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11 お吉の病

 土鍋の(かゆ)がふきこぼれ、(へっつい)の上で盛んに白い湯気をあげている。(たすき)をかけた鶴屋南北はあわてて駆けよったものの、手をつかねて大声をあげた。

「おい、ふきこぼれているぞ、おい」

 やはり襷がけのいい年をした息子の鶴十郎(つるじゅうろう)が、南北のうしろをうろうろとした挙句、

「お竹どん、お竹どん」

 下働きの女中を呼ぶ。

 お竹のあとを追って小さな亀太郎までちょこまかとついてきて、狭い勝手はいっぱいになった。

 いっしょになって以来、病で寝込んだことなどとんとなく、しゃきしゃきとうっとうしいくらいで当たり前と思っていた女房のお吉が急に臥せっている。昨夜来熱が上がり続け、今朝はもう枕から頭が上がらないありさまである。

 ちょうど嫁の紗枝(さえ)もふたり目の子を宿していて、このひと月ほどつわりがひどく臥せりがちだったこともあって、こうして女ふたりが寝込んでしまうと、のろまなお竹ひとりでは手がまわらず、家中すべてのことが停止してしまった。

 今朝はふたりの病人の世話から、おさんどんの仕度、ぐずる孫の守まで、男たちは襷がけでてんてこまいであった。

 下働きのお竹がここぞとばかり勝手を仕切り、上総(かずさ)なまりでえらそうに、

「そう体裁(ていさい)ばかりかまっていねえで、糠床(ぬかどこ)はもっと底の方からかんまわさねっちゃいけねえ」

 などと言う。それを亀坊が聞いてまねる。

 南北が孫を叱りつけると、子供の甲高い泣き声で勝手はますます収拾がつかなくなった。

「へえ、大旦那様はもういいですから」

 勝手から半ば追い出されるように、南北は薬湯の土瓶を持たされた。

 寝間にしている奥の六畳で、お吉は額に濡れてぬぐいを当てたまま、まだ眠っていた。てぬぐいを取って手を当ててみると、まだいくらか熱っぽいようである。

 よく見ると、お吉の濡れた額際からこめかみにかけて白髪が幾筋か走っている。お吉を自分よりずっと若いとしか考えていなかった南北は意外な気がした。

 襷をはずしながら鶴十郎が入ってきて、布団の裾に座り、小声で言う。

「もうそろそろ行かないと」

 芝居がはねる時間までに中村座まで行かねばならない。今夜は四ツ谷の怪談の仕掛けについて、大道具方が集って工夫の相談をすることになっていた。

 南北が病人の枕もとに土瓶を置いてそっと立ち上がりかけると、お吉がうっすらと目を開いた。

「お、目が覚めたか」

 南北はすわり直して、土瓶の薬湯を湯飲みにかたむける。

「ほれ、葛根湯(かっこんとう)を飲んでおけ」

 お吉はしばらく焦点の定まらないうるんだ目をじっと天井に据えていたが、床の中からいつになく細い声を出した。

「怪談狂言のほうは……四ツ谷は進んでおりますか?」

「何を言っているんだ、おまえは。それより自分の体の心配を……」

 すると、お吉は、はげかけた鉄漿(おはぐろ)の歯元を少し見せ、

「それじゃあ、おまえさま……私は先に行って席を取っておきますから」

 言うと同時に、くるんと白目をむいた。

 それが寝言と気づき、南北はぎょっとして、手にした湯飲みを取り落としそうになった。



 宵待ち時分に、あまり頼りにならないお竹にあとをまかせ、南北は鶴十郎を伴って家を出た。

 今宵は七代目市川団十郎や三代目尾上菊五郎、大道具方の長谷川勘兵衛らもまじえ、舞台も使って怪談創りの相談があった。

 ひとり息子の鶴十郎は、今回の四ツ谷の構想でも大道具方とともにさまざまな仕掛けを引き受けている。友九郎がいない分、鶴十郎にはがんばってもらわねばならない。

 堺町の芝居小屋のあたりに来たのは、ときおり嬌声の混じる人波の流れに逆らって、足早に二、三丁も来た頃だった。打ち出した人ごみがようやく途切れる時分である。

 鋭い悲鳴に似た鳴き声が頭上に響いた。

 見上げると、低くたれ込めた暗い夜空に羽ばたく黒い影がある。

「はて、(からす)か?」

 蝶のようにひらひらと、重なっては離れ、群れ飛んでいる。

「こんな時間に?」

「鴉にしては飛び方が妙だな」

 南北は大眉をひそめた。

 四ツ谷の怪談狂言はここにきて問題続きである。

 まず、金主(きんしゅ)の一人から注文がついた。舞台が御先手同心(おさきてどうしん)の組屋敷がある四ツ谷町では差しさわりがあろうと言うのである。そこで仕方なく「東海道四谷怪談」と銘打つことにした。

 稽古が始まると今度は、女房役の尾上菊五郎が臥せがちになった。もともと多病の人で無理を押して舞台に立つことが多い。それが今度は二日いいと思えば四日悪くなるというふうで、容態が案じられた。

 さりとてこの芝居は当代きっての名役者団十郎と菊五郎のふたりのために書き下ろしたようなもので、代役など考えられない。しかも当の菊五郎が、舞台で倒れるまでは引かないと言うのだからなおさらである。

 さらに、準備を進める大道具小道具方にも事故が打ち続いていた。陰火(いんか)に見立てた焼酎火(しょうちゅうび)を天井から下ろしていた裏方が、日覆(ひおお)いの()の子から足を踏みはずし、張り出し舞台の上へ落ちたのは、ほんの二日ほど前のことである。あれだけの高さから落ちて、足をくじいただけですんだのは不幸中の幸いであった。

 まだある。

 友九に代わり、大道具方の大御所である長谷川勘兵衛が、鶴十郎とともにからくりの工夫を引き受けていたのだが、南北や鶴十郎にことごとく異をとなえる。これでは先が思いやられた。

 それに家では女房のお吉が、と言いかけて、

「なんだか(たた)っているな」

「あの井戸底で見つけたという死骸ですか」

 南北の鼻先に記憶がよみがえった。水浸しになった井戸端は、魚でもさばいたように生臭かった。

 水をようやくかい出してから、半兵衛が蝋燭(ろうそく)をつけた竹竿を垂直に降ろし、井戸底を照らした。

 蝋燭の長い炎が揺らぐと、でこぼこした井戸の内壁がぬめぬめと黒く光った。下へ行くにしたがって灯の輪は小さくなった。

 視界の限られた井戸の深遠をもっとよく見るために、半兵衛が竹竿の先を心持ち下げ、灯を井戸の底に近づけようとした、その時である。

 竿の先端から蝋燭がぽろりと落ち、炎が風を受け、一瞬きらめいて、井戸底をあざやかに照らした。

 深い穴の底で、泥がぬらぬらと光りながら波打ち、ひしめき合い、絡み合っていた。その残像がいつまでも目の裏にこびりついて離れない。その先は、夕べの夢に見たような気もする。

 南北は倅を促し、葺屋町の堀にかかっている親父橋(おやじばし)のあたりから先を急いだ。

 この先は芝居小屋が軒を連ね、花街へと続く歓楽街である。芝居がはねてからも花街へと繰り出す人が多く、軒にずらりと並んだ提灯の灯が黄色く瞬きながら、行き交う人の華やいだ面を照らし出している。  

 よそ行きの華やかな振袖や小紋が行き交い、男たちの(びん)付け油がすれ違うたびに甘ったるく匂った。

 鶴十郎が父親ゆずりの大眉をひそめて聞いた。

「あれは、間宮伊右衛門殿のお子の死骸だったのでしょう?」

「どうもそうらしい」

「どうしてあんなところに? ご夫婦はどうなされたのでしょうか?」

「半兵衛は、あの十万坪で見つかった戸板の女が、間宮の奥方だったのではないかと言うのだ」

 鶴十郎はしばらく口をつぐんでいたが、

「それでは、その奥方が、あの戸板の裏にはりつけられていた按摩と不義を働いたと?」

 父の横顔に問いかけた。

「いや、どうも、そうではないらしい」

 生臭い井戸端で、平田半兵衛はいつもの落ち着いた調子で言ったものだ。

「戸板の男女の死骸を見ただけで、間男と判断するのは早計です。間男なら、姦夫姦婦(かんぷかんぷ)、重ねて切り殺してもお(とが)めを受ける恐れはありませんからな。それを見越してのことでしょう」

 井戸端のあとを片しながら、そう言って半兵衛はすっくと立ち上がった。

「女遊びのすぎた婿養子の伊右衛門が、邪魔になった奥方を殺し、来合わせた按摩とともに戸板に打ちつけた、というところではないでしょうか」

 細身とばかり思っていた半兵衛が、なかなかに上背もあり肩幅も広いことに、南北はそのときになってはじめて気がついた。

「そういえば」

 と、長崎屋源七が考え考え口をはさんだ。

「伊右衛門の博打仲間に按摩がいたと聞いたことがあります」

「それに」

 と、平田半兵衛がつけ足した。

「押入れの戸が一枚なくなっていました。おそらく例の杉戸でしょう」

「家の中に入られたのですか!?」

 南北と長崎屋が同時に声を上げた。

「はじめ話を聞いたとき、帰りにちょっと寄ってみましたら……。いや、その、向こうの雨戸がはずれかかっていて、偶然中が見えたのです」

 南北は、半兵衛が品のいい色白の顔を赤らめるのを見て取った。

 学者である半兵衛は、いっぽうで古道の神道(しんとう)を学び、本居宣長を熱狂的に支持したかと思えば、(ちまた)に聞こえる怪異憑依(ひょうい)不思議にたいへんな興味を示し、その資料収集に余念がなかった。私塾真菅乃舎(ますがのや)の塾頭、平田半兵衛篤胤(あつたね)といえば、当時すでに世に聞こえた国学者である。

 結局、戸板の男女のほうは不義の見せしめらしいとうやむやなまま、瓦版をにぎわせただけで闇に葬られた。井戸の赤子の死骸は間宮の子に間違いないだろうが、役人に引き渡してその後音沙汰もない。

 見上げると、中村座の巨大な屋根が夜空を濃い影で区切っている。芝居小屋と言っても、瓦葺(かわらぶき)本普請の堂々たる三層の建物である。その黒々とした屋根瓦の向こうへ、おびただしい数の鳥影が、鋭く鳴き放ちながら消えて行くところだった。

 南北の太い眉の奥に、井戸底で見た残像がまざまざとよみがえった。

 蝋燭の炎は、赤子の小さなしゃれこうべやバラバラになった骨をかすめ、黒い水の中に落ちて消えたのだ。最後のきらめきが、井戸底に死骸を取り巻いてうごめいているものをはっきりととらえていた。

 赤子の(むくろ)を守っていたのは泥にまみれた無数の蛇だった。


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