1-6 優しさ
花尚宮の案内で、水蓮は浴場に通される。浴場は皇宮の隣にあり、歩く間、花尚宮が嬉しそうに水蓮を見ていた。
「灰夏さまは、後宮であのような扱いかいゆえに。女性を見初めることなどないと思っておりました」
今気づいたが、妃になる件を押し通されてしまった気がする。しかし、あの家から出るためには、この道が最善なのも確かだった。水蓮は花尚宮に本当のことを言い脱せず、「はい」「さようですか」としか答えなかった。それが余計に好印象だったらしく、花尚宮はにこやかに水蓮の名前を何度も呼んだ。
しばらく歩いて、水蓮と花尚宮は浴場に到着する。
「では、ごゆるりと」
「あ、あの」
「なんでしょう」
「着替え……持ってなくて」
花尚宮がさがろうとするのを呼び止める。花尚宮が立ち止まり、水蓮にあたまを垂れる。頭のてっぺんまで美しい。所作の一つ一つに品があって、どうやったらこんな女性になれるのだろうと水蓮は思った。水蓮の言葉に、花尚宮がクスリと笑った。
「ご心配なく。湯帷子を用意しております」
「湯帷子……後宮のしきたりはわからないのですが、私に着付けられるでしょうか」
「ご心配なく。衣を着付けるのは、女官たちの仕事です。本日はわたくしが着付けますよ」
「でも」
「ささ、疲れを流してくださいませ。本来ならば、お身体を洗うのも女官の勤めですが、本日は灰夏さまたっての希望で、水蓮さまおひとりにな
れるように計らっております」
花尚宮に言われ、水蓮は観念したように衣を脱いだ。あたたかな湯気が、こちらまでにおってくる。花びらを浮かべたそのお湯は、香りもよく、温度もちょうどいいに違いない。
ヒノキの大きな浴槽と洗い場。ヒノキには確か過剰免疫反応が起きる人もいるのだと聞いたことがある。幸いにして、水蓮は体だけは丈夫である。ヒノキの香りを楽しみながら、水蓮は浴場の湯を頭からかぶった。
「温かい」
泣きたくなるのをこらえる。実家にいたころは、湯浴みなんて許さず、井戸の傍で水をかぶって体を洗っていた。しかも夜に限られるのは、睡蓮の髪の毛が白銀だと誰にもばれないようにするためである。井戸水で体と頭を洗ったら、持ってきた黒檀と薬品で髪の毛を赤茶に染め直す。髪を頻繁に染め直すのは大変だから、水浴びは七日に一度がせいぜいだった。
水蓮は昔を思い出しながら体を洗う。西洋から伝わった石鹸で体を洗うと、とてもすがすがしいにおいがした。水蓮は外の気配を探る。花女官は傍にはいないようだ。しかし、髪の毛だけは湯に浸からないように、簪できれいにまとめ上げてから広い湯船に体を沈めた。実家に行ったときに持ち出せたらよかったのだが、今は髪を染める黒檀や薬品がない。
「気持ちいい……」
井戸での水浴びは、ものの数刻で終わらせなければならないため、気が抜けなかった。もちろん湯船なんて入れない。フッと伸びをして、水蓮は天井を仰いだ。水の質もかなり良く、体にしみわたるようだった。水蓮は、湯を手のひらに掬い取った。
「いい水だわ」
「水蓮さま」
「わ。はい!」
「お夕飯に、召し上がりたいものはありますか?」
「え、っと。特には!」
広い浴室に水蓮の声がよく響く。水蓮の答えに、花尚宮はまた笑いを漏らして、更衣室を出ていった。
風呂から上がり、水蓮は下着を身につける。用意された湯帷子は、水蓮だけでも着られそうだったが、折よく花尚宮が現れて、あれよあれよと湯帷子を着つけられた。水蓮は自分で着ると言ったのだが、花尚宮が、「これくらいはさせてください」と譲らなかった。水蓮は人形のように、されれるがままだった。
「ありがとうございます」
「お礼など! アナタさまは特別なのです」
「私が?」
「はい。東宮さまだって……この宮の内官・女官は、灰夏さまを尊敬しております」
皇宮に向かいながら、花尚宮が懐かしそうに目を細めた。それはまるで、母親ともとれる表情で、それだけで水蓮は、この花尚宮が灰夏を大事に思っていることがうかがい知れた。
「東宮さまは、虫すら殺生を嫌う方で。弟の土夏さまと比べられがちですが、わたくしは灰夏さまこそが後継に相応しいと思っております」
「東宮さまって、優しい方なんですね」
さらに聞けば、灰夏のこの皇宮にいる内官や女官たちは、土夏の皇宮に比べたら半分以下なのだそうだ。灰夏のやり方を好かない人間が大多数で、つまり灰夏は異端らしい。たしかに、東宮にしては優しすぎる。自分を殺そうとする弟東宮と和解したいだなんて。
「そして、内官・女官たちもまた、土の加護があるのですよ」
「えっ、そんな方々にお世話になるわけには……!」
「いえ。東宮妃さまのお世話なんて、名誉なことです!」
花尚宮が皇宮の扉を開ける。床張りの部屋には、大きな机が置いてある。水蓮は机の脇の椅子に座り、水蓮の髪を花尚宮が触った。
「乾かしてもよろしいでしょうか」
「や、自分で」
風呂に入ったというのに、水蓮の髪の毛は濡れていない。洗っていないのだ。花女官はそれ以上なにも言及しなかった。水蓮の髪の毛は、まだらな赤茶色をしている。花尚宮に気づかれないかと、水蓮はなるべく花尚宮から離れようとした。それなのに、花女官は水蓮の髪の毛を手櫛で梳かし、
「では、髪の毛を結ってもよろしいでしょうか?」
「そ、それなら……」
今、なにも言われないということは、水蓮の髪はちゃんと土色に見えているということだろう。それに、なんでもかんでも断ったら、余計に怪しまれる。水蓮は花尚宮に身を任せる。まるで子供にするように、花尚宮の手つきは優しいものだった。
五歳のころにこの国に来たから、もうほとんど実母の記憶なんてない。だが、この優しい手つきは懐かしく、水蓮がホロホロと涙を零す。
「水蓮さま?」
「すみません。こんなに優しくされたの、初めてで」
「さようですか」
花尚宮は笑みを湛える。水蓮の髪の毛を、きれいにまとめ上げて、持ってきた簪でまとめ上げる。
「簪は、どちらにしますか?」
木箱にずらりと並んだ簪は、どれも美しい。玉、金、銀。細工も見事で、水蓮は、これは自分にはふさわしくないと恐縮する。しかし、花尚宮が譲らないため、一番控えめな、花の彫りの簪を一本、挿してもらうのだった。