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16 御  堂

 間宮伊右衛門は、御堂の破れた軒先から刀身をつき出して、冷たい雨だれで血糊を流した。雨の雫がみだれた襟元から容赦なく背中に流れ込む。

 昼過ぎから降り出した雨は激しくなるばかりで、夜になっても一向に止みそうにない。

 雫を払って濡れた刀身を鞘に納め、御堂の奥をのぞいてみる。首だけ差し入れて中を見回すが、暗く奥行きが深いばかりで判然としない。(かび)と線香と、何かくすぶった臭いが鼻をつく。

 奥に仕切り戸が見えた。あの向こうが本堂だ。今宵一夜身を隠すことができれば……。

 それに、もしかしたら、あの奥に、いい値のつきそうな仏像でも鎮座ましましているかもしれない。

 伊右衛門はきしむ引き戸を開けようとした。それだけでむやみと息が切れる。荒い息を吐きながら御堂の引き戸をやっと体の幅だけ開けると、のめるように闇の中へ体を差し入れた。

 手にした風呂敷包みが、引き戸にあたってごつごつと重い音をたてる。くもの巣を払いながら、白く枯れきった扉の残骸をまたいだ。

 柱で体をささえながら、ふらふらと奥へつたい歩く。体は夕刻より熱を帯び、それが雨に打たれたせいで今はいけない。意識もふとすると遠のきそうである。伊右衛門は激しく咳き込み、生臭い痰を吐いた。

 屋根を打つ雨音が両耳を圧する。降りはますます激しくなった。

 夜目を利かせて見回すと、吹きさらしの床はところどころ抜け落ち、白くささくれだっている。  

 見上げても天井のあたりは目をふさがれたように真っ暗で、あちこちから雨漏りがひどい。黴におおわれたしっくいの壁や、小火(ぼや)でもあったか焼けただれて根元が真っ黒に炭化した柱が、やっと見てとれた。

 奥の須弥壇(しゅみだん)にはどこかいびつな等身大の釈迦如来(しゃかにょらい)。それを囲むように、年月で顔のすり減った小さな如来らしきものが二、三体。ほかに残っているものといえば、手足のもげた仁王像が壁を背に目を剥きだしている。

 泥のような疲労がどっと押し寄せた。

 伊右衛門は腰の下ろせそうな場所を探し、暗い中にもさらに暗いあたりに、赤く血走った半眼をさまよわせた。

 と、そこに先客がいた。

 反射的に手が刀の(つか)に行く。風呂敷包みが床にどすんと落ちてごろごろ転がると、壁のところで弧を描いて止まった。

 柄にかけた指先は固くこわばっている。冷たい雨の中、重い包みを下げてきたせいだ。指をほぐそうと動かすと、足高蜘蛛に似た影が薄闇に踊った。息をひそめたまま耳を澄ます。

 すると、仏像だとばかり思っていた影が口をきいた。低いが(りん)と響く女の声だ。

 雨宿りでございますか?

 厨子(ずし)の下、一段高い所に、細身の尼僧が、荒れ果てた光背(こうはい)にもたれている。伊右衛門は熱でうるんだ目を見張った。

 目鼻も分かたぬほど暗いのに、なぜか尼僧や厨子の様子は内に光を帯びてほんのりと輪郭が浮かびあがっている。ワカメのように破れた袈裟(けさ)胡坐(あぐら)を組み、どうやら膝に琵琶(びわ)を抱えているらしい。 

 春をひさぐ歌比丘尼(うたびくに)か? 

 伊右衛門はほっと肩の力を抜いた。

 平家語りか? めずらしいな、女子(おなご)とは。

 見上げると、頭上を覆う厨子は、もともと朱塗り金箔の豪奢なものだったのだろう。今は見るかげもなく煤け傾いているが、なるほど厨子の下は濡れていないようだ。

 平家も語りますが……放下僧(ほうかそう)にございます。

 剃髪(ていはつ)の頭をめぐらして言いながら、膝の琵琶を抱え直す。とぎれとぎれにつまびくと、低い響きが本堂の暗闇を深海のごとく重たげにゆらした。

 座頭か?

 緊張が解けるや、伊右衛門の体がゆらぎ、ほうっと生臭い息を吐く。

 はて、放下とはなんのことだ? 

 伊右衛門はずしりと重みを増した刀をさやごと腰から抜いて、壁にもたれたままずるずると腰を落とした。

 かたわらの風呂敷包みからは、血なまぐさい臭いが絶えずのぼってくる。臭いを嗅ぎつけて、あちこちで小刻みに動きまわる小さな足音がする。ネズミが寄ってくるらしい。

 伊右衛門は重い包みを膝元に引き寄せた。

 大事な商売物だ。明朝さっそく質屋を探し、さっさと片付けてしまおう。これで最後だ。路銀ができたら今のうちに江戸を出るのだ。渡し船に乗って、その先は―

 刀を左肩にもたせかけ、伊右衛門は目を閉じた。

 尼僧は知らぬふりで、

〽諸行無常の~

 と、しばらく平家の出だしを高く低くうなっていたが、まるでこちらの心中を見透かしたように声をかけてきた。

 こう激しい降りではとても出られますまい。この先の川のあたりはとうにあふれておりましょう。

 伊右衛門は固い板敷きに居心地悪く、やせた尻の位置を直した。目も上げず聞く。

 放下僧というのはなんだ?

 尼僧は白い(まなこ)を暗闇に向けたまま、

 放下は旅のおなぐさみに芸を披露いたします。なにやら面白いお話でもいたしましょうか?

 琵琶を弾く手を休めない。そのまましばらく耳を傾けるように返事を待ってから続けた。

 私は平家も語りますが、もともとは絵解きをする説法僧でございまして、人を集め、大蔵経で因果のことわりを説くことを業としておりました。

 伊右衛門は聞き流しながら、うつらうつらと熱に浮かされていた。ゆっくりと体ごと闇に沈んでいく。

 板敷きの屋根を叩く激しい雨音の中、尼僧の声は平家を語るだけあって、暗い本堂の四方によく響いた。

 説法に使っていたのは仏画でございました。釈迦如来が観音菩薩(かんのんぼさつ)勢至菩薩(せいしぼさつ)を伴い、西方(さいほう)より金色(こんじき)の雲に乗って下ってくる尊い有様を講堂に吊るしましてな。しかし……

 しばしためらい、声を低める。

 私が見せたかったのは、むしろ地獄でございます。

 伊右衛門はふと思い出して、片頬に苦い笑みを浮かべた。

 なんの、今にして思えば、あれが地獄の始まりよ。

 あの頃は一時の辛抱と思っていた。人生に浮き沈みはつきものだ。

 確かちょうど、自分より少し早く浪人長屋を追い出されたひとり者がいたはずだ。日本橋や両国濱町(はまちょう)あたりの人ごみを、ほこりまみれの浪人髷で、ふらふらさまよい歩いているところを何度か見ている。そのときはこちらが物陰に身を隠した。

 それから、ひと月もたたないうちに今度は十国橋(じゅっこくばし)のたもとで物乞いをしているのを見たと言う者がいた。それを最後に川原で行き倒れたと聞く。衣服は破れて垢まみれ、侍とはおもえぬほど堕ち果てた姿だったという。してみると、野良猫の寿命は二年と言うが、人間なら野に放して命運尽きるまで四十五日というところか。

 伊右衛門はほてった目を開いた。

 そうなのだ。自分たちは、まだ持ちこたえたほうなのだ。

 熱に高潮した頬をゆがめ、沸きあがる苦い笑みをかみ殺す。

 好きあった者同士、お岩と手に手を取って駆け落ちはしてみたものの、半年で路銀は尽きた。それでも提灯貼りの手内職も見つけ、夫婦ふたりで力を合わせ、九尺二間の裏長屋になんとか納まった。

 いや、いや。実際、遠い縁故に仕官のつてがないでもなかったのだ。それがかなわずとも、町道場の師範代くらいなら務まるとおもっていた。だから、ほんの一時持ちこたえれば、そう、夫婦の食い扶持くらいなんとかなる。と、その時はおもっていた。

 ところが、こんなときに妻が懐妊(かいにん)、そして出産。

 産後の肥立ちが悪く、薬代を捻出するために奔走した。乳が出ないから、生まれたばかりの赤ん坊は日に日に痩せていく。

 最初のうちこそ隣近所で心配してくれる者もいたが、きりがないと知るや、顔を合わせるのも避けるようになった。盆暮れのやりとりも、こちらから返礼ができないから相手も気遣って控えるようになり、近所づきあいは自然に途絶えた。

 傘張りや提灯張りの賃仕事で食いつなぎ、芦刈(あしかり)や埋め立ての人夫仕事、賭場の用心棒。質草になるものはなんでも持って行った。

 妻は恥を忍んで里方に何度も窮状を訴えた。が、舅は、娘をたぶらかしたと伊右衛門を最後まで認めようとしなかった。

 御堂の屋根を雨が叩いている。目をふさぐ闇の中、雨音にときおりかき消されながら、尼僧の語りが再び低く漂った。

 人は死して三途の川を渡り、……閻魔十王の裁きにより八地獄へと落とされます。……叫喚地獄、焦熱地獄、阿鼻地獄……。

 今も思い出す。ぬかるんだ路地裏。ところどころ踏みぬかれたどぶ板。(かび)と苔で青臭い共同井戸。

 反り返った軒端(のきば)がせめぎあう長屋の一番奥まった角。()れ障子をきしませて開ければ暗い鼠壁(ねずみかべ)水屋(みずや)反古張(ほごば)り付きのふすまの向こうは()ぜ張り茶渋の二枚折り屏風。

 家の中も蚊が多いから、昼間でも蚊帳(かや)は吊りっぱなしだった。萌黄(もえぎ)の蚊帳の三方だけ掛けて、その薄暗い中で、いつも青い顔をした妻と生まれたばかりの赤子が破れ布団に横になっている。甘臭い病人の息と赤ん坊の襁褓(むつき)の蒸れた臭い。痩せた赤ん坊はヒイヒイしゃくりあげるばかりだ。

 妻は浪人生活の窮乏にも最初のうちは従順だった。無理な体を押して勝手仕事に立っては寝込む。共同の雪隠(せっちん)へ這うように行っては倒れるといった繰り返し。

 一時は惚れぬいた女房も、病みつかれた面相で骸骨のごとく痩せ、その薄くなった肩にぼろを着ていては、かつての華やかな面影も思い出せぬほどだ。

 病は重くなる一方で、寝床で声を殺して泣く妻の姿を見ると、逆に自分が責められているようで、伊右衛門は声を荒げるようになった。

 すると、この病人は綿のはみ出たせんべい布団に片肘ついて、ゆらゆらとやせ細った半身を起こし、どこにそのような力が残っていたかと思うような鋭い声を発し、伊右衛門に反旗をひるがえした。

 妻の最後の言葉は、今でも伊右衛門のほてった耳朶(じだ)の底に響いている。

 残された赤ん坊は水だけで四日ほど生きのびた。その、(むくろ)も今は井戸の底。

 眠りに引き込まれそうになりながら、闇の中でふと名を呼ばれたような気がして、伊右衛門はけだるく(おもて)を上げた。

 四弦の琵琶がひとしきり響き、暗く陰った坊主頭を爬虫類のようにもたげ、尼御前(あまごぜ)は続ける。

 餓鬼や鬼が責めさいなむ凄残な地獄図、飛び散る血しぶきの赤い泥絵の具や、紅蓮(ぐれん)の舌を伸ばす業火も、阿鼻叫喚、逃げ惑う衆生(しゅじょう)のさまも、仏画ではとても物足りない。私にはそう思われたのでございます。この世の苦行はそんなものではございますまい。

 そこで、次に使ってみたのは絵巻物でした。

 なるほど、と、伊右衛門はときどき意識の薄れる熱い頭で考えた。

 絵巻なら右が過去、左が未来。右へ右へと順に繰り出して、因果の成り行きを説けるかもしれぬ。しかし、因果とは何だ? 

 悔恨ともつかぬ熱いおもいがこみ上げる。伊右衛門は膝元に重い風呂敷包みをたぐり寄せ、けだるい首を伸ばしてかたわらに唾を吐いた。

 尼僧は、伊右衛門の心中を見抜いたように、笑いを白い喉の奥で押し殺す。

 絵巻も所詮は子供だましと言われるか?

 つられて伊右衛門も片頬をひきつらせた。

 浪人長屋のある川辺は掘割が縦横に走っていた。水面にはぼうふらが湧き、藪の多い隣の寺町からも蚊の大群が押し寄せた。実際、藪の多い穢土(えど)、いや江戸全体が夏は藪蚊の巣窟なのだ。

 蚊帳を質草に持って行かれては、坊が蚊に刺されて泣きまする。

 そう言って、妻は蚊帳にすがりついた。

 生まれたばかりの赤子を抱え、病の妻が蚊帳を取り上げられそうになって泣くのも無理はなかった。それはわかっていた、わかっていたのだ。

 おまえさま、なぜ刀を質に入れてくれませぬ。ええ? 妻子より刀が大事か?

 瀕死の病人とは思えぬような鋭い声で、妻はそう言ったのである。

 いつの間にか眠りに落ちていたらしく、伊右衛門は深くうなだれていた頭を起こした。左肩にもたせかけた刀の鯉口(こいぐち)から、魚をさばいたような生臭いにおいが立ち上ってくる。

 刀は備前(びぜん)。曾祖父の代から譲り受けた逸品だ。天正祐定(てんしょうすけさだ)と聞いている。病に臥せった妻から蚊帳を奪って質入しようとするまでになっても、この刀は守り続けた。妻はそれを言ったのだ。

 かたくなに刀を守り続け、それが皮肉にもこうして今役に立っている。天に向かってつばを吐いてやりたい。

 因果とは何だ? 

 かたわらの風呂敷包みを引き寄せると、床に黒い染みが広がり、中で形なりにごとりと傾いた。

 再び、伊右衛門はうつらうつらと眠気にたゆたった。尼御前の声が遠く聞こえる。

 放下は和妻(わづま)をあやつります。和妻とは婆羅門(ばらもん)から伝わりし秘法。袖より蝶や小雀を出し、茶臼に花を咲かせ、床の間に滝を落とし、目くらましをいたします。

 ふと鼻先を、小鳥の羽ばたきにも似た何かが横切ったような気がしたが、伊右衛門は(こうべ)をたれたまま身じろぎもしなかった。

 人を眠らせ、その体を浮遊させ……居ながらにして(から)へ飛ビ、ハタマタ天竺ヘ運ビ、オモイモヨラヌヒトトアイ、マカフシギノ……

 急に雨がそこここで床を打ちはじめる。

 雨漏りか? ネズミたちが一斉に走りはじめたか?

 ああ、風呂敷の上をネズミがぞろぞろと這いまわっているらしい。これでは中身を食われてしまう。

 思う間もなく雨音が激しくなった。内外も分かたぬほどの雨音が、両耳の奥で轟いて共鳴する。

 間宮伊右衛門は深海の底で藻のごとく二、三度たゆたうと、今度こそ眠りの底へ深く沈んでいった。


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