第3章:鈴香の影編ー第1話:水路に咲く白花の香
忘れ香の塔で“鈴の女”の痕跡を辿った静華。
母の記録香に導かれた先にあったのは、香を通じて“記憶を買う”という禁じられた技術――。
帝都に忍び寄る影と、香で交差する記憶の連鎖。
静華は今、再び“鈴の香”と向き合うことになる。
帝都・香都街の外れ、水路沿いに小さな花市が立っていた。
初夏の朝、香材に使われる花や薬草が露店に並び、甘く、瑞々しい香気が漂っている。
その中にひときわ強い香りを放つ壺があった。
――白い蓮の花。
だが、ただの香材ではない。
「“記録香”の原花です。水に咲いて、一夜で散る。……けれど、香だけは残る」
そう語ったのは、蓮香という名の香売り女。
静華は、その花を手に取り、そっと鼻を近づけた。
(……これは、“鈴香”と同じ香基を持ってる)
「ねぇ、お嬢さん……“記録の香を売るな”って、お役人さんから言われてるの、知ってるかい?」
蓮香の声は低く、周囲に聞かれぬように抑えられていた。
「この香、最近また“誰か”が探してる。あんた……役人じゃないね?」
静華は少し微笑んだ。
「私は、観香官です。“香の記憶”を追ってるだけです」
その瞬間、蓮香の目が細くなった。
まるで静華の背後に何かを見たかのように。
「……なら、忠告しとく。
“記録香”の香基はね、もともと“帝都外”のものだった。
あたしも、そっちから逃げてきたクチ。
でも――あの女が動き出したら、止めるのは無理だよ」
「あの女……?」
「鈴を持った女さ。夜の市場に香を撒いて、記憶を“買い取ってる”って噂がある」
静華の背筋が凍る。
(リュウ……!)
そのとき、遠くで香童のユウが走ってきた。
「静華さん! 香都街の北、香舗《白霧庵》で“香による記憶障害者”が出ました!」
「また……?」
静華は、蓮香に軽く頭を下げ、ユウとともに急ぎ足で香都街の北へ向かった。
《白霧庵》は、香材と香具を扱う老舗だった。
静華が到着すると、店主が混乱した面持ちで迎える。
「うちの娘が……朝、目を覚ましたら、誰の顔も分からないって……!」
案内された奥の部屋。
少女はぼんやりとした瞳で天井を見つめていた。
静華はそっと香包を開け、“香の残滓”を探る。
――白蓮。
――橙の皮。
――そして、薄く残る“鈴香”の香気。
(まちがいない。これは“記憶を封じる香”……リュウが動いてる)
少女の手の中には、小さな銀の鈴が握られていた。
ユウが言葉を詰まらせる。
「……これって、“あの香室”で見たのと同じ鈴……!」
静華は小さく頷く。
(リュウは、街に出てきた。そして……“記憶を集めてる”)
それはただの香事件ではない。
記憶の売買、意志の上書き、そして――玲華が命を賭して止めようとした、“香を操る者”の再来。
静華は鈴をそっと包み込み、囁いた。
「……私は、香で人を縛らせない。香は人を繋ぐものであってほしいから」
夏の始まり、香都の空に、白い蓮の香りが静かに広がっていた。