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8 ソウキセイ

 雨に湿った南北の膝元に、長崎屋源七は待ちかねたように半紙にのせたものをすすめた。

「これでございます」

 半紙の上には、平たい油紙に包んだものが一枚のっている。

「南蛮渡りの菓子でして、乳固冷糖(ちこれいとう)といって乳と血を固めるそうでございます」

「ほう」

 南北がやせた背を丸め、のぞきこんだ。

 深川八幡の境内で道に迷っているうちにどうにか思い出し、辻駕籠をひろって、やっと長崎屋の長暖簾まで来たときは心底ほっとした。通いなれた道なのに、まるで町中で狐に化かされでもしたようだ。それでも何とかたどりついて安堵したとたん、そんなことなどたちまち忘れてしまい、いつもの興味津々の鶴屋南北に戻っていた。

 長崎屋が油紙をガサガサ音たてて開くと、中から泥を固めたような板が現れた。何か独特の芳香がある。

「黒砂糖のようですな」

「黒砂糖も入っていましょうな。滋養強壮にもよろしいそうで。ただ過ぎますと鼻から血を吹くと申します」

「ほう。どうも南蛮渡りの食物はなんでも毒気が強いようですが」

「家人は怖がって手をつけません。お試しなさいますか」

 源七の丸い頬に、指で押したようにかすかな片えくぼが浮かんでいる。

 南北は咳払いをして、唇を舌で湿した。

 開け放った障子の向こうには、雨にかすむ内庭が見える。先日、人魂を見そこなった庭である。

 七夕の竹はもう取り払われ、紫陽花の濃緑(こみどり)の茂みは白い花をまだつけている。大葉を打つ雨音ばかり間断なく響き、座敷にはあいかわらずズボウトウの薄荷がひっそりと漂っていた。

 南北は急に思い出し、言った。

「実は昨日、倅が高砂町まで見舞ってまいりました」

「おう、そうでしたか。で、どうでした?」

 長崎屋が上半身を乗り出した。

 昨日の早朝まだ薄暗いうちに、倅の鶴十郎をしっかり足ごしらえさせて高砂町まで見舞いにやった。高砂町には、南北の畏友、髷屋友九郎が養生している。

 南北の一人息子鶴十郎は、友九郎の「九」のあとを取って名付けたものである。友九の手ほどきを受け、鶴十郎も今では南北の右腕となって、舞台でたびたび大仕掛けの工夫を手伝っていた。

 友九郎の火傷がだいぶ回復しているようであれば、南北もそのうち訪ねて行って、四ツ谷の怪談の構想や仕掛けについて相談したかった。

 南北は倅が見てきたとおり、友九郎の火傷で引きつった腕のことを長崎屋に話した。両腕とも、ひじも腕もなく薪ざっぽうのようだったと言う。これでは、とてももとどおりと言う訳にはいかぬかもしれぬ。

 もともと髷屋友九郎は伝説じみた男である。容貌怪異。人一倍引っ込んだ金壷眼(かなつぼまなこ)に分厚い水晶眼鏡をかけている。眼鏡は特別誂えで黒紐で耳にひっかけているが、仕掛けの細工をするときなどほとんど顔を引っ付けんばかりになる。

 容貌ばかりではない。その物腰も尋常でない。激しい(ども)りで、特に芝居や見世物小屋の話になると興奮して夢中になり、話が聞き取りにくくなる。そして、何より愉快なのは、本人がこういったことにまったく頓着していないことであった。そのために起きる滑稽を思い出し、長崎屋源七と南北はほっと一息ついた。

「そうですか。次の怪談狂言の趣向を聞いてきましたか」

「ええ、四ツ谷の稽古までには気力を取り戻すとよいのですが……」

 離れの座敷は長崎屋の店先とは長い廊下でへだてられている。内庭から絶え間なく軒を打つ細い雨音がするばかりで、町中とは思えない静けさである。

「それで」

 南北は肝心なことを思い出して言った。

「四ツ谷の怪談狂言に毒薬を使いたいのですが」

 源七がふいと会釈をして立ち上がり、

「壁に耳ありと申しますでな」

 言いながら、内庭に面した白い障子を閉て切った。

 座敷の中は薄墨を流したように影に覆われた。

 片隅の盆を引き寄せ、赤い薬畳紙(くすりたとう)を慣れた手つきで開く。

 南北ははっとした。

 長崎屋源七は盆ごと南北のほうへ押しやって、

「煎じ薬ではなく、粉薬(こぐすり)でございます」

 水晶片のきらきらと混じった白い粉である。

「ソウキセイと申しましてな」

 なんでも嗅ぎたがる南北が、薬包を手に取り、薄い鼻梁を近づけようとした。

「いけません、いけません。蘭方の劇薬でございます。普段は気付けに極少量使われますが、とろりと甘い味がして舌がしびれはじめ、顔が火照ってくると申します。一度では死にませんが、髪が抜け、顔面が熟柿(じゅくし)のようにぐずぐずと血膿とともにくずれるのだそうでございます。そして、量を過ごしますと死に至ります」

 南北は急いでそれを手控えに書き取った。

 面体(めんてい)くずれるソウキセイ。

 三世尾上菊五郎扮する女房は、毒を盛られて苦しみはじめる。

 アゝコリャ顔が熱気して、一倍気やひが。アゝ苦しや。

 薄ドロドロの幽霊太鼓がこのあたりから始まる。虫笛を効かせ、本釣鐘をコーンと打ち鳴らす。

 本人は面体がくずれてきたことに気づいていないから、しばらく苦しんで、落ち着いてくると今度は鏡を見ようとする。行燈もつけてくれと、ちょうど来合わせた按摩に頼む。

 すると、……さあて?

「あ、あちらのほうをいただいてもよろしいか?」

 南北はさっきから気になっていた南蛮菓子乳固冷糖のほうに手を伸ばした。

 冥途の土産。乳でも血でも味わっておきたい。

 板状の塊の端を指先で小さく欠いて鼻を近づける。そうしている間にも、かけらは二本の指の間でとろけていく。

 思い切ってその指を口に入れた。大眉を思いきりしかめ、南北は一生の大事を決すべく険しい表情をした。食もまた冒険がなくては面白くない。

 長崎屋は下からすくうようなまなざしで見つめていたが、やがて膝をにじらせ、

「いかがでございます?」

「むむ」

 南北は閉じた口の中で舌を転がし、からまるような声で(おごそ)かに言った。

「確かにこれは、女子どもにはちと刺激が過ぎましょう」 

 その時、更紗暖簾の向こうから丁稚(でっち)が顔を出し、平田半兵衛の急な来訪を告げた。




「井戸ざらえですか?」

 長崎屋源七が驚いて聞き直した。

 半兵衛の急な訪問も意外だったが、その用向きが、裏の空き家の井戸ざらえというのである。

 南北と源七は顔を見合わせた。

 雨はいっこうに止む景色もなく軒先を打っている。

 障子を閉て切った座敷は海の底のように薄暗い。

 半兵衛は塾頭らしいいつもの落ち着いたものごしで、柔らかな声をさらに落とした。

「裏の家は確か空き家とおっしゃっておられたが」

「ええ、長屋になっておりましてな。間宮様とおっしゃるご浪人のお住まいだったかと……」

 言いかけて源七が言いよどむ。

 間宮伊右衛門の御内儀の産後の肥立ちが悪いとは聞いていた。若夫婦の仲がよろしくないという噂を店の奉公人たちがしていたが、御武家のこととて源七や女房のお多恵がじかになにか見たりしたわけではない。婿の伊右衛門の女遊びや小博打が原因で借財がかさんでいるらしいというのも近所の噂である。

 ある日突然、夫婦は出奔し、空き家になった。

「それが、そう、ついこの間のことでございます」

「ふむ」

 平田半兵衛は宙をにらみ、しきりになにか考えている。

 南北が源七に()く。

「どんな男だったんです? その伊右衛門というのは?」

「ご浪人とお見受けしましたが、まあ、しっかり実悪というよりは、道楽者に近いのかもしれません。ちょっと目に張りのある、役者にしたいくらい整ったお顔立ちで、まあ女どものほうで放っておかないだろうと想像のつくところもありましたが」

 長崎屋源七が半兵衛の顔をのぞきこんだ。

「これがその井戸ざらえと、どう……?」

 平田半兵衛はしばらくためらってから、

「実は、そこなのですが」

 と、促し、体を前へ傾けた。

 軒を打つ雨音に、男たちの低い声はたちまちかき消された。

 と、庭に面した白い障子が一尺ばかり音もなく、するりと開く。

「誰だえ? 今来てはいけないよ」

 応答がない。

 源七が立って行って障子の外を見た。

 障子を両手で大きく開け放ち、廊下の左右をうかがう。

 外はあいかわらず、雨が煙るように降っている。紫陽花の茂みは隣家まで根を伸ばし、大きな葉が古井戸をこんもりと隠している。

 長崎屋源七は障子に手をかけたまま、しばらくあたりに目を走らせていたが、やおら南北にふり返り、童顔をほころばせた。

「今度の怪談狂言はきっと当たりますよ」


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