第3章:鈴香の影編ー第5話:記憶再生
観香庁の香技研究室。
静華は机の上に三つの香壺を並べ、慎重に蓋を外した。
壺の中には、記録香第八式の構成香材――白蓮花、干し橙皮、青木の樹脂、そして玲華が遺した“無名香”の調整香が納められている。
「吸香強度、調整。記憶刺激限界値を……0.02以下に固定」
静華は自らの指先に香粉をなぞり、最後の封香を行った。
「“玲華式・第八式変型”。……記憶、再生開始」
再び訪れた白蓮苑。
少女は前回と同じ場所――池のほとりで静かに座っていた。
静華とユウは香壺を用意し、そっと少女の前に香台を置いた。
「これを焚くと、君の中に残された“記憶の断片”が、浮かび上がってくるはず。
怖くない。ちゃんと私がいるから」
少女は小さく頷き、香の煙を見つめた。
白い煙が空へと昇り、風がそっと吹き抜けた瞬間――
世界が、変わった。
――ざああん。
波の音。
夏の海。
木の小舟。
誰かが彼女の手を握っていた。
「ナナ、ちゃんと掴まっててね」
女性の声。
母のような、でも母ではない。
――村が燃えていた。
――誰かが追ってきた。
――白蓮の香が満ちた小部屋。
――「あなたは“ナナ”じゃない、でも“ナナ”になりなさい」と言われた。
少女は、何度も香を焚かれ、何度も名前を塗り替えられていた。
でも、本当の名前を言った女性が、ひとりだけいた。
「……シエン。あなたは“シエン”よ。絶対に忘れないで」
煙が消え、少女の目から涙がこぼれた。
「……わたし、シエン……」
静華はそっと手を握った。
「おかえりなさい、シエン」
ユウも目を細めた。
「……香って、こんなにも“戻す”力があるんだな……」
静華は頷いた。
「母さんの香は、“記憶を守るため”の香だった。
記録香は、ただ記録するためじゃない。人が“自分を見失わない”ための、光だったんだ」
その時、遠くの木立の陰で、小さな鈴の音が鳴った。
――チリン。
静華はその方向を見つめたが、誰の姿もなかった。
(リュウ……見てた? 私たちの“香で記憶を戻す方法”を)
でも構わない。
彼女がどれほど香で操ろうとしても、静華は香で守り、繋ぐ道を選ぶ。
そして、奪われた記憶は、再び“香の中で息を吹き返す”のだった。




