第4章:黒香の契り編ー第2話:面の女と“依代”
帝都・南門の外れ、かつて香童たちが訓練を積んだ廃園跡。
風に吹かれて、わずかに香が漂っていた。
観香庁の調査班が嗅ぎ取った香は、記録にも分類にも属さない“異香”。
「また、黒香か……」
静華は現場に膝をつき、割れた香壺の残り香に神経を集中させた。
その香には、明らかに“命令の痕跡”が含まれていた。
(誰かが……この場で“誓い”を結ばされた。自分の意思を手放し、香に従う契約)
香壺の破片の下に、何かが落ちていた。
静華が拾い上げると、それは古びた小鈴だった。
「……鈴……?」
静華の脳裏に、昨夜のあの音が蘇る。
――チリン。
(やっぱり……この香も、“あの女”のもの……)
同刻、帝都・裏市。
霧の立ち込める夜道を、一人の少女が歩いていた。
年の頃は十三、十四。
灰茶の髪を肩で切り揃え、目は濁った灰色。
名前も、住まいも、家族も、何ひとつ語らず、周囲では“壊れた子”として扱われていた。
その少女の前に、音もなく“面の女”が現れる。
白磁の面。
銀の鈴。
黒い外套。
女は香壺を手にし、無言のまま少女の手にその壺を押しつけた。
「……この香を焚けば、お前は“名前”を得る」
少女は目を細めた。
「……名前?」
「そう。お前が忘れたもの……望んだもの。香がそれを与える」
少女は言葉少なに、壺の蓋を開けた。
煙が立ち昇る。
濃密な、黒香の香り。
その瞬間、少女の目が開き――
「わたしは……“ユラン”。そうだ、私は……あの女を……!」
“契り”が成立した。
香が、過去を書き換える。
少女の中に“誰かに与えられた記憶”が流れ込み、まるで自分の意思であるかのように、彼女は“目的”を持ち始める。
面の女が囁く。
「次は……“観香官”だ。玲華の娘。静華を見つけ、彼女の記憶を奪いなさい」
「……はい、“契り”の香に従って」
銀の鈴が、またひとつ鳴った。
――チリン。
翌朝。
観香庁に、ひとつの匿名報告が届いた。
「観香官・静華を狙う“黒香使い”が都に入った」
静華はその報せを前に、懐の香壺をそっと撫でた。
(やはり、始まったんだね――“香を使った記憶の契約”。そして、香による“呪い”)
母の遺志を継ぐ者として。
香を“繋ぐもの”として守り抜くために。
静華は静かに立ち上がった。




