1-7 美味しい
髪を結わえ終えたころ、灰夏が料理を片手に部屋に入ってくる。瞬間、ふわりとかぐわしいにおいが立ち込めて、水蓮は思わず灰夏に目を向けた。
「水蓮、くつろげた――」
料理を机に置き、水蓮を見た瞬間、灰夏の目の色が変わった。水蓮は灰夏を目が合ったことに恐縮し、慌てて顔をそらした。
「泣いたのか!?」
水蓮の目が真っ赤に腫れている。先ほど、花尚宮に優しくされて泣いたことを、どう説明すればいいだろうか。水蓮が考えあぐねていると、灰夏が花尚宮を責めるように見た。慌てて水蓮が、
「や、あの。違うんです」
「花尚宮。なにがあった!?」
灰夏は水蓮を抱き寄せて、結い上げた髪の毛を撫ですいた。花尚宮が笑う。普段感情を表に出さない灰夏の意外な一面は、花尚宮をうれしくさせた。
「東宮さま、違うのです。花尚宮さんが優しくしてくれて、嬉しくて」
「本当か? なにか不便はないか? あんな実家でも、出るのは嫌だったのか?」
おろおろする灰夏を、水蓮は笑った。水蓮がやっと笑ってくれたことはうれしいが、灰夏は至って真剣に心配しているため、やや不服そうに口を結んだ。
「水蓮?」
「いえ。私、あの家から出たこと、なんとも思ってないんです。不思議と」
東宮さまがいるからかな、と笑うと、灰夏が水蓮を抱きしめた。華奢で、折れそうな体だった。風呂上がりだから体温が高く、少ししとっていて、色気がある。
「良かった」
「東宮さま、恥ずかしいです」
「慣れてくれ。これでも遠慮しているんだ」
「そう、ですか」
ふたりのやり取りを、花尚宮が微笑みながら見守っている。
水蓮は、自分でも意外なほどに、実家への執着がない。この灰夏という人間とは出会ったばかりだが、惹かれているのは否定できない。それ以前に、灰夏という人間を、知る必要があるというのに。それなのに、水蓮は灰夏を無碍にできない。きっとそれが、加護の存在なのだろうなと、水蓮は思った。
水蓮の赤く腫れた目を一撫でして、灰夏が残りの料理を運んでくる。小皿に何種類もの料理が乗って、机一杯に並べられた。それは宮中料理というにはふさわしく、彩りも豪華で、食材も見たこともないものばかりだった。
「灰夏さま、運ぶのはわたくしがやりますのに」
「いい。最後まで俺がやる」
水蓮は手伝いたかったのだが、灰夏に丁重に断られた。そもそも、東宮にこんなことさせられるはずがない。それに、最後まで、という言葉が引っかかるが、水蓮は黙って机の前に座っている。いいにおいがして、思わずお腹の虫が鳴いた。
「ご、ごめんなさい」
「いい。そんなに腹が減っているのか?」
「や……はい……」
実家ではろくにご飯なんて食べてこなかった。水蓮は、目の前に広がる料理に釘付けだった。
キンメダイの甘酢あんかけ、ふかふかのパオズ、アヒルの炉焼き、具沢山の汁物、ほかほかの粥。漬物もついている。
「さあ、冷める前に食べろ」
「い、いただきます!」
料理を前に、手を合わせる。待ってましたと言わんばかりに、水蓮が箸を手に取った。まずは汁物を一口飲んだ。
「あったかい……おいしい」
甘くておいしい。具はネギに豚肉、サツマイモだ。具材の一つ一つを味わう様に咀嚼して、次は炊き立ての粥を口に運ぶ。甘く、粘りがある。噛めば噛むほど香りが立ち、粒の一粒一粒が主張する。汁物にサツマイモを使うのは意外だったが、甘みが出てとても美味しい。粥は、甘みが際立って、粒もふっくらしていて今までに食べたことのない味だった。きっと、宮中の米がいいのだろうと水蓮は思った。
「こんなにおいしいんだ、お米って」
なにも、普段冷めたご飯を食べているからではない。このご飯が、特別においしいのだ。いくら宮中の米とは言え、こんなにも違うものなのだろうか。
キンメダイの甘酢あんかけをひと切れ挟んで、餡をたっぷりつけて口に入れる。上品な油と、甘酢のうまみ。あわせることでお互いを引き立てている。キンメダイは、あまりこの辺では取れない。灰夏には、どこか食材を手にれる極秘の取引先があるのだろうか。新鮮な白身の魚は、下処理がされていて臭みもない。油は甘く、あんかけにするから熱々のまま食べられるのもいい。餡の硬さもちょうどよく、水蓮はキンメダイをもう一口、口に入れた。
「あ!」
「どうした?」
「この甘酢、甘みが強いですよね」
「ああ、これは水蓮がだいぶ衰弱しているから、栄養がつくように甘くした」
「え、東宮さまが作ったんですか?」
「意外か?」
灰夏が水蓮の真ん前に腰かける。まるで子供のように嬉しそうに、並べた料理を見渡している。そうして、両手を広げて、
「ここにあるものは、全部俺が作った。オマエに食べさせるのだから、俺が直々に作らねば気が済まない」
「ええ! すごい! 東宮さまって、料理の才能まであるんですね!」
キラキラした目を向ける水蓮に、灰夏はぼっと顔を赤くした。他者から好意を受けることに慣れていないせいか、もしくは好いた人間からの賛辞がうれしいのか、水蓮にはどちらものように思えるが、そういう反応をされると水蓮の方も恥ずかしくなる。
「東宮さま……?」
「いや……水蓮が笑うと、俺もうれしい」
「私が、笑う……?」
自分でも気づかなかった。どうやら自分は笑っていたらしい。うまく笑えていただろうか。笑うことなんて久しくしていなかった。水蓮は自分の顔に手をやった。口角が上がっていることに気づいて、ふと気が抜けるのを感じた。自分は、ここを居場所だと思い始めている。加護の片割れ、と灰夏は言っていた。
「東宮さま。加護の片割れ、とはどういう意味ですか?」
今さらに気になって、食事の手を止めて水蓮が問うた。灰夏は、自分も食事に手を付けながら、何の気なしに答えるのだった。
「干合、という考え方は知っているか?」
「はい。仲の好い組み合わせのことです」
「その、干合だ。加護持ち同士が干合の関係だと、その加護が変化する」
例えば、甲と己なら土に、乙と庚なら金に、丙と辛なら水に、丁と壬なら木に、戊と癸なら火に。つまり、癸の加護持ちの水蓮と、戊の加護持ちの灰夏は、干合して火になるのだ。
「でも、東宮さまは、加護がないと……」
弟東宮の土夏の言葉である。灰夏には、加護がないとののしっていた。水蓮は考える。しかし、自分の失言に気づき、座ったまま灰夏に頭をさげた。
「も、申し訳ありません!」
「いい。俺が加護なしだというのは、みな知っていることだ。だからこそ、ソナタと触れ合い、加護の片割れとしてソナタとの間に、火の剣が顕現したことに、救われた」
つまり、灰夏に加護があるという証明が、今日、水蓮と出会ったことでなされたのだ。あの加護の剣は、加護持ち同士でしか現れない。しかし、あれは伝説上の産物だと、灰夏は聞いている。なぜ水蓮との間に現れたのかは、灰夏にもわからない。
灰夏が、「さあ、食べろ」と促し、水蓮はほかほかした気持ちで食事を再開する。ひとが自分のために作ってくれる料理が、こんなにも美味しいことを、水蓮は今日、初めて知った。
「東宮さま、私」
「ああ」
「私今、幸せです」
また、水蓮がふわりと笑って、今度はパオズにかぶりついた。じゅわ、と餡から肉汁があふれる。生地はもちもちむちむちで、肉の餡は甘辛くて美味しい。筍のしゃきしゃき感と、それからこれは、すりごまの香ばしさだろうか。甘みにははちみつが使われていて、優しい甘みだ。少しピリッとするのは豆板醤を隠し味に入れてるからだろうか。
「このパオズも、甘辛くておいしいです」
「そうか……実は、調味料も、できるだけ手作りしている」
「調味料も!? ジャンとか、ひしおとか、酒ですか?」
「ああ。俺は本当は、東宮なんかじゃなく、小料理屋をやりたかった」
『かった』と過去形なのは、灰夏のあきらめの表れだ。水蓮の手からパオズが落ちそうになる。すんでのところでこらえて、水蓮は灰夏をまっすぐに見る。灰夏の言葉に水蓮はなんだか悲しくなって、しかし笑みを崩さぬままに、
「じゃあ、小料理屋『も』やりましょう」
「水蓮……?」
「皇帝と小料理屋。両方やってはいけないという決まりはないのでしょう?」
「ないが……前代未聞だ」
「ならば、東宮さまが一番手になればいいんです。この後の皇帝陛下たちが、好きな生きかたを選べるように」
そうはいっても、灰夏が異端であることは水蓮にもわかった。灰夏は東宮にしては優しすぎるのだ。しかし、その優しさに、水蓮は救われた。もっと残忍な人間だったほうが、どんなにかよかった。水蓮は、この男の正体を、暴かねばならない。
「水蓮には救われるな」
「……いいえ! 救われたのは私の方です!」
水蓮は照れ隠しに汁物を喉に流し込む。甘くておいしい。サツマイモが少し煮とろけているのがまた、甘さを引き出して美味しいのだ。サツマイモと言えば、甘いお菓子が常なのだが、灰夏の料理の腕には驚かされるばかりだった。
ふたりのやり取りを、花尚宮がほほえましく見守っている。ほかの女官や内官たちも、少し離れたところから、ふたりを見守り、その顔はうれしさがにじんでいる。
「花尚宮。なにを笑っている」
「いいえ。灰夏さま。ようやく理解者が現れて、笑っているのは灰夏さまのほうです」
「俺は笑ってなど」
パクパクと、自分の料理をおいしそうに平らげる水蓮を見て、灰夏もまた、ほほえみを湛える。この娘は純粋で裏表がなく、無自覚だろうが人を勇気づける。そして、自分が水蓮にできることと言えば、これくらいだ。どんな運命のいたずらだろうか。
「水蓮が加護持ちでよかったよ」
「東宮さま?」
「いや、なんでもない」
灰夏も料理を口に運んだ。我ながら、よくできていると口元が緩んだ。