1 辻強盗
|間宮伊右衛門は角の暗がりに身をひそめ、刀が真横に抜けるよう閂に構えた。
鯉口を切って待ち受ける。
芝居もはね、どこかで散財をした道楽者たちがほろ酔い機嫌でもどる時分である。劇場町に近すぎては人が多くてかなわないから、わざわざ親父橋近くの渡し場から距離をとってここを選んだ。
野犬の遠吠えが響き、続いて足音が近づいた。町人連れか? 二、三人なら造作もない。
そろそろと刀を抜く。
こわばって筋の浮き出た腕に刀身がずしりと重い。柄糸のざっくりとした手触りを汗ばんだ掌で何度も確かめる。
抜き身を上段に構え、息を細く整えた。
わきの下を冷たい汗がつたい落ちる。
胴震いが起きそうなのをこらえながら、湿った柄を握りなおし、相手を充分引き寄せて闇を袈裟懸けに―
と、それより早く女の悲鳴があがった。
その時のことを後々まで、伊東屋喜兵衛はひとつ話に触れ回ったものである。
伊東屋といえば一代で財を成した材木商。火事の多かった頃に前後して京橋八丁堀に材木店を出し、やがて寛応寺根本中堂の造営に御用達を受けると、たちまち商売を広げた。
「野犬といっても十匹近く、それがことごとく牙をむき出して」
と、ここで声を低め、客を見渡す。
江戸の町には野犬が多かった。どれも狂犬で群れをつくって移動する。早朝や深夜、人が襲われることも多かった。
「連れていたのは娘のお梅と乳母のふたりきり。もう、私らはうろたえるばかり」
伊東屋は大肥満の腹をゆすって豪快に笑い、
「そこへ、この婿殿だ」
まるで自分の手柄と言わんばかりに披露する。
紹介された間宮伊右衛門のほうは尻が落ち着かない。金屏風を背にかしこまり、借り物の黒縮緬の羽織で、頭はむさくるしい浪人髷のまま。
内祝言で、ほんの内輪だけのお披露目と聞いて来たが、かなり高位と思われる武家や茶坊主までひざを並べているのには恐れ入った。
あの夜のことは思い出すも馬鹿々々しいが、こうなってはもうあと戻りはきかない。
義父となる伊東屋喜兵衛は二重にくびれたあごの辺りまで祝い酒で赤く染まっている。
ご満悦の態で、
「刀をこう上段に構えられましてな」
その晩のことを思い出しながら仕草をした。
「飛びかかってくる犬を右へ、左へ。どれもあばらの浮き出た飢えきった狂犬でございます。へたをすればこちらが食い殺されていた。ご浪人とお見受けしたが、この方、只者ではないと」
座がいっせいにうなずく。
伊東屋喜兵衛は伊右衛門のほうを振り向き、
「まあ、お家柄より何より、手前の娘がそれ以来寝付いてしまうほどの恋わずらいでしてな」
と、破顔一笑した。
花嫁のお梅はうつむいたまま、ぽっと顔を赤らめ、一同がなごやかにさんざめく。
その中にあってただひとり、花婿の間宮伊右衛門は伏せ気味の遠い目を泳がせながら、長屋に残してきた妻子の始末をどうしたものか、そればかり思いめぐらしていた。