2-3 水の国
今でも水蓮は悪夢を見る。義父母に虐げられていたことなんてどうということはないらいの、悪夢だ。その悪夢から逃げるすべはなく、ただ水蓮は、その悪夢が終わるのを、ひたすらに待つことしかできない。
「オマエはこの国から逃げなさい」
「しかし、お母さま」
十三年前、水蓮はまだ五歳だった。まだまだ独りでは生きられぬ年齢、まだまだ親に甘えたい年齢にもかかわらず、水蓮は一人ぼっちになった。
水蓮は水の国の公主である。その日父である壬の皇帝は、食事中に過剰免疫反応で倒れ、帰らぬ人となった。母である皇后も、その後すぐに五行の国への謀反の罪で打首にされた。水蓮は後悔している。あの時自分が水の国を去らなければ、癸の公主である水蓮が皇帝の座についていれば、水の国は滅びなかったに違いない。しかし、五歳の水蓮に皇帝が務まるはずもなく、水蓮は滅びた我が国を思っては、涙を流す。
あの日出された料理には、過剰反応を起こす料理はなかった。父である壬の皇帝の過剰反応は、過剰反応としては珍しい、梅によるものだからだ。あの日の料理に梅なんてなかったし、誰かが梅の毒を盛ったとしても、毒見役はなんともなかったのだから、きっとあの日使った器が原因なのだと水蓮は踏んでいる。
五行の国々は、協力して多くの陶芸品を作り、交易してきた。土の国の土を、水の国の水で練り、金の国製の器具で彫りを施し、木の国の薪に火の国の火を燃やして焼き上げる。
それらは、各々の国の皇帝自らが加護で生み出した産物で、どこにもない美しさが特徴だった。
壬の皇帝が倒れた際に使われていたのは、きれいな青い陶器だった。なんの変哲もない、美しい青。
「しかし、東宮妃が、女官のふりなど。最初は気づかなかった」
「申し訳ありません。秘密裏に伺いたく……」
月の宮にて、皇帝と灰夏と水蓮が、三人で茶を飲んでいる。茶と言っても、皇帝のことを考えて、覚醒作用のない棗茶が出された。皇帝は今はもう、すっかり元気になられ、医官も舌を巻くほどだった。茶葉の離脱作用は相当な苦痛だった。頭痛が襲い、眠気も尋常ではない。それが五日。その時期を過ぎると、今度は精神的に茶が欲しくなる。飲みたくて喉が渇いて、だけれど、十日が過ぎたころ、頭が妙に晴れやかなことに気が付いた。覚醒作用のある成分は、脳に作用して中毒を起こすとは、水蓮の言うことは正しかったと身をもって皇帝は痛感した。
「それで、この娘によれば、皇后の死した日が、あと四日は早かったと」
「はい、父上。氷室と言って、土を掘って地下を作り地上に藁をかぶせることで、夏でも冬のような寒さを維持できる知恵が、日元国にはあるのだそうです」
「日元国、というと、海を渡った先の国か」
世界は広いな、と皇帝陛下が笑っている。水蓮は、この皇帝が、自分の父を殺したのではないかと踏んでいた。それよりももっと、東宮である灰夏を。だから、素直に灰夏からの好意を受け取ることが困難になってきた。あの日、あの場所にいた、壬の皇帝が死する際、水蓮は見た。赤茶色の瞳と金色の髪を。
暗い部屋で見た、血と、皇帝の最期をみとった人間。灰夏の年齢は水蓮よりも十上だと聞いている。ならば、水蓮の父が死んだ際は灰夏ももう十五だ。あのとき水蓮は、皇帝に言われるままに、母皇后と金屏風の後ろに隠れていた。隠れていたから、はっきりとは見えていない。だが、あそこにいた人物の目と髪は、暗闇でもよく光った。満月が禍々しく光を放っていた。
「水蓮? 俺になにかついているか?」
「や、いえ。東宮さま……東宮さまは、水国の皇帝をご存じですか?」
皇帝が顔をしかめる。そのまま、茶の椀を机に置いて立ち上がると、先に月の宮を出て行ってしまう。この話題は、皇帝には禁句だったらしい。そういうところが、ますますあやしい。対極に、灰夏は水蓮の問いに、できる限りの誠意を見せた。
「水国の皇帝とは、親交があった。優しい方だった。それがなぜ、あのようなことに」
あの過剰免疫反応の仕組みさえ分かれば、水蓮だって無条件に灰夏に身をゆだねられるのに。
現状、あそこに有った料理に毒はないのだから、だったら、器を疑うのは当然だった。あの器は、この国の土――もっと言えば、この国の王族の加護の力で作られている。あの青い食器は、この国の土で作られたものだった。焼いた火や薪が毒になることはまずありえない。加護で作り出せるのは祝福だけだからだ。だが、その祝福が毒に転じることもある。ならば、土が毒に転じた可能性は否定できない。
「水蓮? 考え事か?」
「はい……東宮さま。この国の土で作った陶器に、毒を混ぜることは可能ですか?」
「それはできん。加護はあくまで加護だ。他者を害する加護は存在しない」
そうなのだ。水蓮だって、自分が水の加護持ちだからわかる。水蓮の作り出す水に、毒の類は一切混ぜることができない。
だからこそ、不可解なのだ。土の加護で、梅と同じ成分の入った土を作り出すことが可能なのだろうか。水蓮が難しい顔をしているのを横目に、灰夏は茶を喉に流し込む。
「水蓮。今日の茶は、甘いな」
「はい。今日は硬めの水で淹れたので」
「ソナタ……最初から思っていたが、ソナタの水の加護は、まるで――」
口をつぐむ。灰夏は、まるで水国の王族のようだと言いかけたのだ。それは、最初から知っていた。知っていて受け入れたはずだ。いつか水蓮が、その本当の白銀の髪を見せてくれたらと思うのだが、なかなか心を開いてくれない。水蓮が特別な存在だということは、灰夏が一番よく知っている。
「東宮さま?」
「いや……ソナタ、今日はもう休め」
水蓮は首をかしげながら、灰夏の背中を見送った。弱弱しく歩く灰夏は、どこか物憂げな雰囲気を漂わせている。




