1-2 加護の片割れ
豪華な庭園には池があって、水蓮はなんとなくそこに足を向けた。赤い橋は紛れもなくここが後宮だと嫌でも知らされる。綺麗な水が張られた池には、魚が泳いでいる。魚たちが、水蓮に気づき、餌を求めて口をぱくぱくと動かした。
「誰だ」
「あ……申し訳……ありませ……あっ!?」
橋の上から池を眺めたのがよくなかった。水蓮がぼうっとしていたせいで、向こうから人が来ることに気づかなかった。庭にいた先客が、不審者を捕らえんばかりに水蓮の手を取った。赤茶の瞳が印象的だった。そのいでたちだけで、その人が平民ではない、五行の王族なのだと水蓮は悟った。土国の王族は赤茶の髪と瞳を有している。木国なら緑、金国なら黄色、土国なら赤土色、水国なら水蓮のような、白銀。
「も、申し訳ありませんっ!」
手を取られたため、伏せて謝ることができない。水蓮は地べたに這えないながら、目いっぱいに頭を下げた。長い髪の毛が水蓮の顔を隠す。王族となれば、水蓮の瞳の色を見て、自分の素性が暴かれるかもしれない。水蓮は深く、深く下を向いた。
こうべを垂れたまま、目だけで男を見る。髪の毛は、白銀だ。しかしそれが、あの日と重なる。まるでそう、まるで。
過ぎったのは、幼き頃の記憶。水蓮が己花の付き添いを断らないのは、土国の王族を『見定めたい』からという理由もあった。
「オマエは……?」
「付き添いにございます」
「はっ、そんな汚い格好でか?」
無礼にも男が笑った。綺麗な赤茶の瞳は、陰鬱だった。対して男の白銀の髪の毛が、太陽を反射して儚さをかもしだす。上背もあり、肌もつややかだ。なにより、上等な服がすべらかだった。身分の高さが伺える。おおよそ、今日のお茶会の来賓だろう。そして、水蓮にはこの瞳に見覚えがあった。暗い表情だが、この男は。
「俺が土国の東宮と知ってか?」
「え?」
しかし、男の言葉により、水蓮の思考が霧散した。
聞いたことがある。この国の東宮は双子で、どちらを次期皇帝にするか皇帝も決めあぐねていると。水蓮は返す言葉もなく、男に背中を向けた。早くこの場を立ち去らねば。やっと『見つけた』のに、相手が悪かった。しかし、誰だかわかったのだから、のちのことは今考えなくともよい。
「も、申し訳ございません!」
思い切り謝って、水蓮はその場を走り出していた。綺麗な東宮だった。赤土の目に白い髪の毛。土国の皇帝は赤い目と髪を持つと聞いている。だったら、あの東宮は本当に土国の王族なのだろうか。水蓮と同じ、きれいな白銀の髪の毛。東宮は確か、どちらかが加護持ちで、もう一方は――
「はっ、はぁ……また怒られる……」
茶会の宮が見えなくなったところで、水蓮は膝に手を置き、肩で息をする。春の気候が体にまとわりつく。花の香りと一緒に空気を吸い込むと、幾分か落ち着きを取り戻す。
「なん、だったんだろう……」
あの男は。あそこに土国の東宮を始め、各国の皇帝や王族がいたことも夢見心地だが、庭で出会った見目麗しい若い男は、ことさら不思議な存在だった。あの瞳を、水蓮は知っている。ずっと探していた、忘れるはずがない。
「動くな」
「……え」
逃げるのに夢中で、後ろからあの男が追ってきていることに気づけなかった。低い声が背後から刺さるように浴びせられた。水蓮の体が硬直する。走ったせいで汗をかき、背中が冷える。後宮内は広く、今、自分がどこにいるかもわからない。
どっどっど、と心臓が脈を速めた。水蓮は振り返ることが出来ない。
「オマエはどこの家の娘だ?」
「わ、私はただの付き人で」
同じ質問に同じ答えを返した。男が水蓮の真ん前まで来る。膝に着いていた手を離し、水蓮は体を上に起こした。だいぶ背の高いその男が水蓮の頬に触れる。先程とは違い、優しい目付きだ。ホッ、と息を吐き出した。こんな風に、『人間らしく』触れられたのは、いつぶりだろうか。
一瞬の出来事だ。水蓮が男に目を奪われたのなんて。
男が今一度水蓮の頬に触れると、水蓮の胸元に赤い火花がジリジリと爆ぜる。赫灼のそれが、どこからともなく現れる。男が驚き、ひとたび目を瞬かせた。しかし、次には導かれるように、男がその火花を握りしめた。
「あっ……」
「これは……」
火花が剣の柄になり、水蓮の胸から炎の刀が抜き取られた。抜き取られる瞬間に、水蓮の加護がバチッと爆ぜる。男は、抜き取った剣を天に掲げて、その赤色が、晴天のもとにひどく映えた。
「……これは」
「東宮。さま……」
水蓮の体から力が抜ける。加護を使えばそれなりに疲れるが、これもなんらかの加護なのだろうか。すべての加護を抜き取られたように、水蓮は脱力し体が傾く。倒れ込む水蓮を男が支える。水蓮に意識はない。
「そうか、オマエが、五行の片割れか」
その日、ふたりの東宮妃が誕生する。水蓮の胸から刀を抜き出したこの男と、
「己花。俺はオマエを探していた」
水蓮の妹、己花である。くしくもふたりとも『土国』の東宮妃として、運命を辿ることになる。
「付き添い、といったか」
男は水蓮を抱えあげて、その顔をまじまじと見た。その髪の毛の生え際が、美しい白銀に変わっていたことに、男は確信を得るのだった。
そもそも、五行のなかで最も力を持つものは火とされている。火は太陽を表すからだ。太陽がなければ人も動植物も生きてはいけない。しかし、五行の国々が均衡を保っていたのは、火国を抑える水国が存在したからである。それが、いまや水国の人間は滅び、五行の国々は張りつめていた。
土国の皇帝も、早々に次期皇帝を決めたいところだが、そうも簡単にはいかない。次代の当主が双子だからだ。
「ん……」
目を覚ました水蓮は、見覚えのない布団と天井に意識を覚醒する。香のかおりが立ち込めた房だった。寝台に寝かされ、体が妙に重くだるい。しかし、ここが家ではないとすぐさま悟った水蓮は、ばっと起き上がって辺りを見渡す。傍にはあの麗しの男がいた。
「目が覚めたのか?」
「あ、の。私」
「オマエの名前を教えてくれないか?」
「李・水蓮……と申します」
おずおずと頭を下げて、水蓮が布団から出ようとするも、男がそれを制止した。いまだ水蓮の体にうまく力が入らない。あの赫灼の剣のせいだろうか。
「俺は灰夏。土国の東宮……とはいえ、俺は次期皇帝にふさわしくないと言われるが」
目を伏せて、男――灰夏が水蓮の手を握った。温かい。平民と同じ体温だった。土国の東宮だからだろうか、土の様に温かかった。しかし、髪の毛は白銀で、水蓮は自分と同じだ、と思った。
「灰夏さま……は。なぜ私をここに?」
「オマエの加護を試したかった」
「私の?」
水蓮は困ったようにうつむいた。試す、とはどういう意味だろうか。灰夏は水蓮の手を握ったまま、きゅっと目を瞑った。まつ毛がきらきらと光っている。房の灯りは、火国製のろうそくのものだ。あれは光があたたかく、どんな暗闇も照らし出す。
「わたしの母親は、十年前の夏に亡くなった。母は俺と弟――俺と同じ東宮だが、俺も弟も、等しく接してくれた」
その母親が亡くなったのは、暑い日のことだった。くしくも、灰夏の件で大事な話があると皇帝に会うことを決めたころだったという。母親――皇后は大層美しい、土の国の人間だった。赤茶の髪と瞳。なのに、今目の前にいる東宮は、髪の毛が白銀だ。
夏ゆえに遺体の腐敗は速く、見つかった時には死後硬直の解けた三日をゆうにこえ、腐臭を漂わせていた。検死の結果、死後三日から四日と判断された。夏の腐敗は速く、腐臭の具合からもそう判断された。皇后は、死してから三日間、誰にも発見されなかった。誰も通すなと、皇后からの命令だった。その理由が、皇帝に次の正式な跡目を進言するために、ひとりで考えたいから、と人払いをしたというのだ。しかし、さすがに十日前から食事は房の前に置くように言われ、誰も房に通さぬとなれば、女官たちも不安になる。それで房に入ったところ、皇后は殺されていたのだという。
初めは自殺と言われた。皇后の遺体は、天井の梁から吊るされた縄に首をくくっていたからだ。
「しかし、皇后は自殺するような理由はなかった。あれは、誰かが縄で首を絞めあげたあとに、天井から吊るしたのだ。検死官も同じ見解だ。そして、この件で容疑者にあがった、宰相が怪しいと踏んだが」
三日前も四日前も、宰相は官吏たちと夜通し宴会を開いていたのだという。宴席は三日三晩続いたのだ。ゆえに、宰相はそうそうに容疑者から外れた。