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17 質 屋

 小日向(こびなた)水道町の質店金子屋(かねこや)では、主人の久左衛門(きゅうざえもん)が不機嫌な声を出した。

「浪人者? 断ってしまいなさい。お前が適当にあしらってやればいい」

 節の出た指先で鼠羽二重の羽織の紐を几帳面に結びながら、渋紙を貼ったような額には深い縦皺が現れている。

 まだ朝に暖簾を出したばかりで、質入の客が人目を避けて訪れる時分でもない。

 幸い昨日からの雨もあがったので、久左衛門は会所の寄り合いを口実に、今日は浅草まで足を運んで一日遊んでくるつもりだった。実を言えば子供のようにわくわくとこの日を楽しみにしていたのである。なにしろ婆羅門(ばらもん)の妖術など、そうそうお目にかかれるものではない。

 浅草奥山では、近頃、和妻(わづま)と呼ばれる奇術が評判を呼んでいる。これまでも、竹の筒に入れた卵が一瞬のうちに小雀に変じて飛び立ったり、舞台で障子越しに馬を呑んで見せるなど、見物の度肝を抜いているというではないか。

 なにかといわくありげな質物を扱っている商売柄、金子屋の周辺は刺激的な噂話に事欠かかない。今日日はやりの江戸っ子といえば噂好きである。

 金子屋の三つもある土蔵についても、あれこれ噂をたてられていて、たとえば、倶梨伽羅紋々(くりからもんもん)の入れ墨のある全身の皮膚が、まるで曼荼羅(まんだら)かなにかのように表装されて収まっているとか、どこぞの公家(くげ)の家に鬼のような角が生えた赤ん坊が生まれたことがあって、そのミイラを隠し持っているとか、だれが言い出すのか、そのような噂話には枚挙の暇がなかった。

 先ごろはやりの朝顔の新種づくりなど、とうに飽いていた金子屋久左衛門が、浅草奥山の珍奇な見世物の噂を見逃すわけはなかったのである。

 それで、いそいそと支度をしていたところ、大番頭がわざわざ呼びに来たので、思わずいらだった声をあげた。

 大番頭は廊下にかしこまったまま、胡麻塩の頭を店のほうに振り向けてから、

「それが、その質物なのですが」

 急に声をひそめ、イグサの匂いのする座敷の中へ身を乗り出した。

「旦那様に様子を見ていただいたほうが、よろしいかと存じまして」

「なんだ?」

「それがその……なんとも……」

 大番頭は小さな目を泳がせるばかりで要領を得ない。小僧のときからの叩き上げで、この店のことなら自分よりよく知っている大番頭である。これはよほどのことだと気がついて、久左衛門はうなずいた。

「ふむ、どれ」

 衣擦れの音をさせながら座敷を出ると、大番頭を従えて、よく磨きこまれた廊下へとまわった。

 廊下から枯山水(かれさんすい)の庭が一目で見渡せる。昨夜来の雨で湿った築山(つきやま)に、早朝の日差しが斜めに射し、きらきらとはね返っている。青々とした(かえで)が風にそよぎ、葉裏の露を払った。

 そこから店側へ折れると急に空気が黴臭くなり冷え冷えとする。廊下には明り取りも掃き出しもないからどこも薄暗い。

 生臭い風が渡ってきたので、久左衛門は思わず袖先で口元をおおった。

―なんだ?

 小腰をかがめて店先へ出ると、つくり笑いが意識せずとも自然に浮かんだ。

 薄暗い店の土間には、月代(さかやき)の伸びきった浪人風体の男がひとり突っ立っている。

労咳(ろうがい)病みか?

 血管の透けた青白い肌が骨の形をなぞって、ほとんど骸骨のようだ。ふちが赤くただれた大きな眼は魚類を思わせた。

 しかし、埃をかぶってはいるものの黒縮緬の羽織なぞを着ているところを見ると、もとは御手先同心あたりか? 細い腰に差した大小は重々しく、どうやら竹光ではなさそうだ。

 久左衛門はひと目でここまで見て取ると、畳にひざをついて、一瞬動きを止めた。

 畳敷きの帳場と店の平土間の間は、万一の場合に備え、鉄柵を立てて仕切ってある。鉄柵の中央には四角くくりぬかれた窓があり、客と品物のやりとりができるようになっているのだが、そこに、男の持ってきた質草の風呂敷包みが置かれていた。

「買い取ってもらいたい」

 痩せ浪人は視線をそらしたまま、抑揚のない声を出した。

 洗いざらしの木綿風呂敷にきつく包まれて丸みを帯びたその形。血こそにじんでいないものの、生臭いにおいがそこから立ち上っていることは歴然としていた。

 わざわざ横向きに包みを置いたのだ、この男。

 さすがの金子屋久左衛門も、下しかけた腰を一瞬宙に浮かせ、言葉を失った。しばらく息を呑んだまま、凝然と風呂敷包みをにらんでいたが、少し落ち着いてくると、

―ああ、これが例の……

 と、思い出した。

 先ごろの回状にあったではないか。会所でも何度か話題になっている。この半年の間に、何店か似たような被害にあっていたはずだ。

 浪人風体。生首らしきものの入った風呂敷包みを持ってきて、買い取ってくれと無理無体を言う。もちろん引き取る店などありはしない。風呂敷包みを開けることすらおぞましい。

 江戸には四千もの質屋がひしめいている。これからでかけていく会所だけでも、百からの質屋を取り仕切っているのだ。それが、よりによって、この金子屋に来るとは……。

「いくらでもよい。引き取ってもらいたい」

 浪人者は挑むように重ねて言った。

 すると、久左衛門のほうも、それまで茫然としていたのが怒りに変わった。

 鳥金(ちょうきん)と呼ばれる金子屋である。つまり、朝、鳥の啼きだす頃に貸し出して、夕方、鳥が巣に帰る頃には取り戻す。たった一日の融通だが、ひと月分の高利も辞さない。人死にも商売のうちと、先代から教わった金子屋久左衛門である。

「まことに申し訳ございませぬが、このお品は当店ではお引き取りいたしかねます。なにとぞ……」

「いや、引き取ってもらうまで、ここを動くわけにいかぬ」

 浪人は静かな物腰で上がり框に腰を下ろした。

 大番頭が、

「恐れ入りますが、お取り決めでは……」

 途中まで言って主人のほうに顔を振り向ける。

 久左衛門が後を引き取った。

「お取り決めでは、置き主と証人の御同道で、印判を御持参いただいたうえで質取りすることになっております」

 実際には、とくに金子屋の場合、表に出せないいわくつきの質草も多かったから、無判の質取りも多かったのだが、ここはそれ、取り決めをまず言い訳にした。

「かならず品触(しなぶれ)にありますものと照合し、盗品等問題のあるものについては申告しなければなりませんので」

 これは本当で、該当する品がなくとも、無しと申告だけはすることになっている。

 こうして押し問答すること小半時。

 何も知らぬ客が入ってきた。

 薄暗い店先に無造作に置かれた、それなりの形の風呂敷包みを見てぎょっと立ちすくむ。

 それを潮に、金子屋久左衛門は眉をひそめてため息をつき、かたわらの大番頭に大仰にうなずいた。

 大番頭は慣れた手つきで小引き出しからいくばくか包んで、浪人者に丁重に差し出す。

 浪人者は中の金子(きんす)を確かめもせず懐に収めると、

「造作をかけた」

 腰を上げた。

 大番頭が風呂敷に添えようとした手を宙に浮かせ、

「あ、もし、これを……どうぞお持ちかえりくださいませ、どうか……」

 手をつかねてうろたえた。

 浪人者は無表情のまま、風呂敷包みをずしりと手に取り、店を出ていく。

 同時に久左衛門が店の奥へ甲高い声を張り上げた。

「塩、塩!」

 先ほどから奥で聞き耳を立てていたらしい小僧どもが、塩壺を手にばらばらと三人ほど現れた。心なしか、まだ生臭い土間に塩をまく。

「まったく、朝っぱらから縁起でもない!」

 鼻を袖先で覆いながら、袖を振って生臭い空気を払う。

 そこで、久左衛門はふと思い出した。

 そうだ、このことを長崎屋の幽園会で披露してみたらどうだろう。

 先日はあいにくと所用と重なってしまい出られなかったが、そのうちまたお誘いがあるだろう。これから見に行く和妻の見世物の話などより面白がられるかもしれない……。

 あの南北翁が一本眉を開いて喜びそうな気がして、苦り切っていた金子屋久左衛門の頬がつかの間ゆるんだ。

 魚をさばいたような臭いは、金子屋の店先から、将棋型の質屋の看板のあたりをしばらくの間ただよっていたが、やがて川風に乗り、ゆっくりと風下へ流れて行った。


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