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10 井戸ざらえ

 それから三日もしないうちに鶴屋南北は、再び長崎屋源七に呼ばれた。いよいよ時季外れの井戸ざらえが始まったのである。

 平田半兵衛が、たっつけ袴に手甲(てこう)の勇ましいいでたちで先に立った。ヒバ垣の薄くなっているところから、体を斜めに差し入れて、裏の間宮の庭先へと抜けていく。

「こちらです」

 半兵衛は、はね返る小枝を体で押さえ、及び腰で続く長崎屋と南北のために道を作る。そのあとを、長崎屋が頼んだ井戸職人がふたり、それぞれ商売道具の竹ざおやら木桶やら抱えて続いた。

 今日は一日、離れの方に誰も近づけないよう、長崎屋は女房のお多恵に言い含めてある。

 振り向くと、障子を開け放った長崎屋の離れは別世界のごとく端然と静まり返っていた。

 こちら側は草いきれでむせ返るようである。もともと庭の手入れはあまりされていなかったらしく、特にこのあたりには腰の高さほどの夏草が一面に生い茂っている。男たちは半兵衛を先頭に一列になって草いきれの中を進んだ。

 空き家とはいえ、武家方のこととて皆忍び足である。幸いこの裏庭は、通りから家を挟んだ陰になっていて通行人から見えない。

 東南の角には、枯れかけた白い花をいくつもつけたまま、紫陽花の大きな葉がまだうるさく茂っている。それを半兵衛がかき分けると、黒い薮蚊がわっと飛び上がった。後ろで長崎屋と南北が小さく悲鳴をあげ、ばたばたと蚊を追った。

 紫陽花の葉陰から、こんもりと蔦草(つたくさ)におおわれた井筒(いづつ)が現れた。半兵衛が蔦草を払うと、ぬかるんだ地面をなにやら得体の知れぬ細かい虫が、葉陰を求めてあわただしく動き回った。あたりはむっと青臭い。

 蝿が多い。小さく弧を描き、何匹も飛び回っている。

 井戸端は湿っていて、切石を敷き詰めた流し場の四隅には、灰緑色の苔が生えていた。

 一度使った水を溜め込んでおく大ぶりの水がめには、雨水が半分ほど溜まって水草が浮き、薮蚊の格好の巣となっている。

 井戸職人のふたりが道具を肩から下ろし、仕度をはじめた。ひとりが乾かした蜜柑の皮に火をつけ、蚊いぶしにする。ひとしきりむせこんでいたが、そのうち霧のようにうっすらと白い煙が立ちはじめた。

 井戸は木製の大きな滑車の付いた車井戸で、ふたはない。

 半兵衛と南北と長崎屋の三人は、頭を寄せて暗い深遠をのぞきこんだ。

 釣瓶(つるべ)が井戸の中ほどに宙ぶらりんになっている。その先は真っ暗である。生臭い冷気が顔にあたる。そうしているうちにも、男たちの顔や頭に蝿がうるさくまとわりついた。

「しかし平田さま、なぜこの井戸を?」

 長崎屋源七が、顔の周りを飛び回る細かい蝿を手で払いながら聞いた。

 平田半兵衛が釣瓶を落としながら答える。

「せんだって、紫陽花の色が変わったと言っておられましたろう。その時、周囲の土の性質が変わったのではないかと思ったのです。土壌が変わると花の色具合も変わりますから」

 井戸の滑車が揺れ、きりきりと軋んで、積もっていた白い砂埃が宙に舞った。思ったより間を置いて、釣瓶が井戸の底で水をはね返す音がした。

「紫陽花の茂みはどうやらこのあたりに根を広げているようでしたので、なにやら土壌の性質を変えるようなものが、最近この辺に埋められたり流されたりしたのではないかと思いました。しかもこのあたり、人魂が飛ぶと言う」

 半兵衛に代わり、井戸職人のふたりがしばらく井戸底をのぞき込んでいたが、滑車を軋ませながら釣瓶を威勢よく引き上げはじめた。ふたりとも、下履きだけの半裸である。

 やがて、濡れた木桶が濁った水を躍らせながら井筒から顔を出す。水は桶に八分目ほどである。

 半兵衛は、汲み上げたばかりの粘土色の水をじっと見つめ、あたりまえの世間話でもするように穏やかに続けた。

「動物の死骸などから発する(りん)が燃えると聞いたことがあります。牛馬を殺した場所や古戦場など、湿雨陰雨の中、古来より燐火は多く目撃されております」

 横から南北が鼻を近づけ、いつもの癖で腰をかがめて鼻を桶に近づけ、慌てて顔をそむけた。十万坪あたりに漂っているあの魚の強い腐臭である。

 蝿が(くう)をすべり、寄ってくる。

 長崎屋源七は困惑の体で、

「しかし、平田さま、人魂が見えたのはうちの(さい)ばかり。これはいったい……」

「そのへんは私もよくわからないのです。あのあと、ちょっと考えまして、この家に住んでいた間宮の若夫婦はそろって行方知れずと言うが、もしかしたら、と、まあ、あとは推測です」

 年かさのほうの職人が、小さな燭台を竹竿の先にくくりつけ、暗い井戸の中へそろそろと下ろしていく。蝋燭(ろうそく)は特別仕立てで、炎が普通の三倍は大きい。

 男たちは額を寄せ、井桁(いげた)を囲んだ。

 井戸の中を大量の蝿がいっせいに飛び上がったらしく、姿は見えないまま細かい羽音だけが響く。

「なにかありますな」

 長崎屋が息を詰め、苦しげな声を出す。

 半兵衛が静かにうながした。

「とりあえず水を汲み出しましょう」

 若いほうの職人が腕にくりくりとした力瘤(ちからこぶ)をたて、桶の水を流し場の敷石へ勢いよく空けた。

 しばらくは水音ばかり、雑草の中で響いた。

 そのうち井戸水に細く短い毛髪が混じりはじめた。


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