2 幽園会
歌舞伎狂言立作者、四世鶴屋南北が、たて込んだ店の土間に立つや、主人の源七が目ざとく見つけ、
「いや、あいにくのお天気でございます」
奥からすばやく声をかけてきた。
帳場からそそくさと立ち上がり、栗色に光沢を帯びた薬箪笥の前に木綿縞の前掛けの膝を折る。
「盆興行の準備のほうはいかがでございます?」
長崎屋の主人源七は小柄な男で、座っていると幼い丁稚たちとそれほど変わらない。
夏でもひんやりとした土間には薄荷の清涼な香りが満ちている。薄荷は薬種問屋長崎屋の特許、淡きり薬ズボウトウの主成分で、これはさまざまな薬草を水飴に練りこんだ、今でいう喉飴である。
この年、江戸では風邪が大流行したこともあって、長崎屋の店先はこの喉薬を求める客で混みあっていた。
鶴屋南北は医者によく見間違えられる慈姑頭をなで上げ、
「いや、このところ……しばらく書いておりませんでな」
薄暗い店内に目をそらした。
とがった顎や薄い鼻梁といった華奢な道具立てとは対照的に、南北の白くなりかけた眉は太く一直線につながっていて、その奥に隠れた二重瞼の大きな目がわずかな光もよく反射した。その眼光鋭い目の下に青黒いクマが、薄い肌にうっすらと透けて見える。
以前ならときに神がかったように筆が走り、一気呵成の勢いで夜っぴいて書きどおしたこともある。その神が降りて来なくなってもう幾月になるだろう。
思考が続かない。考えることが苦痛である。考え始めてもすぐに煮詰まって、筆を手にしたまま白い美濃紙をにらんでときが過ぎる。構想を練り直し、やっと書き出しても今度は根気が続かない。反故はたまるばかりだった。今朝方丸めて捨てた反故の山がふいに思い出され、口中に苦いものが湧いた。
そうこうしているうちに梅も桜も散ってしまい、近頃「江戸っ子」を標榜している移り気な連中は、南蛮渡りの刺激的な見世物に今や夢中である。浅草奥山では背中に大きなこぶのある奇妙な生き物が評判を呼び、両国では幻術が見物を沸かせているという。
―下等な見世物なぞに見物をとられてたまるか。
眉根をよせると、南北の大眉は一本になった。
歌舞伎狂言のネタは出尽くしたような気がしないでもない。いやいや、見物をとりこにするような新しく面白い芝居はあるはずだ。それをものするのは自分しかいないという自負もある。しかし―
もう、十一月の顔見世には間に合うまい。歌舞伎狂言立作者、四世鶴屋南北も齢七十をもって打ち止めかか。いやいや、これは先ごろ読んだ芝居評の悪罵であった。
溜息をつきながら見まわすと、引き出しがずらりと並んだ薬箪笥の前にまだ幼さが顔に残る丁稚が数人。頭を手ぬぐいで包み、薬研にかがみこんで汗みずくで薬種を刻んでいる。その単調な音が厚い床板に重くひびき、生姜と薄荷の香りが店内に広がった。
主人の長崎屋源七が南北の目の下のクマに気がついて、
「なかなか大変なものでございますな」
言って、ふと顔を近寄せると
「高砂町の方は、まだだいぶ悪いようで……」
と、小声で付け加えた。
高砂町とは南北の怪談狂言で仕掛け物を手がけている髷屋友九郎のことである。いつもなら彼がこの小さな集まりをもっとも楽しみにしていた。それがこの春の大火で焼け出され、以来、寝たきりのままだ。南北の筆が遅々として進まない一因もそこにあった。あせってみても畏友友九の仕掛けなしには、怪談狂言もなにもあったものではない。
中元の鯖ずしを渡すやり取りが済むと、
「今日は離れの方に用意させましたので」
長崎屋が腰をかがめたまま自ら案内して、いつもの見慣れた奥座敷を通り過ぎた。
途中、勝手へ続く廊下の奥のほうから女たちの騒ぐ声が聞こえる。勝手口を開け放してあるらしく、派手な水音に混じって職人たちの威勢のいい掛け声がした。
足は止めず、長崎屋は首だけこちらに振り向けて、
「井戸ざらえでしてね。今朝一番で井戸水を汲みだしているところです」
七夕に井戸掃除をするのは江戸の年中行事のひとつである。この日どこもいっせいにするので、井戸職人にはよい稼ぎ時になっていた。
勝手の騒ぎをあとに、南北が通されたのは離れの一間。
廊下との境に下げられた浅葱色の異国風な更紗暖簾をくぐって、畳の匂いも新しい座敷に招じ入れられる。
奥にはすでに平田半兵衛が羽織袴で端座していて、南北を見ると役者のように色白の面を丁寧に下げた。年は壮年を迎えたばかり。その博学と蔵書の多さはつとに聞こえた学者である。
長崎屋が、そそくさと部屋の奥の障子を開け放つと、伊予簾が半分ほど巻き上げられていて、柴垣に囲われた内庭がひと目で見渡せた。雨はあがっていたが、陽のないせいか蒸していて、あたりがどことなく黄色味を帯び、
―夢の中の景色を見るようだな。
南北は鋭い視線を走らせ、思いをめぐらせた。
―この舞台正面に「夢の場」と書いた幕を下げてはどうだろう。見慣れぬ花や楊柳を配し、色悪がさまようのだ。昔だました女たちとなつかしく再会する。そして……。
南北の大きな目がくぼんだように暗くなった。
―いや、いや、なつかしくというわけにはいくものか。なら、いっそ、裏桃源郷にしたら面白かろう。
内庭の左手には凝った栗丸太の枝折門があり、片側にくくりつけた七夕の短冊竹が、湿気に絶えぬように先細りの頭をたれている。
南北の目はますますうつろになった。
すると、それまで物静かに座っていた平田半兵衛が、
「おや、あの紫陽花」
ゆるりと穏やかな声を出した。
垣のあたりの黒々と濡れた地面にひときわ大きな青葉がかぶさり、その間にほっかりと白く咲いているのは紫陽花である。
「去年は濃紫の花をつけませんでしたかな?」
言われてはじめて、主人の源七も気づいたらしく、
「ほう、そういえば……。今年は白く咲きましたな」
「日が経つと白から紫に変わるのではありませんか?」
と、三人で話しているところへ、三升屋二三冶が、廊下の更紗暖簾の間から馬面をにゅっとのぞかせた。
勝手知ったるとばかり案内もなくひとりで来たらしく、暖簾の下で膝をつき、まず油断なく左右に目を走らせる。ひょろりとした腰に帯が上がり、せっかくの薄物も襟元がくつろいでしまって、生白くとがった喉ぼとけばかりが目立っている。
二三冶は中村座の二枚目作者で、南北の下で芝居を書いている。二枚目三枚目という具合に、歌舞伎の脚本は複数の作者によって分業制作されていた。立作者の南北がおおよその段取りをつけると、それをもとに台詞の肉付けや書割の詳細やらを他の作者とともに按配するのである。
二三冶は、紫の袱紗包みを大事そうに抱えて、それを見せびらかしながらも殊勝気に下座に腰を下ろす。
「あとのお楽しみです」
言いながら、座の興味を見透かしたように煙草の脂で黄色くなった乱杭歯をのぞかせて、
「ほう、毎年、紫陽花の色が変わりますか。庭の趣が変わってよろしゅうございますな」
如才なく話題に加わった。
すると、待ち構えていたように南北が、
「そうさね、飽きがこなくていい……十年一日の芝居とはちと違います」
と、言い放ち、二三冶の視線を真っ向から受け止めた。
二三冶が本業のかたわら、「劇場高欄」という辛口の芝居評をこっそり筆名で書いていることは公然の秘密になっていた。つい二、三日前にも、「南北趣向の見本市」と題して、立作者の南北を陰でこき下ろしたばかりである。
南北の歌舞伎狂言の作風は真世話とか生世話などと呼ばれ、当時の高尚な見物には、「野暮なることはなはだし」とけなされていた。時代物に対しての世話物であり、町人社会の下世話である。
加えて、なにしろ大仕掛けがある。早変わりがある。見世物小屋や軽業師や蛇使いが出てくる。そうかと思えば正月から棺おけが登場し、果ては葬儀と婚礼の行列が混じり合い、貴賎入り乱れて踊り狂ったりする。野卑で悪趣味で、歌舞伎古来の作者道からはずれていると、二三冶に批判されたのもそれである。
ふたりの応酬に気づかぬふうに、学者の半兵衛が穏やかに長崎屋源七に尋ねた。
「あの垣の向こうは?」
紫陽花の濃緑の茂みは生垣の向こうまで伸びている。
「裏の家の井戸端ですが、その向こうはもう葦の茂った川端です。家の方はしばらく空いておりますようで」
「空き家ですか」
湿気を含んだ生臭い空気が中庭を渡り、濡れ縁から流れ込んで来る。
かたわらで二三冶が、はだけかけた襟元から筋の張った白い首を伸ばして軒端を見上げた。
「せっかくの七夕ですが、暮れても星は見えませんでしょう、この天気じゃあ」
「いや、今日こちらの座敷にお通ししたのは七夕ではないのです」
長崎屋源七が一同を見回して座り直した。
「じつはこの庭に、ときどき火の玉が出ますものでな。お目にかけたかったのでございますよ」