1-1 五行の国
世界は五行で成り立っている。五行とは木火土金水、つまり自然万物そのものだった。
そして万物には神が宿る。木神、火神、土神、金神、水神。そしてこの五つを統べる宇宙こそが太極と呼ばれる神だった。
いつしか世界には天と地と人が存在するようになった。五行の神が天、地はこの世界、人は言わずもがな、人間である。
そしてこの国はこの五行にあやかり、木国、火国、土国、金国、水国から成り立っている。
五つの国々の一つ、水国が滅びたのはもう十三年前、当時の水国の皇帝陛下――壬の皇帝が死したのは、梅の毒が原因だと言われている。
「アンタ、なんでここにいるの」
「や、今日は暑かったので」
この国の東宮の妃は、五行の加護を見て決められる。その多くは王族である。ある年齢に達した人間には、あるいは、生まれ持って五行の神の祝福を持った人間には、木火土金水のいずれかの異能が発現する。木なら甲か乙、火なら丙か丁、土なら戊か己、金なら庚か辛、水なら壬か癸の加護が現れるのだ。甲なら木を操り、乙なら草花の声を聞く。丙なら太陽の動きを知り、丁ならろうそくの火を灯す。戊なら山土を操り、己なら田畑の土を豊かにする。庚なら鉱石を生じ、辛なら宝石を磨く。壬は海の水を自在に出し、癸は雨を司る。
「母さま、お許しください」
「勝手に水を飲んだ罰よ」
義母に折檻を受けているのは、この家の長子の水蓮という名の少女だった。年は十八だが、婚姻は決まっていない。義母が許してくれないのだ。赤茶の髪の毛は皮脂で汚れ、体は細く折れそうだった。それでもなお、水蓮の瞳は美しく、白銀に輝き義母を見ている。
水蓮はいつだってこの家ではいない存在で、勝手に房の外に出ることも、飲食をすることも許されなかった。水蓮が口にできるのは、義母と義妹の残した食べ物くらいで、水蓮はいつからか抵抗することをやめた。
初めは義母も優しかった。水蓮はみなしごだった。水蓮がこの家に引き取られたのは水蓮が五歳の時、水蓮の両親は事故で死んだと両親は聞いていた。水蓮の容姿は、土国の人間らしからぬ、白銀の髪に瞳を有する。水蓮を引き取った母親は、水蓮が不便にならないように髪の毛を特別の薬で毎日赤土色に染めてやった。銀色は不吉とされるようになったのは、十三年前――ちょうど水蓮が義母に拾われたころからだった。それは水国が滅びたことに起因する。義母は、町の外れで水蓮を拾った。ひどく衰弱しており身体は泥だらけで汚かった。両親は決して裕福ではなかったが、同じくらいの年頃の子供を持っていたせいか、水蓮を放っておくことができなかった。
拾ってきた水蓮を風呂に入れると、美しい白銀の髪が現れた。見れば、衣も薄汚れているとはいえ絹で誂えてある。帯飾りまでつけており、この子をここで死なせる訳には行かないのでは、と両親は水蓮のことを正式に養子とした。白銀の髪と瞳は水国の人間だということは誰もが知るところだ。つい先日、水国の皇帝が亡くなったと五行の全ての国々に通達が来た。となれば、水の加護が無くなった今、水国が滅びるのは時間の問題だ。五行の国々では、水国の人間の移民を拒否する採決がなされた。『水国の皇帝が五行の国々を滅ぼさんと企てた。よって、水国の人間の移民は受け入れぬように』
咎人だということは水蓮の両親もわかっていたのだが、情にほだされ、養子とした。なにより、二歳歳下の実子が、水蓮に大層よく懐いた。
最初のころは、両親も水蓮をそれは可愛がってくれた。しかし、義母の実子、つまり水蓮の妹の己花に加護が発現して、その生活は一変した。
「己花は特別な子よ。きっと土国――引いては皇帝陛下の妃になるのよ」
「ああ、こんなに加護が強い子はいないと、誰もが言っている」
義母だけではなく、儀父までもが妹ばかりを可愛がり始める。加護とは、五行を操る力だ。それは国を豊かにし、だからこそ特別な扱いを受ける。妹の加護は土だと聞いている。土の加護は、この国では特別な意味を持つ。豊かな土を生み出すことは、王族の象徴とも言われてきた。
両親は妹の加護を誰にも見せない。なのに噂は広まって、この国で水蓮の妹に加護があることを知らない人間はいないくらいだった。
水蓮はそれでも、両親にいつくしまれていた。しかし、段々とそれが覆っていく。最初はささいなことだった。
「水蓮。アナタはもう七歳なのだから、女官として宮中に上がれるように、準備しなさい」
「はい、お母さん」
「お母さん、なんて呼ばないで。奥さまと呼びなさい。己花の事も、己花さまと」
己花とは、妹の名前だ。土の加護があるようにと、名前に土の字を入れるのは、なにもこの家だけではない。
水蓮は今日も井戸から水を汲み、赤切れだらけの手で料理をする。
思えば、家事を押し付けられたころまだよかった。赤切れの痛みも、冬の寒さも、夏の暑さも、我慢できた。しかし次第に母親は水蓮を無視していって、水蓮はとうとう、この家に『いない』ものとして扱われるようになったのだった。
夏に差し掛かり、人のいない時間を見計らって厨に降りた水蓮は、ただ水が欲しかった。しかし、厨の水がめはしっかり蓋をされている。水蓮は、水を求めて両手をこすり合わせた。どうか、私に水をください。すると水蓮の手から、水があふれる。なぜ水が溢れたのか、考えるより先に喉を潤した。
「っは、おいしい」
「なに、アンタ。勝手に井戸から水を汲んできたの?」
「あ、奥さま。違います」
しかし、水を作り出すことができるのは、水国の人間だけだ。義母や義父は、土国の人間だから、水蓮の水の加護をよく思わないだろう。水国は逆賊だ、とは、水蓮も知っている。ただでさえ、義母に髪の毛を毎日染まっているか確認されるくらいだから、この加護も隠し通さねばと水蓮は幼いながら感じ取った。
「こっちに来なさい」
「お、お許しください!」
しかし義母は、加護のことなど知らないから、水蓮が水がめから水を盗んだと言ってきかない。義母の折檻が、水蓮は嫌いだった。この家にはいつからか地下室が作られて、真っ暗なそこに水蓮を閉じ込めるのが、義母はたいそう好きだった。
「出してください、お願いします」
「母上。またアイツを地下に入れたの?」
「己花ごめんね。静かにさせようか?」
「ん、いい。それより、今週は土国の東宮さまのお茶会に呼ばれてるから、あの人に髪結いやって欲しいんだよね」
己花はこの家では神よりも偉い扱いだった。己花には東宮に相応しい加護があり、そしてそれは、土を生み出す力だと聞いている。見たものはいないのだが、土国にとって土は祝福の証だ。
早々に五行の国の皇帝は、自国の加護を妻にと探したいところだが、国中の妙齢の娘と見合いをしたところで、それは見つかるとは限らない。
「己花さま。襦裙はこちらでよろしいですか?」
「うん。帯締めは水色で、帯は錆朱色。髪結いはいちだんと華やかにしてね」
水蓮は妹の引き立て役だ。なにをせずとも綺麗な赤茶の髪と瞳を、何度も羨んだ。赤茶を有するのだから、己花の加護は、きっと土なのだ。水蓮はいつだって誰にも知られないように生きてきたし、これからもこの檻から出られることはない。
土国の東宮の茶会に呼ばれた己花は、傍付きとして水蓮を侍らせた。自分を引き立てるための存在として。豪華な襦裙をまとう己花に対し、水蓮は薄汚れた綿の襦裙姿だ。がりがりに痩せ細り、肌には艶がない。いつも背中を丸めて俯いて、水蓮は自分を隠して生きてきた。特にこの、白銀の瞳はどうやっても隠せないため、水蓮の顔は自然と下を向いてしまう。
「あれが、噂のひめぎみか」
「加護が土でなければ、わたしに欲しかった」
己花が鼻高々に歩いている。しゃり、しゃり、と襦裙の衣擦れの音がしとやかだ。鼻梁がすっと通り、健康的な肌の色。髪の毛がきれいな赤茶を帯びているのも土国には祝福の印だった。水蓮の髪は、薄い白銀を赤土色に染めているだ。特別の薬剤と黒檀を混ぜて、水蓮の加護で作り出した水に溶かすと、七日は染めなくとも赤茶を保つ。水蓮の水は、特別な水だった。水蓮だけではなく、加護によって作り出された木火土金水は、特別な力を持ったものだった。
水蓮は、己花の背中に隠れながら、己花をそろりと上目遣いに見上げた。
己花の髪の毛はふんわりとまとめあげた。簪は上等の玉や金、銀。襦裙は絹で誂えてあり、これらは全て、土の国の東宮からの贈り物だった。正式には決まっていないが、己花が東宮妃になることは、もうほとんど決まったようなものだった。
しゃらしゃらと簪を揺らしながら、己花はお茶会の茶席――東宮の隣にしとやかに座った。誰もが己花に見とれている。それほど今日の己花は美しかった。水蓮は、己花をより美しく仕上げることに関しては、己花も一目置くほどだった。
「李・己花にございます」
水蓮は下がり、己花だけが土国の東宮の茶会にあがった。東宮が己花の肩を抱いた。己花と触れ合うと、己花がその手から祝福を振りまく。今日のお茶会に招かれた王族たちは、己花の加護により作り出された土を、自国に持ち帰り田畑に撒くのだ。
その晴れやかな姿を見遣り、水蓮は来た道を引き返した。