3 お多恵と菓子
長崎屋源七は内庭に目を据えたまま続けた。
「うちの妻なのですよ、人魂を見たと言うのは。馬鹿なことを言っていると叱りつけたのですが、見たのは一度や二度ではないと言ってききません」
その言葉が終わらないうちに、暗い廊下に衣擦れの音がして、長崎屋の妻女お多恵が女中を従えて茶菓を運んできた。
鉄漿の口元を愛想よくほころばせ、敷居際にふくよかな手をつく所作も柔らかく、大きく抜いた衣文の辺りからほのかな白檀の香りが漂った。
お多恵は長崎屋の後妻で、前妻は数年前に他界している。この後妻が器量といい品格といい、そうそうは見つからないような人で、芸者あがりではないかと陰で言う人もいるが、薬種問屋の商売が繁盛していることもあり、やっかみ半分であろうと南北は思っている。
そばで見ると、お多恵の落とした眉のあたりは若い娘のようにうっすらと青みがかっている。鶴屋南北は太い眉の下の皺んだ瞼を年甲斐もなく紅潮させた。
お多恵はひな人形のように整った面高の顔を傾かせ、
「これが、せんだってお話しておりました唐菓子でございます」
にこやかに茶菓を勧めた。
ひとりひとりの膝元に配られた小さな竹かごには白い懐紙が敷かれ、青々とした楓の葉の上に淡い吉備色の餅菓子がふたつ品良く並んでいる。いつものようにお多恵の手作りである。
主人の源七が、
「『餅腅』と申しましてな。刻んだ木の実を蜂蜜で固め、それを餅でくるんで三つに切ります。お口汚しではございますが」
と、勧める。
南北は菓子をかごごと目の高さまで持ち上げ、ためつすがめつ眺めた。いったいどうやって材料を調べ、こさえているのだろう。切り口から、さまざまな木の実が蜜を含んで濡れている。
―家ではこうはいかない。
南北は自分の女房のお吉のことを思って嫌になった。
妻のお吉は歌舞伎の道外方として名家であった鶴屋のひとり娘で、本来ならそれなりの家格から婿をもらうはずであった。それが当時すでに道外方の人気が落ち目だったこともあって、なかなか婿も見つからぬまま年を重ねていくのを見かねて、ちょうど南北が二枚目作者になったのを見計らい、間に立ってくれる人がいて、二回り以上も年の違う夫婦になった。
南北本人は梨園とは程遠い生まれである。紺屋のせがれで、もともとの芝居好きが高じて歌舞伎狂言立作者を志し、当時売れっ子だった桜田治助に弟子入りしたのは二十二歳のとき。役者大全に普通なら誰それの子と梨園の肩書がつくのに、それもないまま、歌舞伎狂言立作者として四代目鶴屋南北を襲名したのは実に五十六歳のときである。鶴屋襲名が遅くなったのは、妻のお吉が首をたてに振らなかったためである。
そもそも家付き娘のお吉は、嫁入り前にひととおりのことは躾けられているはずであった。それが、まず身なりにかまわない。鉄漿を嫌い、家では白歯のままだ。歯茎まで見せて食ったり笑ったりするさまは、若いころには愛嬌のようにおもえたが、子どもも成長した今となってはもう興覚めでしかない。化粧もうっとうしがって眉などろくに手入れをしないから、つんつんと伸びている。
身なりのことだけではない。生まれた時から歌舞伎界に居て、そこを全世界と見てきたお吉は、配役から台詞から所作から勘所を良く知っていて、南北も舌を巻くほどである。今や立作者の南北が長考し、絞り出すように書いた台詞すら、お吉はあざ笑うかのように、
「そんな台詞じゃあ、役者が泣きます」
などと一蹴する。
言っても聞かない、ああ言えばこう言う、何ひとつまっすぐに話が済んだことがない。今朝方も、中元の品を何にするかで、ひと悶着あったばかりである。
心の内で干支を数え、お吉はここの御新造と同い年だと気がついて、南北は出された麦茶を苦いような顔をして飲んだ。
学者の半兵衛が記憶を確かめるように目を細め、口をはさんだ。
「確か『枕草子』に餅腅と申すものを、藤原行成が清少納言に進上したことが見えておりますな」
南北は、添えられた竹楊枝で餅菓子を慎重に二分すると、ほとんど半眼になってその一片を味わった。
老齢の南北が駕籠で遠出するのもいとわずに、この集まりを楽しみにしている理由のひとつは菓子である。
もともと長く親交のあった薬種問屋の長崎屋と南北のふたりが、それぞれ聞きかじった奇妙な噂や怪談じみた話を暇々に交換し合っていたのが始まりで、噂を聞きつけた者が数人加わった。幽園会という。
怪談奇談、大小の事件、瓦版の速報から、さまざまな土地に伝わる故事伝説まで、興味のおもむくまま、物好きな話題になった。
その集まりの都度、長崎屋は情報網を駆使してさまざまな菓子の製造法を聞きかじり、江戸中に食材を調達しては、ご新造のお多恵に試作させ、こうして客に披露するのである。
南北が満足げに舌鼓を打つのを見とどけてから、長崎屋源七は妻女を促した。
「この間の話だ、ここで話してみておくれ」
それを合図に、平田半兵衛が手にしていた湯飲みを干し、体をこちらに向けた。二三冶も乱杭歯の口元を手の甲でぬぐうと慌てて矢立を取り出す。
鶴屋南北は、まだ温かい湯飲みを両手にくるんで膝に置き、すだれと濡れ縁と白い障子とで四角く区切られた庭先にじっと目を凝らした。皺のよった薄い耳に開幕を知らせる柝が入り、チョンチョンと澄んだ音を刻み始めた。
長崎屋の妻女が火の玉を見た話を終えたところで、南北は手水に立った。
小用をすませ、廊下のちょうど手水鉢を置いたあたりに立つと、庭の枝折戸と白い紫陽花がよく見える。紫陽花の茂みは垣を抜け、雑草の繁茂する裏の庭先まで続いていた。お多恵が火の玉を見たと言うのはあの辺であろう。
もしも自分がその場に居合わせていたら見えただろうか。怪談狂言はいくつも書いたが、幽霊も人魂も本物を見たことはない。南北はひとり庭先に目を凝らした。
廊下をもどりかけると、学者の平田半兵衛と行き違った。半兵衛は色白の顔を近づけ、南北に耳打ちをする。
「後ほどお耳に入れたいことが……。面白うございますよ」
部屋では、お多恵が忙しく茶を入れ替えているところだった。
二三冶が待ちかねたとばかり、煙管の雁首を灰吹きに勢いよくはたく。
南北は自席に着くと腕組みをして半兵衛がもどるのを待った。
二三冶が墨に汚れた手で、膝元に置いた袱紗包みをおもむろに開く。中は平たい高さ二寸ほどの円筒である。ふたを開けるその持ち方で、それがずしりと重いことがわかった。銀製であろう。
「御新造様、わかりますか?」
お多恵に黄色い歯を見せる。
「白粉入れじゃありませんか?」
「そのとおり」
中には白粉が三分目ほど入っていて、その上に丸く白い綿のようなものがのっている。
「なんです、それは?」
長崎屋源七が、えくぼの出た小ぶりの手を伸ばす。
「おっと、お気をつけて。生きてますでな」
言われて、源七は出しかけた手をあわてて引っ込めた。
代わって二三冶がおもむろに容器から取り出したのは、子供の握りこぶし大の白く柔らかいむく毛の塊である。
「ケサランパサランと申します。白粉を食べて成長するのだそうで」
「おや、まあ、かわいらしいこと」
お多恵が微笑みながら二三冶の手をのぞきこむ。
「毎年少しずつ大きくなっているそうでございますよ。上州の在の者が見せにまいりましてね。豪農ですが、これを家宝にしているそうです」
平田半兵衛がもどって来た。細身の体を音もなく、南北の隣に落ち着かせる。
座がなごやかにさんざめいているのを確かめ、正面を向いたまま、半兵衛は歯の間から押し殺すような声で南北に話しかけた。
「十万坪に男女の死骸があがったということは、もうお聞きおよびでしょうか」
南北は腕組を解き、亀のように丸い頭を突き出した。謹聴するときの癖である。
そのとき、二三冶が、ごつごつと骨ばった手に猫毛のたよりなく丸い塊をのせ、南北に差し出した。目も鼻もなく、ただ丸くふわふわとした白いにこ毛の塊である。
南北は鼻先に近づけてふんふんと匂いを嗅いだ。白粉の薄甘い匂いがする。
隣の半兵衛にそっと渡す。
半兵衛は薄い掌の上で軽く転がして、
「これは生き物ですか。雄でしょうか、雌でしょうか。子供を生むんでしょうか」
学者の生真面目な顔がほどけると、白い八重歯がのぞく。普段は無口だが、興にのって話し始めると止まらないときがある。
二三冶がほくそ笑みを隠し切れない体で答えた。
「ひとつだけだったのが、いつのまにかふたつみっつと増えるそうです。すると、白粉ごと暖簾分けしてよそへあげます。そうすると、そこがまた繁盛するというわけです」
「おや、まあ、商いのようですねえ」
お多恵がおっとりと言う。
座がなごやかに笑い立った。
「さあさあ、おまえはいいから、江戸絵図をな、ちょっと持ってきておくれ。平田様がご入用だ」
長崎屋源七が妻女を追い立てると、平田半兵衛と目を交わした。半兵衛は声を落として話し始めた。
「実は、さっそく塾生を何人か連れて見てまいりました。死骸を見つけた者にも話を聞いてきました」
二三冶が急いで白粉入れのふたを閉じ、男たちはそろって身をのり出した。
八畳の座敷が水を打ったようにしんと静まり返る。暗い廊下を伝わって、ひんやりと薄荷がかすかに匂った。




