7 変化朝顔
門前仲町を不動通りの近くまで来ると、とうとう降り出し、鶴屋南北は蛇の目傘を開いた。傘の柄は手に重く、内は漆の匂いがこもって暗い。
棕櫚縄で下げてきた小鉢の朝顔が、雨の雫を受けて生き生きと首をもたげはじめ、いよいよかさばった。
今朝方、女房のお吉にうるさく言われ、ちょうど咲いていたのを長崎屋の手土産にと持ってきた。紫の花が開きかけていたが、どう見ても朝顔とは見えない、花弁が幾重にも重なった牡丹咲きである。
当節、突然変異で咲く奇抜な変化朝顔と呼ばれるものが流行っていた。肥料やら土壌に凝って、まだら模様や縮れた花弁やら栽培し、朝顔市も随所で開かれ、物好きな江戸っ子の人気を集めていた。
南北は立ち止まって、重い傘を肩に置き、朝顔を持つ手を替えた。
雨は蕭々として降りやまない。一度降ると深川一帯は泥濘の町と化す。これは深川に限らず、当時すでに大都市であった江戸の町はどこもそうだった。
しつこく粘りつく泥をはね上げないように、南北は高下駄を履いた素足を注意深く運んだ。
長崎屋に怪談狂言で使う毒薬について相談していたところ、今朝ほど、よろしければお越しくださいという書状を携えて使いがやって来た。南蛮菓子の到来物があると書き添えてあって、それが南北の心をはやらせた。
そこで、通りがけに深川八幡まで参って、そこから辻駕籠を拾って行こうと算段し、雨もよいの天気にもかかわらず出かけてきたのである。
背後から若い男がふたり、しきりに話し込みながら近づいてくる。
「やっぱり半四郎さね」
なじみの役者の名前がふいに聞こえ、南北は耳をそばだてた。
近頃江戸っ子を標榜する奴原の、あのなにやら鼻にかかった早口である。
「五代目かい? 眼千両ってえけど、どうかな?」
「早変りのお染はよかった」
「早変りなんざ邪道だぜ。だから南北は野暮ってんだ。もちっと義理とか人情とか、実のあるのを書いてもらいたいや。塩谷の忠臣蔵を見習えてぇんだ」
すると、もうひとりが、しゃくりあげるように笑う。
「そこがおめえは古いんだ」
「なんでぇ」
「忠臣蔵にしたって、からくりだろうと見世物だろうと要はおんなしだ。なんにしたって拵えものさね。見物をうまい按配に驚かしてだましてくれないじゃあ面白くない……おっと」
水溜りでも踏んだのか、背後で水のはねる音がした。
南北は傘で顔を隠したまま背中に耳をたてた。
水溜りをしゃぶしゃぶとはねる音がし、男が「ちっ」と舌を打って続けた。
「そこはそら、立作者のお手並みだ。芝居ったら書くもんじゃねえ、仕組むもんよ」
南北は、ほう、と思わず小さく出そうになった声を飲み込んだ。
二三治ごときの小賢しい芝居評など取るに足らぬが、見物の期待は自分を勇気づけるに充分だった。
「おっ、見や」
つられておもわず顔を上げると、煙る雨の中、前方から水を跳ね上げ、規則正しい足音が近づいてくる。
辰巳の芸者だろうか。傘を斜めにさして、黒塗り朱鼻緒の足駄で、膝を擦り合わせるように小走りにすれ違う。
紅の板締め模様の薄っぺらな一ツ着に、片手でたくし上げた裾が割れ、真っ白なふくらはぎが出ている。紅絹の垢すりのついた算盤絞りのてぬぐいを下げているところを見ると、湯屋の帰りらしい。女の傘の中をのぞきこむと、笄にひっかけた糠袋が揺れているのが見て取れた。
男たちがはしゃぎながら南北を追い越して行く。
「婀娜なものだぜ」
「へへっ、娘十八、番茶も出花ってね」
男たちはそれぞれ裾を片手でからげると、水溜りをよけながらたちまち遠ざかっていった。
濡れた敷石に南北の泥にまみれた高下駄が音高く響いている。その歩みがだんだんと遅くなった。
痩せた野良犬が急ぎ足ですれちがう。
南北の大眉の下に光る目が足元のぬかるみを見つめ、やがて歩が止まった。
―四ツ谷の浪人長屋の隣には、何野某の別荘があるとする。一人娘がいて、年は……十八くらいか。
振り返って見ると、女が柿色の傘をすぼめ、深川不動通りの角を曲がって消えるところだった。
―まず静かに大拍子を打ち、花道より裕福そうな商家の一行が現れる。場所は、そうさな、浅草観音堂の奥山あたり。
奥山といっても山があるわけではなく見世物小屋が並ぶところで、南北はいつか大きなミミズクの見世物を見に行ったことがある。これは髷屋の友九郎自身が興行したもので、見物が行列をなし、当たりを取っていた。葺屋町河岸の友九郎の自宅が焼けるずっと前のことである。
南北はゆっくりと歩き出した。頭の中では目まぐるしく舞台が進んでいる。
何野某は娘を気散じの遠出に連れて行く。足弱の娘を心配して父親がこう言う。
こりゃ、あまり疲れをおして歩いてもいけない。駕籠でも呼ぼうか。
某は小柄で童顔、並ぶと娘のほうが背が高い。鼠の紗の単衣で、片手に変化朝顔の鉢を下げている。
南北は右手に下げた朝顔に目をやった。絞り染めのような紫色のつぼみが開きかけている。
甘い物に目がない某は、娘の乳母に向かって、
「帰りに舟橋屋の葛餅をな、忘れずに土産に調へて……」
そうだ、帰りがけに舟橋屋の葛餅を忘れずに、と、そこまで考えて南北は、蛇の目傘を持つ手を替えた。
手に下げた朝顔から雫が落ちる。お吉にやかましく言われて持ってはきたものの、雨に濡れた花は重くかさばっていかにもうっとうしい。
―はて、そういえば、どうして自分は重い思いをして朝顔の鉢を下げているのだ?
ふと傘を傾けて見上げると、時折煙る雨脚の向こうに、深川八幡の濡れていっそう鮮やかな朱の大鳥居が姿を現した。
霧のような雨脚を縫って、境内の奥から、軽い太鼓の音と三味線の音締めが聞こえてくる。
見ると、深川八幡の境内には、先月まで並んでいた見世物小屋の派手な立看板がいつのまにか取り払われ、同じところに非人たちの粗末な菰垂芝居がかかっている。
小屋の正面と思しきところに木戸銭十二文と書かれた木の札が下がっていて、数人の乞食が雨をよけながらたむろしていた。乞食たちは一様に、色目もわからぬ襤褸に三尺を結び、雨に濡れた冷や飯草履を履いている。むき出しの手足は垢にまみれ、人肌とも思えないような色だ。
菰で囲んだ小屋の隙間から黄色い明かりが明滅しながら漏れている。
その奥で、古い釜を双盤太鼓に似せて叩く男の姿が垣間見えた。乞食にしては身ぎれいで、首が長くて細身の男前といってもいいくらいの顔立ちである。
威勢よく金属音まじりの囃子でガンドン、ガンドン、ガンドンドンとやかましくやっている。芝居の情景が一変して立ち回りでもはじまったらしい。
中でまばらな拍手が響き、「どぶ屋!」という掛け声らしきものも笑い声まじりに聞こえてきた。
―「どぶ屋」とは何のことだ?
南北の高下駄の歩みがまた少しずつ遅くなる。傘の縁から絶え間なく雨の雫がしたたり落ちた。その雨だれの向こうで、深川八幡境内の風景がゆっくりと暗転し、歌舞伎の華やかな舞台に変わってゆく。
場面はにぎやかでどこか胡散臭い浅草奥山。見世物小屋がたちならび、辻打ちの鳴り物が響く。木戸では見世物師が、毒々しい色彩の看板の前でそれぞれ声高く口上を述べ、客寄せをしている。
ずらりと並んだ立看板。大力大女、軽業三兄弟、熊男、蛇女、そして今評判の駱駝にミミズク。その毒々しい色彩が、殺風景な筵や葦簀張りの小屋掛けに生彩を与えている。
某父娘の一行がミミズクの立看板を眺めていると、非人たちの喧嘩が始まる。老侍を取り囲み、それぞれ声高に言いはじめる。
老侍は胡麻塩の頭に細身よりの髷。冷や飯草履を履き、編み笠を持っていて浪人のようである。編み笠は物乞いをするときにかぶるのである。この老侍は非人たちの真ん中に這いつくばり、両手をついている。
老侍 お手まへたちの中に、さやうな作法のあると申す事も存ぜず、このところで物貰ひ致し
をったは、わが身の不念。なにぶんにも容赦致しやれ。
非人一 なに、容赦しろですむものか。まあ、われが貰ひ溜めをこゝへ出せ出せ。
老侍 いや、往来の合力受けやうと存じたのみ、いまだ一銭も手取りは致さぬ。
非人二 こんな奴をうっちゃっておくと、仲間のきまりが悪いは。
非人三 見せしめのために、着物ふんばいで、
非人四 筋骨を抜いてやれ。
地面に額をこすりつけていた老侍が乞うように顔を上げると、白髪混じりの太い一本眉。
さあ、そこに、われらが色悪団十郎だ。颯爽と来合わせる。いや、某父娘の前に来合わせたように見せかける。
古い黒縮緬の羽織に着流し、黒柄の蝋色の大小。しなやかに反る弓のごとく、すっきりと伸ばした背。殺気走った煙る目元を半ば伏せ、落ち着いた物腰に、よく響く低い声。
―いやいや、ちと待ちやれ。身どもあへて知る人と申すではなけれども、老体のお人、見る目も気の毒に存ずるゆゑ、このお人に成り代わり、武士たるものがその方どもへ対して詫び致すほどに……。
蛇の目傘の陰で縮緬皺のよった薄い口元をすぼめ、南北はつぶやき続けていた。
が、ふと気がついた。
―今は何時だ?
霧雨に曇るあたりのさまは早朝のような気もするが、暮れはじめた夕方のようでもある。
立ち止まって見回すと、来た道も行く先も、生まれてはじめて通るような気がした。
南北は急に不安をおぼえて立ちつくした。