6 南北宅
「きんぎょ~え~、きんぎょ~」
深川黒船稲荷地内の路地を、聞き慣れた金魚売りの声が通る。
昇ったばかりの薄い朝陽が、格子窓の外に立てかけた葦簀を透かし、使い込んだ紫檀の文机に縞模様を落としていた。
鶴屋南北が書斎にしている六畳間は殺風景で、桐の本箱が壁に沿っていくつも並んでいるばかりだ。ここで起居し、食事もひとりでとる。
ふと気がつくと、鉄漿水を沸かす金錆びた、うっすらと甘い麹の匂いが漂っている。嫁の紗枝だろうか。
廊下を軽い足音が駆けてきて、襖が顔の幅だけ開くと、孫の亀太郎が小さな顔をのぞかせた。起きたばかりで、はだけた寝巻きから金太郎の腹掛けをした丸い腹が見えている。
「じじさま、金魚売りが来た。買うておくれ」
家族の中で誰よりも祖父が自分に甘いことを知っていて、真っ先にねだりに来るのである。
水を満たした桶を天秤棒でかついで金魚を売り歩く金魚屋は、子供たちに人気のある物売りのひとつだ。桶の中の赤い金魚を網ですくって、ビードロでできた小ぶりの鉢に入れてくれる。それを軒下に吊るし、下から眺めて愛でるのである。
「ばばさまに言え。書き物の邪魔をしてはいけないと言ったろうが」
振り向けた南北の固い膝に、どすんと小さな尻をぶつけるようにのってくる。南北は両手ですっぽりと孫の小さい体を抱え、奴に結んだ頭に皺んだ頬を寄せた。
萌え出ずる草に似た匂いがする。不思議なことに、花の苗でも鳥の雛や猫の子でも、成長しているものはみな同じ匂いがした。南北は朝の空気とともに子供の匂いを胸に吸い込んだ。
「あら、やっぱりここにいた。亀さん」
入ってきたのは女房のお吉である。木綿着の袂を襷でからげ、尻をはしょっている。
これじゃまるでおさんどんだと、南北は出かけた言葉を飲み込んだ。
「なんだ、買うてやれ、金魚ぐらい」
尖った声を出す。
「どうせすぐに死なすだけですよ。なんですよう、また亀坊に言いくるめられて」
お吉はしぶる孫をだましだまし手を引いて出て行く。
そのうち表で子供たちの歓声が聞こえてきたところをみると、結局、お吉も孫にはかなわず金魚を買ってやったらしい。
しばらくするとお吉がひとり盆を手にもどってきた。盆の上には湯気のたつ甘草の湯飲みと、敷き紙には堅餅。これは干した餅を焼いた硬めのあられである。
襷がけのままで水仕事をしていた手は節が目立ち赤らんでいる。
「友九さんは、昨日の怪談会へはおいでなされなかったのですか」
南北の心配事をまず尋ねた。
葺屋町河岸にあった友九郎の家が焼けたのは、つい春先のことである。暮六ツ(十八時)過ぎ、友九郎宅裏の土蔵から出火し、近隣への類焼はまぬがれたものの、ひとり消し止めようとした友九は大やけどを負った。
髷屋友九郎と南北は二十年来のつき合いで、南北の芝居では大道具からからくりまで一切取り仕切ってもらっていた。
友九郎は歌舞伎だけでなく見世物興行でも稼いでいた。世話好きで、博打などで持ち崩した役者の世話を進んで引き受けていたのも彼である。葺屋町河岸の自宅には、怪しい風体の小屋者や乞食同然の落ちぶれ役者まで、人の出入りが絶えたことがない。
友九郎が成功していて裕福であったことは、土蔵を持っていたことからも知れる。髷屋といえば土蔵など普通なら縁がないのだが、友九郎の場合、見世物興行の仕掛け物をしまっておく蔵があった。仕掛けに使う薬品が貯蔵してあったのだが、それが何かの拍子に発火したらしいというのが役人の見立てであった。
苦労して手に入れた熊やももんがの剥製や、たいへんな手間をかけてこしらえた猫娘やびっしりと毛髪を植え付けた犬夜叉の扮装や、髷に使う大量の髢などが異臭を放ちながらくすぶり、大量の黒煙が上がった。
同じ葺屋町にあった市村座では、そのとき「壮平家物語」の上演中で、南北は二枚目作者として立作者の並木五瓶とともに客座に座っていた。
打ち出しの太鼓が鳴って見物が引けかけたとき、半鐘の音とともに大量の煙がどっと桟敷席に流れ込んだからたまらない。逃げる人が出口に殺到し、けが人が出た。
結局、友九郎の自宅は全焼し、土蔵は瓦礫の山と化した。
半死半生の火傷を負った友九郎は、文字通り着の身着のまま、以来、中村座の座主の世話になり、高砂町の仮屋でほとんど寝たきりである。
「まだ駄目だ」
鶴屋南北はため息とともに吐き捨てると、お吉の持ってきた湯飲みにがぶりと噛みついて、
「あちちっ」
甘草の薬臭い匂いがあたりに広がった。
お吉もため息をもらす。
南北は気を取り直すように、昨日の話をひとしきりして、女房の反応をうかがった。
「まあ、戸板に!?」
「間男か? 見せしめだろう? お武家の若い御内儀に按摩がちょっかいを出すてえのは、いったいどういうきっかけなんだ?」
鶴亀づくしの浴衣を思いきりくつろげ、胸元に団扇でばたばたと風を送る。
お吉のほうは、むき出しの腕を男のように胸元に組み、考えるふうである。
「若い女が按摩取りねえ。血の道か、産後の肥立ちでも悪かったということだったんでしょうか。……白歯でしたか?」
「うん?」
「産後しばらく体に悪いと言って鉄漿付はしないものですよ」
―お歯黒か、そこまでは聞かなかった。聞いておくんだった。しかし、それなら赤ん坊は?
と、南北が言いかけると、
「白歯なら赤子がいたのかも……それなら音羽屋でござんしょう?」
お吉が一息に言った。
―くそっ
心のうちで舌打ちをしながら、南北は堅餅を口にほうりこんで達者な歯でばりばり噛み砕いた。
それでもお吉の言ったとおり、南北は思い浮かべずにはいられない。
産後の肥立ちが悪く、目ばかり大きく弱弱しい女。鉄漿付もせず、まだ白歯のままだ。立ち居もままならず、夫の邪険な態度にもしおらしい。たっぷりと口説きを入れる。これは自他ともに美形を認める音羽屋、三世尾上菊五郎にはまり役だ。ならば―
「なら、菊づくし」
お吉がまた先に口を出す。
―ええ、くそっ
「だらりとした菊小紋の縮緬に、黒繻子の中幅帯、くずれかかったつぶし島田。亡き母の唯一の形見である菊重ねの鼈甲の櫛をさしている」
言いながらお吉は自分のつげ櫛を前髪に差し直して見せた。
南北は甘草湯を一口含み、その甘みを舌に転がしながら、一文字につながった眉根を寄せた。負けまいという気持ちから自然と自分も早口になる。
「切りざまから言って侍の仕業だと言うんだ。神津川べりに浪人長屋がある」
南北は、ごたごたと建てこんだ裏長屋を思い浮かべた。
その日暮らしの浪人者、日銭稼ぎの魚屋や歯磨き屋、船頭、そして按摩。
長屋と長屋の間は人がやっとすれ違えるほどの狭い路地で、時折、生臭い川風が吹き抜ける。陽が射さず水はけが悪いので、いつでも黴と泥の臭いが充満している。
その晩も路地裏はぬかるんでいたに違いない。濡れた地面は月明かりで油を刷いたように黒く光ったろう。
夜もだいぶ更けた頃、その長屋の狭い道を人影が足元を選びながら帰って来る。その足が酔いのため、ふらついている。
男は羽織の裾を夜風にひらめかしながら、家の前まで来る。
たぼの緩んだ御家人髷の浪人形で三十格好。月明かりが、ほの白く整った顔に苦みばしった陰影を与えている。悪事を己の才覚でやりおおす、自信に満ちて奔放な魅力のある色悪だ。
「邪険な亭主、色悪の浪人なら―」
南北が言いかけると、すかさず、お吉がうっとりと、
「ああ、そうですねえ、成田屋さん。あの人には華がある」
成田屋七世団十郎の浪人がその晩飲みすごしたのは―そう、祝いの酒に金粉がまじっていたとするのはどうだろう。
内祝言の席で金屏風を背に、頬をほんのりと染め、始終うつむき加減に隣でかしこまっていた若い花嫁を思い出し、団十郎の浪人は楊枝をくわえた口元をゆるませる。やれやれ、ああおぼこでは水揚げに手間もかかるだろうて――
と、そこまで考えて南北は、女房のお吉の口元が鉄漿で黒く染まっているのに初めて気がついた。
「なんだ、おまえ、今日は鉄漿付なんどして」
「だって……長崎屋の御新造様がって何度も言うから」
「長崎屋の御新造ともなれば、おまえなんどとは格が違う。しかし、長崎屋さんも前妻さんとは死に別れというが、不仲だったらしいから、今度はよくよくいい人を見つけたもんだな」
南北が思わず深いため息をついて甘草の煎じ薬をすすると、
「また始まった。おお、薬臭いこと」
お吉は大げさに鼻先を覆う。
南北は負けじと堅餅をばりばりかじった。年に似合わず南北の歯は一本も欠けることなく真っ白で粒ぞろいだ。
それを見て、
「おお、いやだ、いやだ」
お吉は顔をしかめて立ち上がる。
お吉が襖の陰に消えると、南北はいそいそと段取りの筆を取った。筆の竹軸には達者な歯で噛んだ跡がいくつもついている。
歯をせせりながら、南北の目が遠くなる。
七世市川団十郎のわずかに藪がかった、にらみの利く眼。
配するは辻斬りの夜景。野犬の遠吠え。海鼠壁がどこまでも続く暗い道。そこをのんびり通りかかる良家の父娘。ふたりの足元をブラ提灯で照らす乳母。一行の長く伸びた影。そこに一閃、あわや惨劇。
と、思う間もなく、野犬の群れなす足音がせまり、低い唸り声。
ふりかぶる刃。躍り上がる獣の黒い影。
落ちて赤くめらめらと燃え上がる提灯。その炎に照らされて踊る影法師。
荒々しく地面を蹴る音と犬の吠え声。
刃が骨に食い込む鈍い音と切り裂くような悲鳴。飛び散る血肉。
四つ足が間断なく縦横に土を蹴る音が続き、低いうなり声と獣臭い息があたりに満ちる。やがて、激しい息遣いで野犬の群れはあわただしく退散していく。
浪人は息も乱さず静かに刀を振って血を払い、懐紙を取り出す。闇の中に浮かび上がる凄味の効いた白い横顔。
そこで回り舞台。辻斬りの血なまぐさい夜景はたちまち婚礼の祝宴に変わる。
南北はここまで筆を進めると、遠い目つきのまま達者な歯で筆の軸を噛んだ。
―さあて?