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13 御殿医

 打ち水したばかりの玄関先に、その朝めずらしく三升屋二三治が立ち、鶴屋南北をおどろかせた。深川黒船稲荷地内の南北宅に、二三治が訪れたのははじめてのことである。

 手土産にと持参した甘露梅(かんろうめ)をひとしきり得意げに講釈し、

「干した青梅を甘く漬け込んで紫蘇(しそ)で巻いたものです。伊勢屋の新作で、この桐の箱の四隅に漆を流して、梅の甘酸っぱい露が流れ出ないようにしてあります。きっとお気に召すと思いまして」

「それは、それは」

 倅の鶴十郎が頭を下げるより先に、南北が横から手を出した。

 二三治は付け足すように、南北に向かって、

「鶴十さんから御新造さまの容態が悪いとお聞きしました。風邪をこじらせたのか、悪くなるいっぽうで心配だからちょっと様子を見てやってほしいと言われまして。せっかくですから、御懇意にしていただいている御殿医(ごてんい)桂川(かつらがわ)先生にお願いしたところ、さっそく今日来ていただけることになりました」

 と、言ったものだから、嫁の紗枝(さえ)や亀坊までがいっしょになって、玄関先で大騒ぎになった。

 桂川甫周(かつらがわほしゅう)といえば、将軍家に仕える幕府奥医師で、ふつうなら一般大衆などがまみえることもない人物である。どういうつてか、二三治はその人を知っていると言う。

 南北が真っ先に口角泡を飛ばさんばかりに反対した。

「御殿医の先生にこんなしもた屋に来ていただいても困る。病人はいい年した女房だし、御足労をおかけするわけにはいかない。ことわってくれ」

 伊勢屋の甘露梅はちゃっかり受け取って膝の上にのせているくせに、南北はことわってくれときかない。

 お吉の顔の異変に最初に気づいたのはおさんのお竹である。

 一昨日の夕方、お吉の額の手ぬぐいをとりかえようとして、右目の上あたりから額にかけて、まるで笑みわれた柘榴(ざくろ)のように赤黒く腫れあがっているのを見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。

 当のお吉本人は、

「ああ、やっと少し楽になった」

 と、せいせいした声を出したが、そのあと、家族でひと騒ぎした。

 南北は、

「もう峠は越したようだから」と、自分からなかなか医者を呼ぼうとしなかった。それで困って鶴十郎が二三治に頼み込んだものらしい。

「おっかさんのことですから辛抱強く我慢しているけれど、あの面体(めんてい)だけでも大概ではないとわかるじゃないですか。二三治さんがせっかくお医者を頼んでくださったのだから、ここはご厚意に甘えて」

 玄関先でワイワイもめているところへ、いったん奥へ入ったお竹が廊下に出てきて、

「奥さまが鏡をもって来いと言っておられますで、どうしたもんでしょう?」

「なんでこんなときに鏡を?」

「御殿医さまが見えるなら、御髪(おぐし)だけでも整えたいと言っておいでです。こちらの声は御寝所まで丸聞こえだで」

 玄関先はしんとなった。

 一呼吸おいてから、南北が、

「そうか、本人がどうしてもと言うのなら」

 と、立ち上がったので、皆驚いて顔を見合わせた。

 二三治も、

「丸大さん、それはよしたほうがいいのではないですか? ちょっと上がらせてもらいますよ」

 いつもの調子でとっとと自分から上がり込む。

 二三治は南北のあとからお吉の寝所に入り、さっさと枕元に座り込むと、なんでもないふうに時候の挨拶や見舞いの言葉を丁重に述べながら、眼だけすばやく動かして、お吉の崩れはじめた面体をじっくり観察した。

 そして、何をおもったか、

「ご本人がどうしてもとおっしゃるなら」

 と、南北に視線を投げてよこした。

 家人が呆然と見守る中、南北はそそくさと立ち上がって、黒漆の箱型鏡台をお吉の寝床のわきに据える。合わせ鏡を開いて立てかけた。

 鶴十郎と紗枝の夫婦は見るに堪えないふうで、亀坊を連れて席をはずした。

 お吉は南北の手を借りて寝床から体を起こすと、小刻みにふるえる手で着物の襟元をただし、鏡台に向かった。

 南北と二三治のふたりがじっと見守る中、お岩は暗い鏡の中をのぞきこんだ。

 ハッと息を飲み、一瞬焦点が合わないふうに目を泳がせ、後ろに何かいやしまいかと見まわして、再度鏡をのぞきこむ。

「エエッ、着物の色合い、(つむり)の様子、これはほんとうに私の(おもて)かいの?」

 それを間近に聞いていた二三治は当然のごとく矢立から筆を取り出す。

 南北の薄い耳からあたりの物音が遠のき、大眉の下の目が細くなった。六畳の寝所が井戸の底のように静かになった。

 舞台では立唄(たてうた)が「めりやす」を独吟する。

 菊五郎の女房は毒を盛られたとはつゆ知らず、(くし)(つむり)に当て、行灯のゆれる灯りで鏡をのぞきこみ、おもむろにひと()きすると、長い長い毛が血を含んでごっそりと抜け落ちる。 

 お岩が落ち髪を櫛もろともきっとひねると血がたらたらと落ちる。これには血玉を使う。朱墨に塩を混ぜた血糊を海綿に吸わせ、それを舞台の切穴(きりあな)から後見が渡すのだ。

友九郎の出番だ。さぞかし度肝を抜くような場面ができそうな気がする。

 薄ドロドロの幽霊太鼓がこのあたりからはじまる。虫笛を効かせ、本釣鐘をコーンと鳴らす。

 額の上あたりまで毛が抜けて、血にまみれた恐ろしいお岩の形相が、鏡の向こうに映っている。こうして死んでいった女が幽霊になって仇討をするというのなら、芝居道を云々する二三治も納得がいくのではないかと南北はおもった。

 見ると二三治は手控えに夢中になって書き留めている。

 よし、これはいけそうだと、南北は危うく膝を叩きそうになった。

 そのとき、玄関先がにわかに騒々しくなり、御殿医の一行が到着したことを知らせる声がした。


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