21 白 酒
白酒を買いに寄ることを口実に、鶴屋南北はこの日の幽園会の集まりを早めに辞してきた。
毎年のこととはいえ、鎌倉町の豊島屋酒店の店先はたいへんな人だかりで、やっと入れた店内も、薄暗い中に麹の匂いと湯気と人いきれでむせかえるようである。
南北は、薄い掌に握りしめていた「白酒五合お引替え券」と書かれた切手を、片肌脱いだ店の職人に手渡し、酒樽から自前の小さな手桶に白酒をひしゃくでついでもらった。
再び人波に押されながら、葦簀張りの出口へようやくたどりつき、南北はほっと息をついた。つぶされないよう胸元に持ち上げた風呂敷包みに、陽の光がまだらに落ちている。
一歩往来に踏み出すや、西からの突風が乾いた砂塵を巻き上げながら吹きつけ、南北は一瞬方角を失った。
「山なれば富士、白酒ならば豊島屋」というのは、例年二月二十五日にひな祭りの白酒を売るとき、店で揚げるうたい文句である。この日ばかりは酒や醤油の商いを「相休申候」と立て看板を出し、白酒だけを商う。
水戸侯御用達をつとめるだけあって、豊島屋の白酒は甘くコクがあって、それでいてすっきりとした飲み口でうまいと評判が高い。しかも、店主が代々長命なのにあやかって、不老不死とか病退散のもとなどと言いふらす者がいる。そこで毎年恒例で、この日は白酒を買い求める客で、豊島屋の店先は押すな押すなの大混雑となった。
南北は立ち止まって帰りの辻駕籠を目で探した。
今日の幽園会の圧巻は何といっても平田半兵衛の連れてきた天狗小僧寅吉だった。七歳ばかりの少年で、もっと幼いころから未来を予知するというのでまず評判になり、そのうち神誘いに遭ったらしいという噂が巷をにぎわした。
この数日来、平田半兵衛は、少年を自宅にあずかるほどの熱中ぶりで、門弟たちとともに少年の奇妙な言動を書きとっていた。
往来の人通りはいっこうに減らず、豊島屋の店先に、白酒を入れるための手桶を下げた客があとからあとから詰めかけてくる。通りのこちら側にも、向こう側の人だかりを見物するための人込みができているくらいだ。
「入口」と張り紙をした店の正面には臨時にやぐらが設けられており、その上に、二本差しの警備の役人と、気付薬を用意した医者がひかえているものものしさである。
「ほれ、あのやぐらの上にいるのは鳶の者だ。鳶口でけが人を吊り下げて、あの上で手当てをするそうな」
まことしやかに言う者がいる。
「すりだ! すりだ!」
と、突然大声がして、店先の群衆が砂煙をあげながら一瞬ゆらりと動く。
南北は右手の風呂敷包みを胸元に引き寄せた。中には、長崎屋が包んでくれたかすていらが入っている。
幽園会の席で半兵衛は熱心に語った。夢中になると手振りが入る。
「神誘いに遭った者は、従来物言いがあいまいになったものです。ところが、この寅吉は違う。なんでもあけすけに話します。あちらの世界のことも包み隠さずなんでも言える時代になったんです」
いつもならひっそりしている長崎屋の奥座敷や、内庭に面した廊下を、天狗小僧寅吉はすばしこく動きまわり、その合間合間をとらえて発せられる半兵衛の質問に、確かにしっかりと答えていた。
仙人の国に三年住んでいた。あそこも鉄砲はある。仙砲と呼ぶ。風をこめて打つなどと言った。
「空を飛ぶときは、鳥のように大きな羽のついている乗り物に乗ります。陸を行くときは亀の甲羅のような固い乗り物で行きます。乗ったとおもうともう着いているのです」
「おまえはそれに乗ったのか?」
半兵衛が膝を乗り出す。いつもの柔らかい声だが目がきらきらと光を放っている。
片隅で長崎屋の御新造お多恵も、細い首を傾け、熱心に聞いていた。
途中、手水に立った南北が、廊下の隅で中庭の八つ手をぼんやりと眺めていると、長崎屋の主人源七が座敷を抜け出してきた。
「どうもにぎやかなことで。退散、退散」
丸い頬にえくぼが浮かんでいる。
「ときに、たいへんな事件がございましたな。例の怪談狂言のほうに支障は出ずに済んでおられますか?」
「それが……」
南北は庭に目を泳がせた。
あいかわらず、四ツ谷狂言には凶事が続出している。
なんといっても、四ツ谷の伴奏を引き受けていた清元の延寿太夫が凶漢におそわれ、命を落とすという大事件があったばかりだ。夜遅く、堺町の都座からの帰り道、乗物町の暗がりで突然刺されたのである。当時人気絶頂だった延寿太夫をねたんだ清元節の内部抗争のような噂が立っている。長崎屋が言ったのはそのことである。
しかし、それだけではなかった。「庵室の場」の例の提灯抜けのからくりを受け持った大道具方の長谷川勘兵衛は、仕掛けで目をつついてしまい、危うく失明するところだった。まだ療養中だが、片目では遠近がわからないと言い、心もとない限りである。
髷屋友九郎も火傷で不自由になった手足をかばって、やたら不機嫌だし、倅の鶴十郎も女房の紗枝がつわりで寝込み、母親のお吉も臥せってからは、どうもぼんやりとして生傷が絶えない。
それに、肝心のお吉は死にそうで死なない、と、言いかけて、南北は口をつぐんだ。
お吉のただれた顔はだいぶ癒えてきたものの、寝たり起きたりの半病人で、南北は家に帰るのも気ぶっせいでならない。ソウキセイはだいぶまえに使い切ってしまったが、お吉はときどき思い出したように、「四ツ谷の怪談狂言はどうなりました?」と聞いてくるから油断がならない。
お吉は近頃南北を見ると、病床から恨み言とも呪詛ともつかぬ言葉を吐くようになった。
「お岩さまは永遠にこの世にとどまります。男たちはそこらじゅうの女という女の目の中に、お岩さまを見るがいいんだ」
などと言う。
今にも起き上がってきそうな剣幕におどろいて、今日は出がけに寝所のふすまを釘で打ち付けてきたほどだ。
天狗小僧寅吉がまた廊下をどたばた踏み鳴らしてやって来た。息を切らせながら、南北に向かって唐突に言い放つ。
「幽霊を成仏させてはいけません。四ツ谷に祠を建てなさい」
「なんだって?」
この小僧のいるところで怪談狂言の話はしていないし、南北が何者であるか知るはずもない。なぜ四ツ谷の名がでてきたのだろう。
長崎屋源七は片えくぼをつくって、ふたりを交互に見比べている。
寅吉は、手にした半分食べかけのかすていらから、ぼろぼろくずを落としながら、今度は長崎屋に向かって、
「亡くなられた前の御新造さまも、恨みを残して死んでいった者は皆、神様になる道理」
「なんだ?」
すると、寅吉を追ってきた平田半兵衛が、
「霊はこの世にとどまるといいます。四ツ谷狂言のお岩の霊を祀っておいたほうがいいでしょう」
と、口をはさんだ。
寅吉は大人たちの視線をそらすように、今度は鶴屋南北をじっと見つめ、
「そうして、そろそろご自分の準備をなさいまし」
寅吉の足もとには、かすていらのくずが雀でも集まりそうなくらいに白く散らばっている。
「あとは自分でお考えなさい」
寅吉はそう言ってひらりときびすをかえすと、座敷のほうへ走っていった。
―自分の準備? なんのことだ?
豊島屋の店先の群衆は右にふくらんだり左にへこんだりしながら徐々にはけている様子だった。南北は見るともなく、それ自体生き物のような群衆を、往来のこちら側から遠目で眺めていた。
風が砂塵を巻き上げ、ふわりと南北の着物の裾を開いた。
どこか遠く高いところで、悲鳴に近い切り裂くような鳴き声がこだましている。南北は砂塵に目を細めながら、花曇りの、底の明るい空を見上げた。
そういえば、友九はあの鳥をつかまえただろうか。
髷屋友九郎の見世物興行の口上が浮かぶ。口上となると、あの男、どもらない。
古今より声のみ知られし冥途の使い。遠く平安の都では羅城門のきざはしにとまり凶事を知らせたという、鵺と申すはこれにございます。たったの八文で土産話ができまする。さァ、さァ、お代は見てのお帰りだ。
今日の幽園会では質屋の話がなかなか面白かった。次回は、友九郎が友人のどぶろくという男を連れてくるという。なんでも腑分けの怖い話をしてくれるそうで、今から楽しみである。
南北は白酒の入った手桶を口に当てて傾け、ひと口ふた口すすった。ふくよかな甘さを舌の上でころがしていると、不意に何事かおもいついて、ひっそりとほくそ笑んだ。
鶴屋南北一世一代打ち止めの辻興行はどうか?
―舞台は本堂三宝の間。南北葬式好みの小道具。仏前には香華。よきところに棺を据え、住僧華やかにいでたち、弔いの鳴物にて読経はじまる。住僧そばに立ち寄り、合掌し、松明をもって棺をポンポンと打てば、棺くだけて内より南北、経帷子にて現る。棺底を鼓のごとくポンポンと打ち鳴らし……。末期の水を口に含んで樒の花をば手に持って、四十九日の餅をば喰はんと、鵺が大ぶん舞い遊ぶ。
南北はおもわずポンポンと口を入れ、往来の雑踏の中で小さく笑った。
たった今、白酒を入れたばかりの重い天秤棒を肩にした白酒売りが、すれ違いざま怪訝そうな面持ちでこちらを振り返った。
南北一世一代の葬礼に、めでたい正月万歳を組み合わせるのだ。
二三治の驚きあきれる顔が浮かぶ。大道具方の勘兵衛は憮然とするに違いない。長崎屋は、笑いをかみ殺すかもしれない。お吉のことなど知ったことか。見物はこの趣向を見に来るのだ。この南北の趣向をな。なんの、なんの、生きているから動きもするワ。
かすていらの風呂敷が胸にほんのりと温かい。右手に下げた白酒の手桶が重くなってきた。
往来はあいかわらずの雑踏である。人ごみにまぎれ、帰りの辻駕籠はみつかりそうもない。
ふと気がついてみると、家に帰ることはおぼえていたが、帰り道がわからなかった。方角もよくわからない。そういえば、今は朝方なのか昼過ぎなのかもよくわからなかった。
―なに、かまうものか。
南北は、両の手に甘い荷物だけはしっかり抱え、吹きつける春風に向かって老体を斜めに倒し、歩みだした。




