」
出迎えたのは塔の管理責任者・紀司。
青衣の中年男性で、元々は調香司に籍を置いていた人物だ。
「倒れた記録官の容体は?」
「命に別状はありません。ただ……香材を確認中に突然昏倒し、目覚めてからは記憶が曖昧なようで」
「記憶が……?」
静華の眉がわずかに動く。
(まさか、“記憶を封じる香”が使われた?)
「倒れた現場を見せてください」
紀司に案内され、静華は塔の内部へと入った。
第三記香塔の内部は、香材の特性別に整然と分類され、古香、毒香、薬香、調香草といった区画に分かれていた。
昏倒が起きたのは、禁香草を保管する“閉架区画”の一角。
地の香材を抑えるため、換気と結界香の層が厳重に張られている。
「当日、記録官の殿はこの区画で香材の整理をしていたようです」
静華はその場に跪き、香包から小さな布片を取り出して口元に当てた。
“香濾布”――微香の漂う空間で呼吸と分析を同時に行うための道具だ。
香の層を読み解くように、ゆっくりと深く息を吸い込む。
……微かな異香。
本来この部屋には存在しない、淡く甘い気配。
それは、眠気と焦燥を誘う不協和な香調だった。
「これは……複合香。二種以上の香材が重ねられています」
静華の脳裏に浮かんだのは、母・玲華が記した言葉。
――《記憶に眠る香を、封じてはならない》
(まさか……)
閉架区画をさらに奥へと進むと、棚の一つに目を奪われた。
「この瓶、封が……緩んでいます」
それは《忘却香草・三滴蓮》と書かれた香材瓶だった。
本来、外部調香には使用を禁じられている。
強い精神鎮静作用と、記憶の連結を一時的に“遮断”する性質を持つ香草。
「使用記録は?」
「ありません。棚の鍵も破られていない……つまり、“記録上では使われていない”ことになっています」
静華は瓶を手に取り、光にかざす。
中には、ごく微量の香粉が残っていた。
つまり誰かが、わずかに――だが確かに、香を抜き取り、意図的に使用したのだ。
「誰かが、記録に残らない方法で、“記憶を消す香”を使った。記録官は……その香を嗅いでしまった可能性が高い」
その夜、観香庁に戻った静華は、玲華の調香帳を開いた。
そこに記された未完の香式の中に、《三滴蓮》に似た香材構成を持つものを見つける。
(玲華母さんも……この香を調べていた?)
しかも、そこには新たな注記が残されていた。
――《香で記憶を封じる技術は、既に帝都に存在している》
静華はゆっくりと本を閉じた。
香で記憶を呼び起こすことができるなら、その逆も――
(“香による記憶操作”……それが誰かの手に渡っているのだとしたら)
風が庁舎の窓を揺らし、どこか遠くで鈴の音が微かに鳴った。
帝都に漂う“忘れ香”の正体は、まだ香の層の奥に隠されていた。