1-5 後宮
宴席を後にして、水蓮は一度家に帰ることとなった。灰夏には水蓮の家の事情は話していないため、水蓮の足取りは重かった。帰りが遅くなったことで、また地下室に入れられるかも知れない。
「今までなにをしていたの」
「申し訳ありません。道に……迷い……」
「もういいわ。それで、己花の様子はどうだったの?」
どう、とは、つまり、東宮妃のことだろう。今しがた見てきたことを全て話すべきだろうか。しかし、全部話せば、この義母はまた、ひどいことをするだろう。水蓮は一拍迷って、
「己花さまは、東宮さまの妃として、正式に認められました」
「まあ、まあ、まあ! そうよねえ、うちの己花が東宮さまに嫁入り!」
喜ぶぶ義母に、水蓮は深呼吸する。言わなければ。隠したところで後にばれるのなら、すべてを話そうと、水蓮が口を開いた。
「あの、奥さま」
「なに。水を差さないでちょうだい」
「すみません。でも、私、も」
「『も』?」
「私も……東宮さまの……」
がっと髪の毛をつかまれて、水蓮はそれ以上なにも言えなくなった。痛い、やめて。またあの地下に閉じ込められるのだろうか。いやだ、逃げたい。逃がして。誰か助けて、助けて。目の前が真っ暗になる。水蓮の人生とは、一体なんだったのだろうか。誰でもいい、助けて欲しい。浮かんできたのは、あのあたたかな赤茶の瞳だった。
「東宮さま!」
無意識に呼んだのは、あの東宮の名前である。しかし、灰夏とはもう別れたばかりであるし、この家で水蓮の味方をする人間なんてどこにもいない。母親が顔をひきつらせた。
「アンタが、東宮さまの名前を呼ぶんじゃない!」
水蓮の髪を引っ張って、継母が水蓮を地下室に連れていく。ずるずると引っ張られながらも、水蓮は抵抗する。いつもなら諦めるのに、今日はそれが出来ない。ひとのあたたかさに触れてしまったからかも知れない。
「ごめんなさい、もう言わないので地下室だけは」
「わかってないのよ、アンタは。アンタが東宮さまの妃? なんでうちの己花とアンタが同じ立場になれると思ってるの」
ぎい、と地下のドアが開けられたとき、ふと義母の手を誰かがつかんだ。びくっと義母が肩を震わせ、その人物を見る。薄暗い地下でもその瞳はよく見えた。きらきらと光るそれは、希望のあかりに見えた。
「東宮さま……!」
「誰、誰なのよ!」
「この娘は俺の妃……俺は土国の次期皇帝候補、灰夏だ」
義母が水蓮から手を離す。水蓮の乱れた髪を、灰夏が撫で付けた。そのまま水蓮を抱き寄せて、「けがはないか?」と優しく問う。ふるふるとかぶりを振って、水蓮は灰夏に身を任せた。
「水蓮の様子が気がかりで見に来たが……水蓮をこんな家に置いておくことはできない。水蓮は俺が引き取る。問題ないな?」
「ああ、ああ。そうか、そういえば聞いたことがあるわ。東宮さまには双子がいると。その『出来損ない』のほうね、水蓮の東宮は」
「奥さま……! 東宮さまを悪く言わないで!」
水蓮が口答えしたのなんて、これが初めてだったかもしれない。義母が目を真ん丸にして水蓮を見ている。そののち、憎しみを込めて水蓮をにらみ、ダンダンと足を鳴らした。床が鳴る度に水蓮が肩を震わせる。灰夏は水蓮の背中を撫で、後ろに隠す。
「なによ、アンタはいっつもそうだった! 私のことなんかより、死んだ母親のことばかり。いくら可愛がってもなつかない! 私の気持ちを一度だって考えたことがあった!」
そんなこと、した覚えがない。新しいお母さん。拾ってくれた新しいお母さんに、水蓮は早く慣れようと努力した。義母が死んだ母の話を嫌がれば、それをしまい込んだり、水蓮の嫌いな食べ物を食卓に出されたって、「お母さんのご飯大好き」とすべて平らげた。
なにがいけなかったのだろうか。水蓮は拾ってもらった恩を、一度だって忘れたことはないつもりだった。それが余計に、義母を追い詰めた。
「奥さま……いや、お母さん。私は、お母さんのこと、好きだったよ」
「ああ、そうね。アンタはそういう子だったわね。私の前では私のこと好きだって言うくせに、部屋では実母の残した髪飾りを見て泣いていたこと、知らないとでも思った?」
それは否定できなかった。実母が亡くなったのが五歳の時で、義母には三歳の実子がいた。最初は分け隔てなく愛してくれたのに、困らせたのは自分の方だったかもしれない。水蓮は黙り込む。
「実の親を思うのは、当たり前だろう」
「東宮さま?」
「水蓮だって、オマエと歩み寄るために努力していた。それのなにが気に入らない」
義母に懐かない養子と、自分の血を分けた子供。義父までもが、実子をかわいがるようになって、水蓮はいつも、ひとりだった。ひとりは苦しかった。寂しかった。水蓮も家族の輪に入りたかった。笑って誤魔化した、私も家族なんだよと、見て欲しかった。言われた通りになんでもした。その聞き分けの良さが、余計に義父母を遠ざけた。
「はっ、だって、アンタには加護もなにもない、ただの子供だったじゃない。私の子供には、高い加護があった。それはつまり、母親である私も特別ってことでしょう?」
義母はつまり、己花の能力の高さを自分の生きる価値にしたのである。そして、なにも持たない拾い子は無価値だと。自分こそが選ばれた人間で、この子は落ちこぼれ。水蓮を拾ったあの日、この子はどこかの公主なのではないかとふとよぎったその劣等感を隠すために、自分の子供こそが選ばれた子供なのだと、信じたかった。
だから冷たくした、見下した。この子にはなんにもない、役立たず。こんな子、自分の子供じゃない。恥ずかしい。己花に比べてこの子のなんと無能なことか。己花の足を引っ張ることだけはさせてなるものか。この子とは血なんてつながっていない。自分の子供こそ、幸せになるべきなのだ。
「勝手だな。オマエは親になる資格なんてない。いくぞ、水蓮」
「え、東宮さま……」
灰夏が水蓮の手を取り歩いていく。水蓮は悔しそうに顔をゆがめる義母に、なにもかける言葉がなかった。
灰夏の用意した輿に揺られて、水蓮はさめざめと涙を流した。春の日差しが心地よく、ふたりを照らし出している。半刻(一時間)ほど輿に揺られて、ついたのはきらびやかな後宮だった。灰夏にあてがわれた皇宮に入り、灰夏と水蓮の輿がそっと地面に降ろされる。水蓮は、ゆっくりと踏みしめるように地面に降り立ち、その荘厳な皇宮に向かって拝礼した。
「礼などするな。今日からここが、ソナタの家だ」
「しかし、同じ宮に住むのですか?」
水蓮が連れられた皇宮は、何棟もの宮で成り立っており、水蓮はあたりを見渡してため息をついた。
「広い……」
「だが、人はほとんど住んでいないがな」
「……?」
水蓮にはその言葉の意味が分からなかった。灰夏がふうと息を吐き出す。
「ソナタの宮は、新しく作る」
その言葉に安堵するも、先ほどの言葉が気になって仕方がない。首を右に傾ける。
「人がいない、とはどういうことなのですか?」
「本来なら、内官や尚宮が配属されるが。俺の元で働きたがるものはいない」
「すみません……言いたくないことまで言わせてしまい……」
「いい。水蓮、オマエがいれば」
ふたりは豪華な門扉をくぐった。赤い門扉には、しかし門番がふたり、立っている。先ほど、灰夏は人はほとんどいないと言ったのに。そのうえ、門扉の先にひとりの女性が出迎えた。
「お帰りなさいませ。灰夏さま。そして」
「あ。あ、李・水蓮です」
「伺っております。わたくしは、尚宮の花尚宮と申します」
水蓮が灰夏を見ると、灰夏が柔らかに笑っていた。灰夏が笑うところを、水蓮は初めて見たかもしれない。水蓮は驚き、笑い返すことができなかった。水蓮の反応を見て、灰夏がまた、笑った。
「ひとりもいないとは言っていない」
「早く教えてください」
「すまない。少しからかいたくなった」
扉を抜けて中に入ると、灰夏から聞いているより、ずいぶんと賑やかなようだった。内官が三人、女官が十人はいるだろうか。みな、皇宮内を掃除していたり、料理を作っていたりと、楽しそうに仕事にいそしんでいる。調度品を見ても、この宮が特別なことが分かる。龍の置物は、王族の証だ。その置物は、玉でできている。両手で抱えるくらいの大きさだった。机も椅子も、彫りが施されており、金の屏風が壁際に配置されている。屏風には上質の紙で、梅をかたどって切り取られた飾りが貼り付けてあった。
「お帰りなさいませ、灰夏さま」
「ああ。これは俺の妃ゆえに。早急に襦裙を誂え、風呂に通せ」
「はっ」
先頭を取ったのは花尚宮である。花尚宮はだいぶ歳のいった女性で、ほんわりした雰囲気がある。老齢ながら、この宮を取り締まる女官の中でも最も地位の高い女性である。きれいに髪を結い上げて、簪は一本、銀色のものを挿している。上品な顔立ちで、水蓮は親しみを覚えた。