9 お岩毒飲み
「ええ、よくなく餓鬼だ。ノミでも食うのか」
じれて怒鳴りながら、間宮伊右衛門は提灯貼りの刷毛をたたきつけるように使った。
あいかわらず赤ん坊はヒイヒイと泣き止まない。
あきらめて手を休め、
「コレ、お岩、今日はこころよいか、どうだ?」
襖の向こうには萌黄の蚊帳が三方だけ吊られ、たるませてある。中に、産後にやつれたお岩が体を起こし、赤ん坊をゆさぶっている姿がうっすらと透けて見える。
「ありがとうござります。この不順な陽気のせいか、おまえさまからいただいた粉薬、飲んでみても顔がほてるばかりで……」
「血の道の薬じゃと言ったろう。南蛮渡来の妙薬と伊東屋は言っていたぞ」
「伊東さまというと、せんだってお話のあった材木商の? おまえさまのお仕事の口を世話してくださるというだけでもありがたいのに、私にこのようなお心遣いとは痛み入ります」
「なんでも最初はちょっときつめに効くそうで、それをこらえて続けて飲んでいくうちに少しずつ効果が出てくるそうな。まあ、気長にな」
「それはそれは。どうぞおまえさま、お礼に行ってくださりませ」
「そうさな、コリャ、ちょっと行かずばなるまいて」
返事を待たず、伊右衛門はバタバタと提灯貼りの道具を片すと、勝手の水をひしゃくで飲み、ひとしきりむせこんだ。
「おまえさまも近頃ずいぶんとお体に無理をしておいでだ。申し訳ござりませぬ」
「なんの、ちと気散じでもすれば何のことはない」
と、大小を差し、古い羽織を着て出かける支度をはじめる。
「伊東屋さんにお礼をな、じき帰る」
伊右衛門がそそくさと出て行ってしまうと、入相の鐘がゴーンと鳴って、急に家の内部が黄昏色に変わる。
「どれ、添え乳をしてあげましょう」
横になったお岩が赤ん坊に乳をふくませるが、乳が出ないせいか泣き止まない。
すると、そこにちょうどやってきた按摩の各悦が、上がり框のところから赤ん坊の泣き声を聞きつけて、
「アレまたお子が」
と、隣近所をはばかるふうに低い声を出した。
蚊帳の中からお岩がか細い声で、
「各悦さんか。旦那さまはまたお出かけになったのですが……」
「ハイ、すぐそこでお会いしました。ちょうどよいところに来てくれた、飯を炊いてくれとおっしゃっておいででしたので、私でよろしければなんでもいたしましょう」
按摩といっても各悦は目明きの足力按摩である。自宅で按摩治療をするだけでなく、二階で賭場を開帳したり、地獄宿をやったりしている。舌先三寸の柔らかい物言いでお岩の前では猫をかぶっているが、伊右衛門とは小博打の遊び仲間だから、蛇の道は蛇。
「飯を炊いて、お汁でもしかけましょうかな」
「まあ、まあ、各悦さんにはいつもご面倒おかけいたします。それにしても……」
お岩は赤ん坊に添い寝しながら愚痴を言いはじめる。
「常から邪険な伊右衛門殿。女子を産んでと言うて、さして喜ぶ様子もなく、なんぞというと穀潰し、足手まといな餓鬼産んでと、朝夕にあの悪口。怖い怖い父さまじゃ。おまえも不憫な子よのう」
その間も赤ん坊は弱々しく泣いてはしゃくりあげる。
各悦が勝手から蚊帳の中のお岩に、
「御新造さま、お湯が沸きましたから、お薬をめしあがっては?」
「はい、お手間をかけます」
伊右衛門に教わったとおり、薬の用意をしながら、各悦は何気ないふうに話しはじめた。
「こう申してはなんですが、あのようなご亭主に辛抱なされて、御新造さまもご苦労なさいますなあ」
「いつもの愚痴をお恥ずかしい」
「いえ、なに、こんなときにこう申しては失礼かもしれませんが、御新造さまを見ていて私のほうも気が気ではございませんて。伊右衛門殿は御新造さまやお子のことを足手まといくらいに言うお方。御新造さまもいっそ決心なされてはいかがです? まだお若いし、御新造さまほどのご器量でもったいのうございますよ」
そう一息に言うと、いきなり座敷にずいと膝を進め、
「ささ、お薬を」
投薬の介助と見せかけて、蚊帳の外から手だけ差し入れた。お岩のはだけた襟元を直そうとする按摩の手は分厚く大きかった。
ぎょっとしてそれを振り払い、
「お手を借りずとも自分でできます!」
ふらつく体をあわてて起こした。
すると、各悦は急に声を荒げて、
「何をしようというんじゃない。ただご亭主に愛想つかされているおまえさまが気の毒だとおもってのこと。おまえさまの味方じゃあないか。この俺が面倒みようと言うておる。伊右衛門殿も承知のうえじゃ」
言いながら各悦は、薬をのせた盆をかたわらに置き、すばやく蚊帳をめくってお岩の薄い肩を抱き寄せようとし、そこではじめてお岩の顔に気がつき、ぎょっとする。
お岩は赤ん坊を抱えたまま飛びのき、立ち上がろうとしてめまいの発作におそわれ、膝をつく。
苦し気に息をつぎ、
「各悦! そなたはまあ武士の女房に、なんでそのようにみだら千万。重ねてさような不行跡しやると、今度は許さぬぞ!」
きっとする。
すると各悦は、やや拍子抜けの体で、
「ちっとのうちにまあ……そのような面体に……アゝ、大方そこが南蛮渡りの良薬でござりましょうて」
各悦は赤い薬畳紙を開き、中のキラキラした粉薬を湯呑にあけ、土瓶から白湯をそそぎ、
「まあ落ち着いてくだされ、お岩さま。薬も今日で三日目の満願と聞いております。これさえ飲めば、気持ちもちっと直りましょう。とにかく養生せんことには。そうしたら、お乳も出るし、赤子のためにも元気にならねばいけませんて。伊右衛門殿もじき戻られましょう。さあ、さあ、お薬を」
お岩はしばらく息を整えていたが、やがて、まだぐずっている赤ん坊を横に置き、温かい湯呑を受け取ると、押し頂くようにしてやっと口をつけた。
* * * * *
と、鶴屋南北がここまで書き終えたところで襖が開いて、おさんどんのように襷を掛けた女房のお吉が入ってきた。
盆にのせられたものを見て、南北の目がぱっと輝く。
「お、豆大福か?」
「芋大福ですよ、伊勢屋さんで今人気の。芋の粒あんが甘くておいしいんです」
言いながら、お吉は土瓶から湯呑に茶をついだ。
「夕餉の支度にかかる前に、きりのいいところまで見てみましょうか? どこまで書きました?」
「うむ、お岩の毒飲みのところまでだ」
言い終わらないうちに南北は手を伸ばし、芋大福をほくほくとほおばる。
お吉は文机に首を伸ばして、
「ここ、毒薬飲むところ。ここが一番おそろしいんですから、その前のところをしっかり見物に見せないと」
「うむ、怖がらせるのは伊右衛門や各悦ではなく、見物だからな」
と、南北は芋大福に舌鼓を打つ。
「ええ、ええ。音羽屋さんが舞台の中央に座って赤子をあやしたり、邪険な亭主の愚痴を言って泣いたり、それから毒の入ったお椀をこう何度も押し頂いて、とにかく間をもたせて見物を怖がらせなきゃいけません。きっと評判になりますよ」
「うむ、ちょうどいい塩梅だ」
「何が?」
「甘すぎず、茶に合う」
「何言ってんですよぉ」
お吉は膝を詰めて、書きあがった美濃紙を指し、
「ここには虫の音を入れて、時の鐘を打って……」
「入相の鐘だな。場面が黄昏の色に一変する。芋大福はこれだけか、食い足りないな」
「夕飯が召し上がれなくなりますよ。それより、この場面を仕上げてしまわないと」
「もう疲れた。今日はおしまいだ」
「なんですか、ここまで書いてるのに」
「あとはおまえが好きに書け」
「また、そんなこと……」
「どうせ二枚目作者が朱を入れてくれるから大丈夫だ」
「だって、『天徳』のときもそうやって……」
「おまえも書きたかったんだろうが」
「だって、おまえさまの歌舞伎狂言ではないですか」
「ああ? おい、茶請けはないのか? なんぞ甘いものでも……」
「たった今、召し上がったばかりじゃないですか」
「いや、いや、何も食ってないぞ。腹が減った」
お吉は大きくため息をつくと、
「今、夕餉の支度しますから」
盆を持って立ち上がりかけて、また膝をつく。
「お岩は、この後の場面で鏡に向かって髪をすくんですよ、おそろしい面体で。この場面が大事なんですからね。私はもう知りませんからね。大丈夫なんですか、ほんとにもう……」
お吉が出ていくと、部屋は急に静かになった。
南北は歯をせせりながら、ぼんやりと首をめぐらせた。
お岩の髪すきか。
さあて?