19 六角堂の腑分け
近くで葦のすれる音がして、伊右衛門ははっと目を覚ました。
同時に草いきれと水藻の臭いが鼻腔いっぱいにあふれ、自分がまだ川のそばにいることに気がついた。
体は横たわったままだが上下左右にゆれる。背中の固い感触から、どうやら戸板に乗せられ移動しているらしいことがわかった。
顔に筵がかぶせられているのか、隙間から筋状に陽の光が差し込んでいる。
頭のそばで男の声がした。
「どこまで運ぶんだ?」
足のほうを支えている男が答える。
「あそこだ、あの六角堂の前までだ」
泥沼をずぶずぶ歩く音。
へどろの生臭い臭いがあたりに充満している。
ときどき泥にとらわれて足が抜けなくなるらしく、運んでいる男たちが交互に、
「おい、ちょっと待て」
と、声を掛け合って移動が止まり、戸板が揺さぶられる。
戸板に横たわったままだが、音も聞き取れ、臭いも嗅ぎ取れ、移動中だとわかるのだから、これは夢ではないと伊右衛門はおもった。
顔を覆う筵がうっとうしくてたまらない。伊右衛門は右手で筵を払いのけようとして、腕がまったく動かないことに気がついた。指先に至るまで、まるで重い杭のように固まっている。これはいったいどうしたことか。
―おい、なにがあったのだ?
声を掛けようとしても、口中には舌が石のごとく横たわっていて微動だにせず、言葉が出ない。
船が転覆したのはおぼえている。伊右衛門の体は水中に投げ出され、他の乗船客たちのむき出しの腕があちこちから伸びてきて肩や腕にしがみついてきた。おもわず飲み込んだ水で大きく咳き込んだが、息つぐ間もなく、そのまま引きずり込まれて水中に没した。
そこまでは覚えている。伊右衛門は記憶をまさぐった。
濁った水中のあちこちでもがく男女の姿が泡沫の向こうにかすんで見えた。いずれも着物が海藻のようにふくらんで漂い、互いにからみあってはさらに深みへ沈んでいく。伊右衛門の首にだれかの細く長い腕がからみつく。記憶はそこまでだった。
三人目の男の声が聞こえた。
「おお、ご苦労、ご苦労。ここだ、ここに置いてくれ」
戸板ごとどさりと固い地面に置かれる。
と、いきなり顔の筵をはがされ、まぶしさで目の前が真っ白になった。目を閉じたいが瞼は全く動かず、猫の目のように見開いたままだ。
急に何人もの気配がして、伊右衛門の頭上で人声が行き交った。
「引き取り手がなかったのは結局この浪人者だけだな」
横たわった伊右衛門の頭上で着物の衣擦れの音がして、互いに挨拶を交わしている。
「おお、真菅乃屋の平田半兵衛先生もおいでくださったか」
「塾生の希望者を連れてきました。見学させていただきますので、よろしくお願いいたします」
「こちらは本日の開臓の執刀をされる根来東周先生と大槻玄斎先生です」
横たわった伊右衛門の視界には逆光で影法師のようだが、いずれも医者らしく、白髪混じりの総髪に十徳姿である。
「いや、律令成立以来、こういったことは長く禁忌となっておりましたが、古来より伝わる五臓六腑説にはずっと疑問を感じておりました」
「ええ、ええ。私どもは仕方なく、内臓が人間と似ていると言われるカワウソを用いたりしておりました」
「このたびの開臓はまたとない機会でございますな」
平田半兵衛が大きくうなずく。
「まったく。私は開臓を実見するのは二度目になりますが、病の発する原因を知らねば療治はなりがたいとおもうので、まことに勉強になります」
横たわったまま聞いていた伊右衛門は、全神経を耳に集中した。
―かいぞうとは、なんのことだ?
先ほど医者たちを紹介した声の主が、かたわらにひかえている筒袖の野良着姿の若い男を指して言った。
「こちらはどぶろくこと六三郎と申す者。以前、この者は曾祖父の老屠とともに腑分けの助手を務めております。本日は実験も行う予定ですし、手伝いにうってつけとおもい、無理を言って頼みました」
横たわっている伊右衛門の耳に、腑分けという言葉が稲妻のように響いた。
と、突然、両肩と足をむんずとつかまれ、体が浮く。
自分はまだ死んではいないぞと声を張り上げたいが、喉からは何の音も出ない。いや、自分が息をしているのかも判然としない。
戸板の近くでまたひとしきり人がざわめく。
伊右衛門の視界の隅で人垣が入れ替わり、今度は塾生とおぼしき若い男たちが戸板を取り囲んだ。中には顔を近寄せ、写生をはじめる者もいる。
―俺は死んではいないぞ。
伊右衛門はもう一度腹の底から大声を出そうと試みた。が、かすかなうめき声すら出ない。
少し離れたあたりで、さきほど先生と呼ばれていた年配の医者たちが襷を掛けたり、てぬぐいで頭をしばったり支度をしているらしい。
「どぶろく、死体の着物を脱がしてくれ。そこいらに干しておけば、後ほど湯灌場買いがもらいに来るだろう」
どぶろくは伊右衛門の頭のそばに腰を落とすと、濡れた着物をてきぱきとはがしにかかった。
「やあ、泥まみれだ」
汚れた衣服をたらいに移し、水を張る。
ぼろをまとった非人たちが、裸になった伊右衛門の体にひしゃくで勢いよく水をかけ、泥を流した。
伊右衛門のガラスのように見開いた眼にも容赦なく水が入るが、またたきもできない。
―自分は生きている、生きているんだ。誰か、気づいてくれ。
ばしゃばしゃと水のはねる音が聞こえ、体に幾筋も水が流れていくむずがゆいような感覚がある。
ときおり風が地表を渡り、伊右衛門の耳元でざわざわと騒いだ。
水でひととおり清められると、頭上で非人たちが騒ぎはじめた。
「やあ、こいつの顔、役者のようだぜ」
「うむ、なかなかに男前だな」
非人たちのはしゃぐ声がする。
「ちょっと成田屋に似てやしないか?」
「団十郎か?」
「へへ、死んじまえば成田屋土左衛門だあ」
軽く笑いが起きる中、どぶろくが医者連にかしこまった声を掛けた。
「先生、この男、せんだって乞食芝居小屋で見かけました」
「ほう、おまえの知り合いと申すか?」
「いえいえ。ただ、見物の中に妙なふるまいをする者がいたのでおぼえているのです。この男、芝居がまだ終わらぬうちに飛び出していきました」
戸板に横たわったまま、伊右衛門は大きくうなずいてやりたかった。
―そうだ、そうだ、そのときの浪人者だ。よく思い出してくれた。
が、首筋も顔もこわばっていて、自分の表情が少しも変わらないのが歯がゆくてならない。
支度のできた医者たちが草むらを歩いて近寄ってくる足音がする。
伊右衛門の耳元でガチャガチャと何かならべはじめる。それがさまざまな刃物が触れ合う音であることに気がついて、伊右衛門は身も凍るおもいがした。
視界の右端に、一見して大工道具か園芸用品とおぼしきものが見えた。金づちや鏨。のこぎりに錐。剪定ばさみや植木ばさみらしきもの。さらに木箱からガシャガシャと取り出したのは大小のはさみと小刀。
カシャンカシャンと植木ばさみの刃を合わせる音。
医者のひとりが、
「『医範提要』を持参したので、照合しながら進めることにいたしましょう」
和綴じのそれを手に広げた。
「執刀が手暗がりにならぬよう、見学者はこちら側にお集まり願います」
ざわざわと見学の者たちが移動する。
「どぶろくのほうは準備はいいか?」
「へい、まずは腹部を十文字に切っていきます」
血を流すための水が手桶に汲まれて用意され、いよいよ腑分けがはじまった。




