4 戸板の女
「話はこうです。昨日の早朝、神津川の下流で通称隠亡堀というところに、鰻取りが、前の晩仕掛けておいた罠を見に行ったそうです。あの辺はご存知のように、深川十万坪と呼ばれる、干潟を埋め立てた築地。岩井橋という小さな土橋のたもと辺りが枯れきった破葦のこもる泥沼になっていまして、いっぽうは土堤。近くに田圃があるわけでもなく、往来からは遠く離れていますし、近所にまず家など見あたらない寂しいところです」
聞きながら、鶴屋南北の太い眉に隠れた目の奥に、暗い沼が彷彿と浮かんだ。八畳の座敷がたちまち黒々と水であふれ、明け初めた灰色の空が水面に反射して、沼は一面暗い鏡のようだ。
鰻取りは、浮きに使う樽を片手に持ち、鰻を刺す鋭い簎を太い肩にかついでいる。盲縞の長半纏、紺の股引に腹掛けをして手ぬぐいの頬かむり。まずぐるりと沼を眺め渡し、そろりと足を入れる。油のような水面が重たげに揺れ、さかしまに映っていた暗い木立がたゆたい、掻き消えていく。波紋がかすかに光りながら幾重にも広がる。
「で、鰻取りがこう、簎で突いてみると、まず長い毛が引っかかってきた」
半兵衛が手振りをつける。
廊下に気配がし、お多恵が江戸絵図を持って現れた。座敷を目立たないようににじり寄って夫に背後から手渡すと、そのままそっと片隅に座る。
平田半兵衛はそれにはかまわず続けた。夢中になると、塾の講義でも身振り手振りが入る。
「それをたぐると」
と、そのとおりの所作をし、
「毛の絡んだ櫛がかかってきた」
櫛は鼈甲であった。菊花の彫り物の上物である。
そこで、鰻取りはさらに深みに入っていった。
この堀になにか流れ着くのは珍しいことではない。おととしの大嵐の翌日には、それこそ家財道具一揃い流れてきたものだ。
沼の中ほどへざぶざぶと入っていくと、果たして今度は暗い水面に目も彩な柄の着物が浮いている。
「簎をうんと伸ばしてそれに引っかけ、手前に引っ張った、ところが」
一呼吸あって、
「中身があった」
話ぶりの効果を見るように半兵衛は座を見回す。
「戸板にくっついていて、そのときはまだ女だけだと思っていたそうです。それが、役人が調べる段になって戸板を岸に引き寄せたところ、驚いたことに戸板がこう」
と、芝居のように手振りをつけ、
「ひっくり返って、裏にもうひとつ死骸があった。今度は男でした」
鶴屋南北は太い眉を険しく寄せ、老人とは思えない性急さで矢継ぎ早に聞いた。
「傷はどうでした?」
「男の方は首無しで、黒襟の松坂縞の木綿着。腰に按摩笛を結わえていたと……」
「按摩ですか」
一同はさらに膝を詰めた。
南北が先をうながす。
「で、女子のほうは?」
「それが、まだ若い女でしたが、首筋をざっくりとやられ、傷口が柘榴のように開いておりました。まだ、どこの誰とも……」
「身なりはどうでした?」
「着物など泥まぶれでしたけれど、それほど悪くないようで、菊のような小紋の縮緬に黒繻子の中幅帯。髷はくずれて、たぶん武家の出かと思われます。が……それより顔が」
話しながら半兵衛は、女形のように細い眉をしかめた。
「さんざん岩場かなにかで擦れたと見えまして、額から目にかけてもうひどいありさまでした」
一瞬、間をおいて、二三冶が筆を構えたまま短く聞いた。
「ふたりが張り付けられていた戸板というのは?」
「納戸の戸でもはずしたのでしょう。杉戸でしたが、こう手足を広げまして」
半兵衛が両腕を広げる。
「五寸釘で打ちつけてあったそうです。私が見たときは、釘はもう抜いた後でしたが」
長崎屋源七が行儀よくかしこまった小柄な体を前へ傾け、上目づかいで一同を見回した。
「間男の見せしめというところでしょうか」
「切りざまは刀とおもわれましたし、役人の検分もごく簡単に済みましたから、まあ、そんなことかと」
長崎屋源七が、今しがたお多恵の持ってきた近江屋版の絵図を一同の前に広げた。
男たちは額を寄せ合った。
平田半兵衛が上半身を地図の上に傾け、
「先ほども長崎屋さんと話していたのですが」
と、指で示した。
「神津川が、これこのように四ツ谷辺に沿って流れ、つい先の小名木川と合流し、十万坪へと流れています。四ツ谷というと、ご存知のように御先手同心の組屋敷があり、その先にいわゆる浪人長屋が続いておりまして」
と、口早に話していたそのときである。
「あれ! あそこ、あそこに!」
それまで片隅で一心に聞いていたお多恵が突然大声をあげた。
袂から白い腕をわなわなと伸ばし、腰を浮かす。
「人魂が!」
その場にいた全員がまずお多恵を見、次に目を直角に外に転じた。
「あ、動いています! 生垣に沿って飛んで行きます!」
一同騒然となって立ち上がる。
濡れ縁のところまでどやどやと出た。
半兵衛がすばやく沓脱ぎ石の上にそろえてあった桐の庭下駄を突っかけ、
「言ってください、どこですか。今、どこを飛んでいますか」
と、庭に下りる。
暮れなずみ始めた庭先に、紫陽花の花が人の顔のように白い。
南北は、老眼でかすむ目を懸命にこらした。