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12 菊五の楽屋

 芝居小屋の中二階にある音羽屋(おとわや)の楽屋には、半分ほど作りかけた戸板の仕掛けがもう運び込まれていて、大道具方の長谷川勘兵衛(はせがわかんべえ)と二枚目作者の三升屋二三冶(みますやにそうじ)が、立てかけた戸板を前にしきりと話し込んでいた。

 菊を型抜いた紺地の暖簾をかき分け、南北と鶴十郎が楽屋に入ってくると、二三冶が痩せた腰を機敏に上げ、

「おう、来なされた。奥へ、奥へ」

 かいがいしく座布団を並べ、自分は入り口に陣取って、油断なく左右に目を配りながら矢立を取り出した。

 奥から大道具の勘兵衛が野太い声をかける。

「今ちょうど、三升屋さんと戸板の細工を話していたところですよ」

 六尺近い巨体を、鼠小紋に鼠羽二重の羽織に包み、押し出しが立派な勘兵衛は、大店(おおだな)の主人のように落ち着き払っている。

「明日の早朝には、浅草のほうの寄り合いもありましてな。さ、とにかく話をはじめましょう」

 髷屋友九郎と同様に、長谷川勘兵衛も芝居だけでなく、見世物興行で評判を取っていた。このたびの浅草観音開帳でも、何十人という見物を一度に乗せて動かす宝船と呼ぶ大仕掛けを考案し、大入りを取っているのは彼の手柄である。

 そこへ部屋の主である菊五郎が、薄藤色の着つけに包んだ細い体を付き人に支えられながら入ってきた。

 息切れが激しく、薄い両肩が波打っている。奥に分厚い座布団を二枚重ね、なよなよと体を畳み込むようにして座った。

 南北が声を落として聞いた。

「また、加減が悪くなられたか」

「いえ、もう多病は生まれついてのこと。どうぞ気にせず」

 若い付き人をふり返り、

「皆さんに、お茶を。茶請けには菊の葉餅をな」

 菊五郎は南北に負けない甘党で、自ら考案した餅菓子も数多く、南北とは話が合った。

「また、うまい餅菓子を考えなすったか?」

「今度は塩漬けの菊の葉で葛餅(くずもち)をはさんで、中に白あんを入れてこさえさせました。ささ、お楽しみいただけると幸いです」

 それだけ言うと、またぐったりと柔らかい体を丸める。

 せんだっても菊五郎は、贔屓(ひいき)の金主からいさめられたばかりである。このまま早変りなど無理をしていたら、いよいよ病も進んで死に至るぞと脅されると、この圧倒的に人気のある細腰の女形はこう答えた。

「気さえ衰えなければ、百日の興行も水中の早変りも恐るるに足りない。体を粉のごとく砕いても一日に三両は必ず稼いでみせます」

 上がり框で上目使いに菊五郎の様子を見つめ、筆をかまえていた二三冶が、乾いた筆の先を舌で湿した。

 戸板の仕掛けについてひととおり話が済むと、一同は舞台へと繰り出した。

 引けたばかりの土間には、まだ生暖かい人いきれが残っていて、見物の飲み食いした匂いが漂っている。

 舞台のそのあたりに立ち、図面を引いておおよその舞台割りをしていく。そこに七夕の短冊竹。そこに入り口。

 二三冶が南北の説明を手早く書き取った。


   本舞台三間の間、平舞台。いったい造作(ぞうさく)しそこねし家作り。雑司ヶ谷

   四ツ谷町、民谷伊右衛門(たみやいえもん)浪人住居(ろうにんずまひ)(てい)


 豪商父娘のたっての願いで内祝言を終えた浪人民谷伊右衛門が、酔いにふらつきながら帰ってくる。

 長屋の板戸に手を掛けたところで、

―おっとそうだった

 と、酔いにかすんだ頭にやっと大事なことを思い出す。

―もらったはいいがソウキセイとかいう阿蘭陀渡りの粉薬。あの按摩、首尾よくやりおおせたか?

 伊右衛門は、雛人形にも似た細い面を横に向け、薄い唇にくわえていた楊枝を吐き飛ばす。

 と、突然目の前で板戸ががらりと開き、按摩の宅悦(たくえつ)が裸足で飛び出して来て、たたらを踏んで立ち止まる。厚い唇をわななかせ、言葉が出ない。

 板戸の隙間からもれる黄色い行灯(あんどん)の灯で、宅悦の木綿着(もめんぎ)前身(まえみ)に、黒ずんだ血の染みがちらちらと浮かび上がる。

 たちまち酒気を飛ばした伊右衛門が宅悦を押しのけ、大股に家の中へ足を踏み入れる。

 見物に見えるのは、舞台の下手(しもて)ばかり。

 風笛を吹く。猫の鳴き声にも似た赤子笛。

 ややあって、家内から伊右衛門の冷ややかな声がする。

「戻れ、宅悦。そこの杉戸をはずしてこれへ持て」

 拍子木をチョンチョンと刻んで、ここで決める。



 南北は、大道具方の勘兵衛や助手の鶴十郎、二三冶とともに舞台を歩き回った。

 役者の顔を描いた顔提灯が桟敷(さじき)から吊り下げられているだけで、照明は暗い。夜が更けるとともに蝋燭(ろうそく)が燃え尽きて、提灯の灯りがひとつまたひとつと消えていく。

 具合の悪い菊五郎は中二階の楽屋に座布団を並べ、そのまま臥せっている。

 鶴十郎が自分の工夫した切子燈籠(きりこどうろう)を一同に見せた。紅い房の長くたれた、目も彩な鶯色(うぐいすいろ)の燈籠である。

「夢の場で、成田屋さんがこの燈籠をこう手に下げて出てきたら、風情(ふぜい)が出ると思います」

「うむ、『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』の趣向だな」

「七夕は盆の入りで、幽霊がでるにふさわしいですな」

 二三冶が書きとめる。

 『牡丹燈籠』では幽霊の女が男に会いに来るが、ここでは団十郎扮する伊右衛門が夢を見ているとする。この色悪が燈籠を下げ、幽霊と知らず女に会いに行くのである。

 大からくりを得意とする勘兵衛はむっつりと懐手(ふところで)で、三人のやりとりを聞いている。

 鶴十郎が燈籠の一面を勘兵衛に示しながら、

「こんな細工をしてみました。ここから幽霊が首を出したら面白かろうと思いまして」

 勘兵衛は一瞥しただけで、

「これじゃあ小さすぎる。この上の一番の燈籠をお持ちなさい」

 と、にべもない。

 そのとき、薄暗い舞台の袖で声がした。

「お、お、大きい中より(いず)るは、だ、だれでもできる」

 はっと南北は振り向きざま、

「友九じゃないか」

 胸のほどけたような声を出した。

 絵師の着るような黒の十徳(じゅっとく)。丸い水晶眼鏡が白く光っている。

 体は一回りも縮んだようで、恰幅(かっぷく)のよい勘兵衛と並ぶと滑稽なほどだ。ひょこりひょこりと歩きながら肩をゆするのはいつもの癖である。

 大道具方の長谷川勘兵衛は心持ち顎を引いて、見世物(みせもの)興行の引っ張り物を値踏みするように友九郎を眺めた。

「もう、お体の方はよろしいのか?」

 勘兵衛の問いには答えず、友九郎はかしいだ肩を南北のほうへ乗り出す。

「い、いったい、ど、どうして出られると思わせねば、面白くない。そこが我らの、く、工夫よ」

 聞いていた南北の濃い眉の下で、目に火が点った。

「うむ、そうして見物を驚かすわけだな」

「驚かすのは伊右衛門ではなく、見物ということですね」

 鶴十郎が父親ゆずりの目を活き活きと見張る。

 いつの間にか、付き人の肩を借りながら菊五郎が舞台の袖までやって来ていた。肩にお岩の菊小紋を引っ掛け、

「まことそのとおり。お岩さまが相手にするのは見物じゃ。見物とともに、かぶくのでございますな」

 その白い顔はなにやら生気を取り戻している。

「か、かぶくのだ。(たわむ)れるのだな、け、見物といっしょに。これが愉快よ」

 友九郎が、それが癖の振り絞るような声を出した。

 舞台に寄り集まった男たちはそれぞれ、芝居の登場人物に負けず生き生きとしはじめた。

 それを二三冶が書きとめる。

―世の中もよっぽどひねってきた。

 友九郎がふいと南北に顔を近寄せた。

「や、火傷が癒えかけてきたらな」

 とっておきの秘密をもらす子どものように、

「あ、新しい、ひ、皮膚が現れてきてな」

 突然右腕を持ち上げ、袖をめくって見せる。

 勘兵衛がさりげなく面をそむけた。二三冶は友九郎の背後から食い入るように傷跡をのぞきこむ。

「こ、これが、赤子の匂いがするのじゃな」

 そのとき、天井の簀の子のはるか上から、悲鳴にも似た鳴き声が大きく響いた。一同そろって暗い吹き抜け天井を見上げる。

「ぬ、(ぬえ)か?」

 さきほど南北が鶴十郎といっしょに見たあの鳥影である。屋根に止まって鳴いているのだ。

「あの平安の昔から、凶事に姿を現すという怪鳥か?」

 南北は、いつぞや長崎屋の離れで、縁先の障子が音もなく開いたときのことを思い出した。怪談狂言に怪事はつきものである。むしろ瓦版をにぎわす格好のネタで、芝居が当たりを取るという吉兆だ。

「あれを、つ、捕まえて、両国あたりで、み、見世物にできんかな?」

 友九郎はもっと何か言いたげにしばらく口元を動かしていたが、言おうとする努力を放棄して、

「ひ、ひ、ひ……」

 こらえきれず笑いはじめた。

 舞台から見ると、見物の土間割りはひもで十の字に仕切られ、深い井戸をいくつも並べたようにひっそりとしている。その闇の底に胸騒ぎのようになにかがざわめいていた。それが急に頭をもたげた気配を感じ、南北は戦慄にも似た興奮を覚えた。


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