第1章:香の記憶と少年ー第2話:香童になる少年
翡翠湖から帝都へと戻る馬車の中、静華はふと視線を落とした。
隣で眠っているユウの手には、小さな香包が握られていた。
それは、あの日彼が記憶を取り戻したときに、静華がそっと渡したものだった。
香包には、玲華の無名香をほんのわずか仕込んである。
それは記憶を呼び戻すほど強くはなく、ただ心を落ち着ける、優しい香り。
(香は人を操るものじゃない。心を寄せるためにある……)
それが、玲華が遺した言葉であり、今や静華の信条だった。
帝都・香都街。
観香庁では、若い香童たちが朝の清掃に励んでいた。
静華がユウを庁舎に連れていくと、庁長の呉師が目を丸くした。
「この子が……例の“香に導かれた”少年か」
「はい。香を恐れていたのに、今では……香炉の煙を、ちゃんと見つめられています」
ユウは庁内を歩きながら、物珍しそうに香棚や香材箱に目を向けていた。
呉師は静かに頷き、棚から一巻の冊子を取り出す。
「この子に、香童の教本を与えよう。君の補佐として、当面は庁内で暮らしながら訓練させてみるといい」
「……ありがとうございます」
静華は心から頭を下げた。
その日から、ユウは香童として静華のもとで修行を始めた。
香材の名前、香の火加減、香の層の見極め……すべてが初めてだが、彼の吸収は早かった。
夜、庁舎の中庭で、静華とユウは並んで小さな香炉を見つめていた。
「……なぜ僕だけが、香で記憶を思い出せたの?」
ユウの問いに、静華は少し考えてから答えた。
「きっと、君の“想い”が強かったからだよ。香は想いに応えるもの。閉ざされた記憶の奥に、誰かを守りたい気持ちがあったんだと思う」
ユウは、握っていた香包を見つめながら小さくうなずいた。
「……僕、静華みたいになりたい。香で人の心を助けたい」
静華は、思わず微笑んだ。
「じゃあ、明日から“火香試験”ね。火加減を間違えると全部焦げるから、心してかかって」
「……それって怖い訓練だ!」
「ふふ、香は命に関わることもあるのよ」
笑いながら、二人は夜空を見上げた。
春の星が、静かに瞬いていた。
香に導かれた少年が、新たな一歩を踏み出す夜だった。
第2話では、静華の職場である観香庁、そしてユウが香童として成長を始める様子を描きました。
次回は、静華の母・玲華の香に関する新たな手がかりと、帝都に漂い始めた“異常な香”の兆しが現れます。