第1章:香の記憶と少年 ―第1話:香りは記憶を語る
※本作は前作『香草と鈴の囁き ―香調師ユイの謎解き手帖―』の続編ですが、前作を未読でも問題なくお楽しみいただけます。
「香で記憶を読む」力を持つ少女・静華が、帝都を舞台に、香にまつわる奇怪な事件に挑みます。
香が導くのは、記憶か、真実か、それとも誰かの罪か――。
新たな“香の物語”の始まりです。
都の南、翡翠湖のほとりに佇む古い孤児院。
淡く花の香る春の風が、木々の葉を揺らしていた。
静華は、香調司の使いとしてその場所を訪れていた。
薄緑の外衣に香包を下げ、腰には香材を納めた小箱を携える。
彼女の視線の先にいたのは、一人の少年――ユウ。
まだ十歳ほどだろうか。
院の片隅で、何も言わず、ただ空を見上げていた。
名乗ることもせず、記録もなく、誰の問いにも答えない。
院の世話係が困ったように言った。
「名前も、過去も思い出せないようなんです。ただ……香炉の煙を見ると、怯えるような素振りをします」
静華は黙って頷くと、腰の香箱を開け、ひとつの壺を取り出した。
それは、母――玲華が残した“最後の香”。
調香帳にも記載がなく、香名すら持たぬ“無名香”。
まだ誰にも焚かれていない。
だが静華は、あの日からずっと信じていた。
この香は、人を癒す香だと。
「試してみますね。怖くはありませんから」
香炉に火を灯し、無名香を少しだけ焚く。
ふわりと、優しい香りが立ちのぼった。
甘く、橙の花。
冷たく澄んだ白梅の気配。
そして、遠く潮の香り。
(……優しい香り。どこか、懐かしい)
そのときだった。
静華の意識の奥に、香に宿る“記憶”が流れ込んできた。
――波に揺れる船。
――誰かの手が、ユウを強く抱きしめる。
――「ユウ、逃げなさい!」と叫ぶ女性の声。
黒髪の長いその女性は、香包を握りしめていた。
香が伝える記憶。
それは、まるで少年の想いがそのまま香に宿っていたかのようだった。
静華の目に、ひとしずく涙が滲む。
(この子は、香に守られたんだ。私と同じように)
香の記憶が消えゆく中で、ユウが微かに口を開いた。
「……あったかい、匂い……」
それが、彼の最初の言葉だった。
静華は、そっと微笑みながら少年の手を取る。
「もう大丈夫。香はちゃんと、君の声を伝えてくれたよ」
春の風が吹き抜ける。
花の香りと、過去の残り香が、そっと二人を包み込んでいた――。
新たな第1話として、静華とユウの出会い、そして「香が記憶を語る」という物語の核を描きました。
次回は、静華の観香官としての日常と、ユウが香童として歩み始める姿をお届けします。