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14 夢の場

伊右衛門    さてこれからが新枕(にいまくら)。ドリャ、水揚げにかかろうか。

            ト、凄き合方(あいかた)になり、風の音、時の鐘

        お梅殿、さぞ待ち遠に。

            ト、屏風(びょうぶ)を引き開ける。床の上に、お梅、うつむいている|体 

            《てい》。

            伊右衛門近寄って

        コレ、花嫁御、うつむいてばかりいる事はない。恥ずかしくとも顔をあげ、日頃の恋の 

        叶うた今宵、そんなら目出度く笑うてくだされ。


お岩      アイ、おまえさま。

            ト、ひょいと顔をあげる。伊右衛門ハッと驚く。



                *  *   *


 鶴屋南北はハッと目を覚ました。

 あたりは寝静まっているようだ。

 どこか遠くで犬の遠吠えがする。

 一瞬自分のいるところがどこがわからず、南北は不安で身を固くして周囲を見回した。

 見慣れた本棚や文机が目に入ってはじめてほっと息をする。この頃はいつもこんなふうで、日中でも自分の居場所が突然わからなくなることがよくあった。

―そうだった。四ツ谷の台本を書いていたんだった。いつの間にか文机につっぷして眠っていたようだ。いけない、いけない。こんなことでは、いつ書きあがるかわかったものではない。

 立作者だから全体の構想さえできていれば、あとは二枚目三枚目の作者にまかせてしまっていいのだが、ここぞという場面は自分でしっかり書いておきたかった。そもそも二三治なぞにまかせたら、どんな怪談狂言になるか知れたものではない。

 やっとはっきり目が覚めて、ふと気がつくと、こんな深夜、廊下のほうで足音がする。南北は聞き耳を立てた。

 聞きなれた女の足音だ。お吉が手洗いに行くのである。手洗いは廊下の突き当りだ。

 行きはさっさとした足さばきで元気な時と変わりない。しかし、だいぶ経って手洗いから戻るときには、精魂尽き果てたように足取りもおぼつかなげになっている。行きは腹の痛みや吐き気に急かされて急ぎ足になるせいで、元気そうに聞こえるのだ。戻るときは疲労困憊していて、容態が決してよくなっていないことがうかがえる。

 南北は、思わずこみあげる薄笑いを押しこらえた。

 日頃から生意気なことを言って人をやり込めてばかりいるあの女房が、こんなに弱るとは思ってもみなかった。このまま長引けば、さすがのお吉も少しはしおらしくなるのかもしれない。

 なにも殺してしまおうというのではない。ただ、葛根湯(かっこんとう)に少しずつ混入した南蛮渡来のソウキセイの効き具合が興味深かった。ふつう三回に分けて飲む量を、ずっと少量にして毎日与えている。一回目はたちまち面体崩れてびっくりしたが、二回三回と続けるにつれ、体調は徐々に悪化し、下痢吐き気めまいなど、今はもう手洗いに立つ以外、お吉は枕から頭も上がらないくなっていた。

 これでお岩の幽霊の構想も浮かんだし、四ツ谷狂言も順調に進んでいるので南北は機嫌が良い。

 二三治は、鶴屋南北は字が書けない、歴史を知らないと馬鹿にするが、自分ほどのたたき上げはほかにいないと南北自身はおもっている。これまで大眉の下の目を皿のようにして世間を見てきた。とくに怖いもの見たさにかけてはだれにも負けないとおもう。字は書けなくとも、歴史を知らなくとも、怪談狂言の見物とともに歌舞(かぶ)くことができる者は、自分をおいてほかにないという自負がある。

 年はすでに七十を超えようとしている。あといくつ狂言を掛けることができるか知れたものである。四ツ谷で打ち止めにしてもよいとさえおもえた。

 鶴屋の屋台ならひとり息子の鶴十郎がしっかり支えてくれているし、孫の亀坊もいる。嫁の紗枝は今でこそつわりがひどくて家事もままならないが、いずれ身ふたつになって、家人の面倒もみれるようになるだろう。お吉の手を借りずともだいじょうぶなのだ。

 ただ、御殿医が見立てをはっきり口にしなかったことは気にかかっていた。そもそもなんだって二三治はよりにもよって御殿医なぞよこしたのだろうか? 二三治にしろ御殿医にしろ、なにか不審におもうところがあるのだろうか。いやいや、南蛮渡来の珍しい大毒薬だ。この薬のことを知っているのは長崎屋を除いていないはずだし、長崎屋はお吉がこんな状態で寝込んでいることすら知らない。それに、長崎屋と二三治のふたりが幽園会以外で会うことはまずないはずだから、お吉の噂も伝わっていないはずだ。

 いや、いっそ、お吉が死ぬようなことがあったら、四ツ谷の評判が上がるのではないか? そう考えてから自分で自分にぎょっとして、南北は暗闇に目を泳がせた。

 万一お吉の噂が伝わったとしても、長崎屋はソウキセイのことを人に話すはずがないのだ。そんなことをすれば、長崎屋自身に火の粉が降りかからないとも限らない。後妻のお多恵は運よく見つけたものではあるまいと南北はおもっている。

 犬の遠吠えがまた小さく聞こえる。

 南北は、冷めた甘草の汁をちびりちびりとすすりながら、再び四ツ谷の構想を練りはじめた。夢見がそのまま構想の羽を広げるのを助け、おもいがけないところまで飛翔する。

 そのおもいつきがこぼれ落ちるのを恐れるように、南北はそろりと用心深く文机に身を寄せた。


                *  *   *


 三升屋二三治はハッと目を覚ました。

 どこからか、犬の遠吠えが聞こえる。

 夢うつつの中、寝返りを打って目をつむると、ふと昼間のことが脳裏によみがえり、思わずにやりと寝顔に笑みが浮かんだ。くっくっとこぼれそうになる笑いを布団の中で押し殺す。

 天下の鶴屋南北に御殿医を紹介してやったのは痛快だった。日頃横暴なくらいの南北が、玄関先で平身低頭し、恐縮しているのを見て、してやったりという気持ちになった。

 さすが御殿医ともなれば、駕籠も側面に戸が取り付けられた立派な造りの長棒駕籠(ながぼうかご)で、駕籠かきや薬箱をかついだお供の者も医者の名前を染め抜いたそろいの腹掛けをして、南北ならずとも度肝を抜かれたのはもちろんである。

 医者はかなりの高齢で腰も曲がり気味だったが、病人の枕元でしっかりと脈をとり、動じることなくお吉の崩れた面体を検分した。

 結局、医者による見立てははっきりせず、煎じ薬と膏薬(こうやく)を処方するということで、一同玄関に平伏して医者一行を見送った。

 医は仁術というように表面上は薬価を求めることはしないが、後ほど御薬礼(おやくれい)として南北は相応に包まねばならない。それも愉快と言えば愉快である。

 しかし、南北のあわてぶりは恐縮の度を越えていたようにおもわれてならない。南北の夫婦仲があまりよくないことは噂で聞いていたが、面体があれほどになっても医者を呼ぼうとしないのも尋常でない。女房があんなふうな有様で、いったい南北は四ツ谷の狂言が書けるのだろうか。

 いや、待てよ。これはひょっとするとひょっとするかもしれない。二三治は目を見開いて再び寝返りを打った。

 ボケのきた南北の筆がどうしても進まなければ、女房の手助けもないまま、四ツ谷の怪談狂言は宙ぶらりんになってしまうかもしれない。そうなったとき、もしかしたら、二枚目作者の自分のところにお鉢がまわってこないとも限らない。そうなったら、立作者に昇格するまたとない機会である。すると、先ほどの南北をあざ笑う気持ちは失せ、引き換えに創作欲のようなものが二三治の胸に沸々と湧き上がってきた。

 南北は二枚目作者の二三治の意見など聞こうともしなかったが、二三治は二三治で四ツ谷狂言の構想は持っていた。

 夢うつつからすっかり覚めて、二三治は四ツ谷の夢の場の構想を練りはじめた。

 心と書いた垂れ幕を貼り、遠見に霞がかった桃畑を、足元には菜の花を配し、あざやかな彩色の蝶を黒衣(くろこ)差金(さしがね)でひらひらと舞わせる。蝶がふっととまるたびに枝陰や葉裏に、昔なつかしい、いや、いや、年老いて病み呆けた女の魑魅魍魎(ちみもうりょう)が見え隠れ……。


                 *  *   *


 長崎屋源七はハッと目覚めた。

 どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえたような気がする。

 どうも寝付けないなと寝返りを打とうとしたとき、突然、ぱらぱらと小石が当たる音がした。半身を起こして寝所の天井をにらむ。 

 雨音ではない。天井裏にザラザラと響く音で、しばらく続いてからパタッと止んだ。

 隣に敷いた布団には、妻のお多恵がこちらに背を向けて眠っていて、規則正しい寝息が聞こえる。

 このお多恵が後妻に入ってから一年になるが、奇妙なことが続いている。

 例の人魂騒ぎは、結局、隣家の井戸ざらえで赤子の(むくろ)が見つかるまで続いた。そして今度は屋根裏に石が降る珍事が起きている。寝所や勝手や廊下の屋根に、突然大量の小石が降ってくるのである。それも音だけで、時には広範囲にわたって小半時も続くことがあった。

 最初はたちの良くない小僧どもの悪戯(いたずら)かとおもったが、ひと気のないようなところでも音がする。実際、源七や番頭がその場に居合わせたこともあり、とても悪戯でできるものではない知った。

 お多恵自身も「どうしたことでしょう?」とおびえている。

 人魂といい、石降らしといい、お多恵が後妻に入ってからの珍事である。

 長崎屋源七は前妻を三年ほど前に亡くしていた。前妻は商家の嫁にしては気位が高いばかりで気が利かなかったので、いつも叱り飛ばしてばかりいた。はた目にはずいぶん不仲に見えただろう。

 結局、前妻と死に別れて、後妻のお多恵を去年迎えたばかりだ。商家の出のお多恵は店の者に配慮が行き届くだけでなく、機転も利くし源七の話し相手にもなるので、やっと良縁にめぐまれたと喜んでいた。

 ただひとつ気にかかるのは、例の人魂騒ぎがあってからというもの、源七にはお多恵がいわゆる「見える人」なのではないかと薄気味悪くおもえてきたことである。

 そうおもっていた矢先に、今夜も石降らしの珍事である。

 起こしていた半身を横たえようとすると、急に隣でお多恵が寝返りを打ち、こちらを向いた。

「おまえさま、何かお心あたりはありませんか?」

 その目が空洞のように真っ暗で、長崎屋源七はじんわりと冷や汗をかいた。


               *  *   *


 髷屋友九郎はハッと飛びのいた。

 その拍子に水晶眼鏡がはずれ、鼻の先に斜めにぶら下がった。

 まだやけど跡も生々しい両手の、肩から先がしびれている。心臓がドキドキと大きく脈打った。

「び、びっくりしたあ」

 この夜中、友九郎は「百人おどし」に使う雷電瓶(らいでんびん)の制作をしていたのである。雷電瓶すなわちライデン瓶とは、静電気を溜めるための道具で近々見世物に出す予定になっていた。

 一升五合入りのガラス瓶の中に水や屑鉄を入れ、瓶の口から真鍮(しんちゅう)の棒を差し込む。

 この「百人おどし」の見世物には、まず五十から百人ほどの見物の手をつながせて輪にする。両端のふたりが雷電瓶の真鍮の棒の先に触れると、全員に静電気が流れてびっくりするというもので、乞食芝居の幕間(まくあい)に見せる出し物である。

 うっかり自分で棒の先に触れてしまったらしく、まだジンジンした感覚が両腕から消えない。右手はやけどの後遺症でまだおもうように動かないのに、無理を押して細工に精出していた。その疲れもたたって居眠りが出たらしい。

 さしあたっての生活に今住まわせてもらっている裏長屋はそれでなくても手狭なのに、乞食芝居や歌舞伎で使う小道具や様々な(かつら)が所せましと積み上げられ、家の中は足の踏み場もない。その雑然とした物の中にうずくまるようにして作業をするのが、今の友九郎の日課であった。

 特大の籠の中でガサゴソ動いているのは、見世物に使う大ミミズクである。

「え、餌がまだだったな」

 友九郎は腰を上げた。

 別の籠の中に飼っているネズミの巣から、まだ丸裸の薄桃色の子ネズミを菜箸の先でつまみ上げると、モゾモゾ動いているそれを大ミミズクに与えた。大ミミズクは人間の赤ん坊ほどの大きさがあるから、子ネズミを鋭いくちばしでくわえて一飲みにする。

「よし、もっと食え。もっと大きくなれ。大事な引っ張りものだ」

 どこからか、犬の遠吠えが小さく聞こえた。

 裏長屋はどこも寝静まっている。住んでいるのは行商人や日雇い人夫ばかりだから朝が早い。皆、日暮れとともに寝てしまう。

 今頃、深川八幡の境内に建てられた乞食芝居小屋では、「肝試し」という芝居の稽古が行われているに違いない。初日まであと何日もない。

 友九郎は中村座の座付き髷師であるだけでなく、見世物小屋や乞食芝居小屋にまで出入りし、見世物に使う引っ張りものから細工物やからくり、大道具小道具にいたるまで幅広く扱い、落ちぶれた歌舞伎役者の面倒まで見ていた。

 歌舞伎と違って乞食芝居は自由だから、歌舞伎狂言では髷方道具方にすぎない友九郎も、乞食芝居では座付き作者の手伝いをして、芝居の構想をふくらませた。

 大ミミズクの餌やりをしながら、友九は考えた。今作っているこの「百人おどし」は乞食芝居の幕間の座興にすぎないが、もっと字面の恐ろし気な「百人一首」と銘打った怪談狂言を掛けてはどうだろうか。 ひとりで百人分の人形を操る傀儡師(くぐつし)の話だ。

 まて、まて、百といえば、百物語を乞食芝居でそのままやったらどうだろう。死にそうな年寄りが自ら主宰する百物語。百話目をその年寄りが自ら話し出すと、奇妙なことが起きそうな気がする。

 小道具で見せる怪談なら、からくり箱を使ってはどうか。いじめられている孤独な丁稚小僧がからくり箱の中に引き込まれる話。からくり箱とは……

「うわっ、ちっ、ちっ」

 雷電瓶に小さな火花が散り、友九郎がのけぞる。

 その拍子に、積んであった(かもじ)の山がくずれ、置行灯が傾き、奇怪な影が天井に広がった。


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