第1章:香の記憶と少年ー最終話:香で繋ぐ、想いのかけら
帝都・観香庁の奥、玲華がかつて使っていた調香室――。
夕暮れの光が硝子窓から差し込み、静華の前に並ぶ香材がほのかに香った。
その部屋には今も、玲華の気配が残っていた。
整然と並べられた香材棚。未完成の調香記録。封をされたままの香壺。
「……やっぱり、この香はまだ名前を持っていないのね」
静華は無名香を入れた壺を手に取ると、そっと蓋を開ける。
空気の中に、ふわりと花と海の香りが溶け出した。
(この香が、ユウの記憶を引き出した……。玲華母さんは、どうしてこれを最後に遺したの?)
棚の奥から、一冊の調香帳が見つかった。
表紙には、玲華の筆跡でこう記されていた。
――《記憶に眠る香を、封じてはならない》
その文字を見た瞬間、静華の胸が痛んだ。
(封じてはならない……? 記憶を“呼び起こす香”と“封じる香”が存在する?)
香は、心に寄り添うもの。
だが使い方を誤れば、心を縛る鎖にもなる。
玲華がそれを誰かに警告しようとしていたのだとしたら――
“誰かが”その香を悪用しようとしていたのだとしたら――
その夜。
香童たちの就寝を見送った後、静華はひとり庁舎の中庭で香を焚いていた。
風が少し強くなり、香の煙が不規則に揺れる。
(……この風、妙ね。香が乱れて……)
そのとき、微かに“混じり物のある香り”が鼻先を掠めた。
ふだんの町香ではありえない、不協和な香気。
まるで、異なる香材が無理に混ぜられたような、不自然な重さ。
(これは……誰かが意図的に“香を崩している”)
静華は立ち上がり、風の向きを追って香の流れを読んだ。
その香は、帝都の中心部――記香塔方面から漂ってきていた。
翌朝。
静華は庁長・呉師のもとへ赴き、報告とともにひとつの相談を持ちかけた。
「記香塔で、香の乱れを感じました。もし香材の保管に問題があるなら、私に調査を任せていただけませんか?」
呉師はしばし黙考し、やがて頷いた。
「ちょうど先ほど、第三記香塔で記録官の倒れる騒ぎがあった。香材の取り扱いには異常なしと報告されているが……気になるな」
静華の背に、またひとつ香包が揺れた。
玲華の遺した香、ユウの記憶、香を封じる気配。
すべてが、今この帝都で交わろうとしている。
(香は想いを繋ぐ。でも、それを断ち切ろうとする力があるなら――)
静華は決意を込めて、香包を胸元に留め直した。
「私に、調べさせてください。香の乱れの正体を――必ず」
物語は、静かに本編へと香り立ちはじめる。
ここまでで「第1章」が完結となります。
静華の信念、玲華の謎、そして帝都で始まる異変――。
次回からは「第2章:忘れ香の塔編」が本格始動します。
記憶を奪う香、消された記録、封じられた過去――静華が嗅ぎ分ける“香の真実”にご期待ください。