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18 水 難

 うっすらとうろこ状に雲を()いた上空を、(とび)が数羽、高く低く輪を描いて鳴きながら飛んでいる。

 渡し場が見えるところまで来て、間宮伊右衛門は重い風呂敷包みを道端の藪の中に無造作に放り捨てた。

 もう用はない。

 船頭が行き先を告げる声があたりに響いている。

 伊右衛門は追い風に背中を押されながら、開けた川べりへと転げるように下りて行った。単衣(ひとえ)(たもと)があおられて、筋張った二の腕あたりでばたばたと音を立てた。川端の葦が

いっせいにざわざわと波のような音を立てる。

 ちょうど出ようとしていた渡し舟をつかまえ、伊右衛門は細い体を船客の隙間にやっとのことで押し込んだ。すでに十人ほども乗船していたところに、遅れて来た客を次々と乗せたものだから、たたんだ膝頭が重なるほど客は押し合いへし合いになった。

 昨夜来の雨で川はだいぶ増水していて、漕ぎ出すや、船べりすれすれまで茶色く濁った三角波がたぷたぷと寄せる。

 舟の揺れに身をまかせ、いつの間にかうとうとしていると、ふいに夕べの尼御前の声が伊右衛門の耳元によみがえった。

 そこでこの琵琶も使いましてな、平家の合戦でも語るように地獄を語ったわけでございます。

 波音に混じって琵琶の音が遠く響く。

 尼御前(あまごぜ)が平家物語の壇ノ浦を低くうなりはじめる。

~我とおもはんものどもは……

 長く追いつめられてきた平氏の一行にもう逃げ場はなく、船上の戦いは勇猛というより悲壮であった。

~かかる安芸(あき)の太郎をば弓手(ゆんで)のわきにかい挟み、弟の次郎を馬手(めて)の脇にとって挟み、ひとしめしめて、いざうれおのれ等死出(しで)の山の供せよとて、生年二十六にて海へ突つとぞ入りたまひぬ。

 御堂の板葺きの屋根を叩く雨音が怒涛のように押し寄せて、琵琶の余韻をかき消したが、それに(あらが)うように、尼御前はふたたび(ばち)で弦をはじくと、

 いや、まだ物足りぬ。まだ歯がゆい。船に打ち寄せる波音が聞こえましょうか。潮のにおいは? 女たちの悲鳴は? 水面を割る水音、鎧兜(よろいかぶと)を打つ音や、船上を走る武者たちの重い足音、太刀の交わる鋭い響き。語り継がれてきた平家ですら、聞かせただけではわからない。では、はたして地獄は? 見たことのある者はいないのです。それがどうして語れましょう。絵空事ではだめなのです。そんな時、使ってみようと思ったのが……

 尼御前は独り言のように続けた。

 放下(ほうか)和妻(わづま)を使います。和妻とは幻術。目くらましとお思いか?

 思いがけないほど強い風が耳元に吹いて、伊右衛門ははっと目を覚ました。いつの間にか川の中ほどを小舟は勢いよく流されている。

 船が大きく揺れると船べりから水が入り込んだ。

 女どもの悲鳴があがる。

 と、一瞬、船が大きく一方に傾き、伊右衛門は船べりをつかんだ手に力を入れた。

 すぐ近くに座っていた女が伊右衛門の袂を強くつかむ。その手を払う間もなく、船べりが水面に深くもぐりこんだ。

 たちまち膝まで冷たい水がざぶざぶと回り込み、腰から胸が水中に没した。

 女たちの甲高い悲鳴と男たちの怒号が混ざる。

 そのまま、袖にしがんだ誰かの手に引きずり込まれるように、伊右衛門は水面下にごぼごぼと沈み、息ができなくなった。

 一度度深く沈んで浮き上がる。飲み込んだ水で大きく咳き込んだ。

 が、息を吸う間もなく、むき出しの腕があちこちから伸びてきて肩や腕にしがみついた。そのまま、再び水中に没する。

 濁った水中のあちこちに、もがく男女の姿がかすんで見える。いずれも着物が海藻のようにふくらんで漂い、互いにからみあっては深みへ沈んでいく。

 伊右衛門の首に誰かの細く長い腕がからみついた。もろともからみ合いながら水底へと落ちていく。淀んだ川底を、水泡を上へ放ちながら力を失った者が流れていく。

 伊右衛門は首にしがんでいた女の腕を払い、その腹のあたりを強く蹴った。その女の顔が、見覚えのあるあの病み呆けた妻の顔と重なった。

 伊右衛門が最後まで握りしめていた刀が左手から離れた。

 空気の泡が上へ上へと昇っていく。

 刀はゆらゆらと川底へ沈んでいく。

 遠のく意識の底を低い琵琶の音が響いた。


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