1-9 義母
翌朝、灰夏は先日よりもやわらかくお粥を炊いた。昨日のは全粥、今日は五分がゆだ。五分がゆというのは、米と水が一対十の割合の粥をさす。昨日よりも水気が多くさらりとしている。精力をつけるために、最後に卵を落としてよく混ぜた。
「水蓮、味気ないかもしれないが、さらさらの粥から始めよう」
「はい……あ、卵がゆなんですね」
「卵がゆは嫌いだったか?」
「いいえ、逆です。卵がゆ、大好きなんです」
今朝は起きるなり、花尚宮に着付けを施された。胃が弱いのはわかっていたし、食べていないとなれば体もそれほど丈夫ではないとわかってはいるのだが、何分『東宮妃』としての威厳を保つ必要がある。
花尚宮は、一晩であつらえた上等の襦裙を、水蓮に着せた。赤茶色の襦裙は、すべらかで軽かった。まるで着ていないみたいに、ふわりと体までもが飛んでいきそうなほどの軽さだ。
「襦裙って、こんなにあたたかいんですね」
「はい、冬などは特に」
下着、襦、裙を着る。整えたら、帯を巻く。前で帯を結んだら、帯締め。いつもは己花に着せるだけだったからわからなかったが、絹の襦裙はだいぶあたたかく、また、花尚宮の着付けは全く苦しくなかった。程よい締め付けが安心するほどだ。しかし、裾が長く、歩くたびに踏みそうになる。平民は、綿の襦裙を着て帯を巻き、仕事をするときは帯とは別に腰ひもを巻いて、裾をやや引き上げて動くから、水蓮は後宮の裾の長い襦裙に四苦八苦した。水蓮に与えられた宮は、月の宮と名付けられた。その、月の宮から、皇宮に朝餉を取りに歩くまでに、もう十回は裾を踏みそうになったほどだ。それに、花尚宮の水蓮に対する態度もまた、水蓮は慣れそうにない。
襦裙を着付け終えて、花尚宮が水蓮を椅子に座らせる。そうして、鏡を水蓮の前に置き、花尚宮は水蓮の後ろに回って、その髪に触れたのだ。いきなりのことに、水蓮は思わず花尚宮を振り返った。
「や、髪は自分で結えます」
昨日は夜だったから、髪の色がばれなかっただけで、明るい今、髪の毛を見られたら、すべてが明るみに出てしまいそうで、水蓮は怖かった。もう自分は、思っているよりこの場所を気に入っているらしい。
「水蓮さま。髪を結うのは、ご自分では難しいかと」
「や、それは」
花尚宮は、なにも気に留めることなく、水蓮の髪に再び触れた。さらりと髪の毛が揺れている。水蓮は、鏡越しに自分の顔と、髪を見た。大丈夫だ、ちゃんと赤茶に見えている。
「さ、御髪はどうしましょうか」
「あ、と……」
「後宮の流行はご存じないでしょうし、そうですね、わたくしが素敵に結い上げしまいましょう」
髪の毛を軽くまとめ上げ、花尚宮は、鏡に映る水蓮の姿を見る。これが流行っていると、花尚宮は嬉しそうだ。まとめ上げて、てっぺんに髷を作る。少しだけ髪の房を顔の周りに残すのが流行らしい。
「わたくしは、いつかこのような日を夢見てまいりました」
「このような日?」
「ほら、皇帝陛下のご子息は、双子のおのこしかおりませんゆえ、おなごのお世話をする際には、うんとおめかししていただくのが夢だったのです」
そんなことを言われては、断るに断れないと水蓮は思った。
花女官が、簪をいくつか選んで水蓮の髪の毛を結いあげる。最初に、まとめるための装飾の少ない簪で髷を作ったら、そこに飾りの簪を挿していく。顔の周りには髪が少しだけ垂れ下がり、いつもと違う自分に、水蓮は鏡から目をそらした。
「水蓮さま?」
「私になんて、似合いません」
自己卑下する癖は抜けていない。そう簡単に、割り切れるはずがない。ずっと、役立たずと言われて育ってきた、その呪いの言葉から、抜け出すには時間がかかりそうだ。いや、違う。昔を思いだすのは、苦しい。昔、よく実母が水蓮の髪を結ってくれた。花女官は、まるで水蓮を自分の子供のようにいつくしむ。心が苦しい。窒息してしまいそうだった。
「それでは、最後に簪を整えていきますね」
花尚宮は、水蓮の境遇を知っているため、それ以上はなにも言わなかった。
そうやってようやく髪を結い上げて、襦裙の裾を踏みながらも皇宮についた水蓮は、灰夏の視線にさらされて赤面している。襦裙姿の水蓮を見て、灰夏は大げさに感嘆の声を上げたのだ。
「水蓮、美しい」
「や、東宮さままで」
「本当だ。嘘は言わない」
灰夏はさも当たり前のように水蓮を抱き寄せて、その額に唇を寄せる。おどろき、水蓮が灰夏をどんと突き押す。灰夏はびくともしなかったが、拒絶を受け入れ、抱きしめていた水蓮から手を離した。水蓮の顔が、化粧からではなく真っ赤に染まっているのを見て、灰夏はふん、と満足そうに頷いた。
「わ、わたし」
「すまない。嫌だったか?」
ふるふると首を横に振る。嫌だったわけではない、ただ、びっくりしただけなのだ。灰夏が今度はしゅんとうなだれるものだから、水蓮も先の自分の行動を反省する。しかし、だからと言って、額に接吻なんてやりすぎだ。
「東宮さま、私、加護の片割れの妃として、まだ会って二日目ですし」
「そうだな、ゆっくり進めていくとしよう」
ふっと笑って、灰夏は一度厨に戻っていく。次に持ってきたのは卵がゆと、白身魚の葉包み焼きだった。
「美味しい。お粥ってこんなにおいしいんですね」
「ああ、うちのは土鍋で炊くし」
灰夏が水蓮の口にレンゲを運んでいる。最初は水蓮も抵抗したのだが、どうしても灰夏は水蓮を甘やかしたいらしく、押しに負けた。水蓮と灰夏は横並びに座り、隣の灰夏が、水蓮に手ずから卵がゆを食べさせるのだ。はく、と口に入れて、水蓮が咀嚼くする。
「土鍋ですか?」
不思議そうに聞き返す水蓮に、灰夏は、花尚宮を傍に呼ぶ。
灰夏がレンゲを土鍋に置く。そして、花尚宮が手のひらをうえにむけて加護を念じる、ぼぼぼと花尚宮のてのひらから土が起こった。
「この国の土で作った土鍋で炊くから、美味いらしい」
「この土……加護だから?」
「ああ、水蓮は呑み込みが早いな。土国の土は生命の土だ。この土は万物に命を吹き込むし、そして同時に、命を燃やすこともできる」
灰夏がやや自嘲気味に口にする。この土を、本来ならば土国の王族である灰夏はおのずから生み出すことができるはずなのだが、灰夏にはそういった力が備わっていない。だから、出来損ないの兄と揶揄される。花尚宮にやらせたのも、灰夏には土を生み出す力がないからだろう。しかし、それでも、水蓮は灰夏の手を握った。
「私、東宮さまの手、好きです。この手が、美味しいお料理を作るのですから。それに」
「水蓮?」
「言ったじゃないですか。次期皇帝になるには、能力を見せればいいって。それなら、これまでもこれからも、東宮さまは東宮さまのままでいいです」
力を誇示しないからこそ、灰夏は灰夏なのだ。優しすぎるほどやさしい灰夏に、水蓮は惹かれつつあるのだから。もう否定はしない。水蓮は、ここが好きだ。誰がなんと言おうと。だからこそ、はらわたが煮えくり返るほどに、自分の過去が、憎い。
「水蓮にそう言われると、救われるな」
「救われたのは私の方です。東宮さま、ありがとうございます」
お粥を食べながら、ふたりで笑いあう。あたたかな粥が、水蓮の心をも温める。水蓮は、せめて灰夏が皇帝になるまでは、偽りでもいい、妃として灰夏を支えたいと、思い始めていた。
水蓮はかりそめの安寧をかみしめた。どうかこの幸せがずっと続きますようにと、祈らずにはいられなかった。
食事を終えると、水蓮の月の宮に灰夏が訪れた。出てくるときと違って、そこには実家からのなじみのある家具や、新しくあつらえた調度品などが豪奢に並んでいた。
「必要な荷物は運んでおいた」
「……家に、行ったのですか?」
「ああ。心配することはない」
本当は、裏で手を回した。なにしろ、実家に荷物を取りに行くと、水蓮の義母が物凄い剣幕で灰夏を責めた。まるで財産を奪われたかのように、義母の怒りは頂点に達していた。
「水蓮は私の本当の娘じゃないけど、いないと困るのよ」
「母親の情が残っているのか?」
「家の雑用を、だれがやるのよ」
面倒だわ、と義母が嘆いた。こんな家で、よくもあんなに優しい水蓮が育ったものだ。水蓮はすでに十八歳、幼さを残すとは言え成人を迎えている。それなのに、どこか自信がなく背中を丸めているのは、この母親あってのものだった。灰夏は大きく息を吐いた。
「水蓮は、帰りたくないと言っています」
「帰る帰らないじゃないでしょ。親子なんだから、助け合って当たり前よ」
その割、妹の己花の嫁入りは豪華に祝ったようで、主室には食べ終えた皿が散乱していた。己花は、水蓮と同じく、先日後宮入りしたばかりだ。出ていく前に、この家で盛大に送り出したのは明らかだった。水蓮が帰らなかったことにはなんとも思わなかったくせに、いなければ困るなどとどの口が言うのだろうか。灰夏はぎろりと義母を睨む。義母は一切引かなかった。
「水蓮は俺の伴侶となる」
「ああ、そう。そうね、じゃあ」
義母の目の色が変わった。赤茶の瞳は、灰夏のものとは違って、そう、人間とは思えないほどの、醜悪さを含んでいる。東宮という立場上、こういった目は何度も見てきた。救いようがない人間というのは、どこにもいる。
「今まで育ててきた私に、謝礼金を払ったら考えるわ」
「どこまでも下衆な」
しかし、灰夏は予見していたのか、内官に合図をすると、内官から金子を持ってこさせる。男ひとりがやっと持てるほどの重さだった。内官が木箱をガチャ、とそれを開けた。きんきらと輝くそれに、義母の目がいやらしくゆがんだ。
「足りなければ、後日人を寄越す」
「……! こんなに」
五十はあるだろうか。がし、と金子をわしづかみして、義母は数を数え始める。しかし義母は咳払いをし、
「この倍は必要よ」
「わかった。それで水蓮から手を引くんだな?」
「手を引く引かないじゃないわ。私たちは親子なんだもの」
最後まで母親面する義母に、灰夏は侮蔑の目を向けていた。