狂った小説家と狂信編集者
垂井が書斎のドアを開けると、日中とは思えない薄暗い室内が広がった。廊下から光が差し込んだ室内に目を凝らし、中にいるはずの姿を探す。すると、いつもは家主の定位置であるデスク前に、千切られ、丸められ、床を埋め尽くすほどに散らばった原稿用紙の中央で蹲っている男を見つけた。
垂井が担当している小説家・小蔦は、スランプに入るとことさら暗い場所に潜りたがった。カーテンを閉め切った部屋はもちろんのこと、クローゼットの中、湯船に持ち込んだ布団の中、ベッドの下に、ほとんど食器が入っていない棚の中。
冷蔵庫の中身を掻き出して入ろうとしたのを力尽くで止めたのは、垂井が担当になって初めてのスランプ期だった。
スランプ期真っただ中である小蔦の周囲には、葛藤を表すように原稿用紙の残骸があり、動き続けている手はインクで黒ずんでいる。開きっぱなしで放置された愛読書にも、構想の跡が乱雑なメモ書きとして残っていた。あとで嘆くだろうな、と垂井は他人事として思う。
ブツブツと口の中で呟いている音が、薄暗い室内に昏々と積もっていた。背中を向けている小蔦の表情は見えないが、顔色の悪さは想像がつく。
「ツタ、飯食えって言っただろ」
自分の世界の殻に籠り切っている小蔦の背中に向けて、垂井は溜息をこぼす。三日前に訪れた際、作り置きしておいた料理がいまだタッパーのまま残されているのは確認済みだった。おそらく睡眠もろくに取っていないのだろう。
小蔦の前にしゃがんで、乱れた髪を掻き上げる。記憶よりもこけた頬に垂井の目が細まった。
もはや文字として読み取れない何かを書いている小蔦の手からボールペンを奪い、暴れる細身を肩に担ぎ上げる。そのまま風呂場に運ぶと、ペンを求める腕を掴んだまま服を脱がし、あらかじめ湯を張ってあった湯船に落とした。
湯船から溢れた湯でスラックスが濡れるが、垂井は気にせずシャワーの温度を手のひらで確認する。振り向くと、ようやく垂井に気づいた視線がナイフのように鋭く突き刺さった。
「目ぇ閉じろ」
構わずシャワーを頭から被せ、湯船に入れたままシャンプーを始める。何日入浴していないのかは不明だが、汗をかきづらい小蔦の髪はそれほど脂っぽくなっていなかった。最初は抵抗されて泡が飛んだが、マッサージするように頭皮を指の腹で揉むと、次第に眠気を思い出して動きが鈍くなっていった。
一度も染められたことがない黒髪が、垂井によってトリートメントまで済ませられていく。その間、小蔦は湯船の縁に顔を伏せ、またブツブツと呟いていた。
リビングのイスで体を縮こませるように膝を抱え込み、爪で座面を引っ掻いている小蔦の横顔は、今にも寝落ちしそうな様子だった。
垂井は手早くたまごのサンドイッチを作り、食べやすいよう、小さく千切って小蔦の口に入れていく。時々ストローを咥えさせると、水分で腹を満たそうとするような勢いで緑茶が減っていった。そのため、たまごサンドの時間を増やして与えると、もそもそと億劫そうに咀嚼する。
「とりあえず締め切りは考えなくていい。ツタは書き出したら一瞬だ。それまでは好きに苦しめ」
無言で咀嚼し続ける小蔦の口元のパンくずを指でつまみ、垂井は言う。
今回は雑誌に短期連載予定の中編に行き詰っており、前編の締め切りまでは一ヶ月を切っている。本来執筆ペースが速く多作な小蔦には、ストックが豊富に蓄えられていた。どうしても書けないならストックから選ぶ方法もあるが、小蔦は納得しないだろうことも理解している。
スランプ期に入ると打ち合わせすら拒絶する小蔦に垂井ができることは、体調管理のサポートと、雑誌の編集長に頭を下げることだ。
残り一口で小蔦がギブアップしたため、垂井は自らの口に放り込んだ。
追加で出したデザートのさくらんぼをペロリと完食した小蔦に、栄養補給用のサプリと、効果が薄い睡眠導入剤を飲ませる。どれも垂井が勝手に用意したものだが、小蔦は与えられるがままに嚥下した。
再び小蔦を抱え上げ、今度は寝室のベッドへと運ぶ。使われた形跡の浅いベッドは、小蔦を潜り込ませるとすぐに馴染んだ。「ペン」と掠れ声が眠たげに言う。けれど、疲労が蓄積していた体は布団の柔らかさに抵抗できず、すぐに少し苦しげな寝息が立ち始める。
軽く掃除を行った後、火元と施錠の確認をして回り、垂井は小蔦宅を出た。担当になってから三ヶ月後に渡された合鍵で施錠し、隅に土埃が固まっている通路を淡々と歩いていく。
階段を降り、住人とすれ違って会釈をしてる最中に電話がかかってきた。短い挨拶を交わしてから現状報告をすると、編集長からは重々しい溜息が返された。
『そうか、スランプか……せめて外で問題を起こさないでもらえると助かるな。この前真城先生が炎上したばかりだから、前みたいな捜索沙汰は……』
「しばらくは先生についています」
『いつもすまないな。ウチの主戦力とは言え、小蔦先生は今時珍しいほど自由奔放な方だ。垂井君がついてからは随分落ち着いたが、その分、君に頼り切りになってしまっていることは私も憂慮している。もしサポートが必要なら遠慮なく言ってほしい』
スマホを手に困り果てた顔をしている編集長の姿が目に浮かび、垂井は「分かりました、ありがとうございます」と簡素に返す。
多少の業務連絡を済ませた後通話を切ると、垂井は少し歩行速度を上げて自宅へと向かった。今夜の内にまとめておきたい企画書を脳内でこねくり回しながら、明日の小蔦の食事も頭の片隅で考える。夕食用のコンビニ弁当を買い忘れていたことに気づいたのは、自宅に入ってからだった。
オーバーサイズのパーカーを羽織った小蔦は、歩道沿いのブロックの上を綱渡りするように歩いている。垂井は傾けばすぐ支えられる位置を歩き、走行音が近づいて来るとあえて振り向き、車に注意するよう促していた。
照りつける日差しでほのかに汗ばむ気温の中、小蔦に連れ出された垂井は宛てもない散歩に付き添っている。
すっかり夏衣に変わった人々が行き交い、正午過ぎの街並みは穏やかに過ぎている。一ヶ月前から工事中の元レストラン、配達された商品を並べている最中のコンビニや、客がおらずがらんとした本屋。脱走した猫を探す手書きの張り紙は、コンビニや電柱に貼り散りばめられている。
数日ぶりの外の眩しさに目を細めた小蔦が、海中を舞うクラゲのような足取りで振り返った。
「スイ、川行きたい」
「飛び込むなよ」
「何で。川って飛び込むためにあるものだろ?」
ブロックから飛び降り、脇道へと逸れた小蔦の足取りは軽い。しかし、ついて行く垂井のしかめっ面は重々しかった。スランプ期の暴走の恐ろしさを、身をもって知っているからだ。
ある時は突然行方をくらまして、二日後にひょっこりと戻り、「山に登ってた」と言い。またある時は、書斎で原稿用紙を燃やしてボヤ騒ぎになった。そう考えれば今回は止められるだけマシか、と思う自分に、垂井はぐったりとした表情を隠さずに溜息をついた。
日差しで小蔦の黒髪がキラキラと透けている。スランプ期以外は活動的であるため、青白いとまではいかない肌も、陽を受けていつもより人間らしく明るい。
道路の先に橋が見えてからやや遅れて、ふと思い出した垂井が口を開く。
「今日、菅原監督から『正体』の映画化の話が、」
「パス」
「お前が好きな監督だろう。あの人なら役者も演技力重視で集められるし、企画書も随分練り込まれていたぞ。確認しなくていいのか」
「ない。あの人じゃない。好き、と、オレの作品に触れていい、は別だ。だってあの人、オレが作った人殺しに感情を与える人だ。冗談じゃない」
カラカラと笑う小蔦の猫のような瞳が、きゅうっと瞳孔を絞る。
「好きに読んだらいい。暴言でも、破くんでも、平等に自由だ。捕まらない程度でフリー素材として消費したらいいさ。でも、触れる人間は好きにさせない。オレの作った世界だ、オレが世界の理で、カミサマだろ?」
軽快に笑う顔は、まるで一枚の表面でしかないように作り物じみていた。小蔦の孕んだ激情は、何よりもその頭脳で生み出した小説が表していた。
美しく、刹那的で享楽的で、しかし目を惹きつけて止まない人間味に溢れた薄皮の裏には、とっぷりと昏い闇が覆い隠されているのだ。
「そうか、分かった」短く返しただけで、垂井は平然と小蔦の三十センチ後ろを歩く。タン、と跳ねるように軽やかに、小蔦は和菓子屋に駆け寄った。生憎休業日であり、肩を落として悲しみに暮れたと思いきや、二つ隣に雑貨屋を見つけてダンスのような足取りで歩き出す。
残念ながら小蔦の気に入る雑貨はなく、たった数分で雑貨屋を出た。くるくると表情が変わる小蔦は、子供っぽい無邪気な溜息をついた。
「あーあ、隕石でも落ちて来ればいいのに。それか宇宙人。現実の世界はどうしてこうもつまらないんだろうな。しかも人間は食べないと生きられないし、あっという間に老いる。ポンコツにも程がある。この世界を作ったカミサマは、きっと人間がノミのように見えてるんだ。一匹なんて微塵の価値しかない」
「現実がつまらないから、人間は創作するんだろう」
「スイも何か作るのか?」
「料理」
「じゃあ、今夜は創作料理でスイの作った世界が見られるな!」
墓穴を掘ったと顔をしかめる垂井に笑って、小蔦はその場でくるりと回り、パーカーの裾が円を描くように舞い上がる。軽快な鼻歌が初夏の爽やかな風に流され、いつも無表情な垂井の気分にさえ日差しを与える。
橋の向こう側に見つけたかき氷ののぼり旗に声を明るめながら、二人は橋を渡り始めた。
川への意識が逸れた小蔦は、橋向こうに見える高めのビルの屋上に目を向けていた。車通りが少ないため、垂井は小蔦がステップを踏みながら少し先へ行くのを、ゆったりと歩きながら眺めていた。スランプ期は荒廃した双眸で口を利かないことがほとんどだが、今日は今までになく陽気な様子だ。
初めてのパターンを分析している間も、視線だけは小蔦から離さずにいた。だからこそ、余計に気づくのが遅れたのだろう。反対側の歩道越しに川を見ていた小蔦が、不意に目を見開いたことに。
「あ、」
垂井は視界の端に入った物を確認する間もなく、とっさに走り出した。
空気を突き飛ばすように後ずさった小蔦は、河川敷から飛んできた野球ボールを避けようとしていた。しかし踵が地面に引っかかり、細身が大きく傾いて、欄干に頭をぶつけそうな体勢のまま倒れていく。
垂井が地面を蹴って小蔦の体を抱きしめた瞬間、周囲にガツンと大きな音が響き渡った。
「すみません、大丈夫ですか!?」橋の下から慌てた声がかけられるも、呻く垂井にキツく抱きしめられていた小蔦には何も見えなかった。数秒経ってからようやく腕の力が抜かれ、垂井の姿が見えた小蔦はみるみると目を瞠る。
小蔦の代わりに欄干へぶつけた額からは、あっという間に襟を染めるほどの血が流れていた。とっさに地面へついた左手も、落ちていたガラスの破片で深く切れている。橋の中央へと跳ねて転がっていくボールは垂井の口元に当たったのか、切れた唇にも血が滲んでいる。
しかし、頭を振って脳の揺れを振り払った垂井は、すぐさま小蔦の両腕を掴んだ。
「ツタ、怪我は! 頭は打ってないか、手は、病院に行くぞ。大丈夫だからな」
「スイ、」
「大丈夫だ、すぐに手当てしてもらおう」
小蔦をそっと抱え上げた垂井は、揺らさないよう、しかし全速力で駆け出す。
後ろ向きに抱えられた小蔦は、あっという間に流れていく景色を見ていた。橋など数秒で渡り終え、先ほど通った雑貨屋の前も一瞬で過ぎ去る。すれ違った人がぎょっと振り向く表情も角を曲がって見えなくなった。
しかし、小蔦が見ているのはそんなものではなかった。
垂井の額から流れた血は小蔦の脇腹を汚し、左手から垂れた血がアスファルトにボタボタと続いている。危険な出血量であることは小蔦にも分かった。しかし、全速力で走り続ける垂井の荒い呼吸音が、力強い腕の温もりが、鼻をつく血の臭いが、頭の中で静電気のような小さな火花を生んでいく。
肩甲骨辺りの服を掴んでいた手に力が籠り、目を瞠ったままの表情にじわりと変化が現れる。執筆時のペン先のように細く鋭く集中した意識の中、血に引きずられた高揚感が鳩尾をざわつかせ、小蔦に閃光のような歓喜をもたらした。
「あはは、スイ、来たぞ! そうだ、オレは痛みが書きたいんだ!」
天を仰ぐ顔は紅潮し、うっとりと細められた瞳が爛々と光を溢れさせている。
腕の中で子供のように暴れる小蔦をしかと抱きしめたまま、垂井は「そうか、ああ、楽しみだ」と相槌を打ち続けた。捻った足首が鈍痛を響かせ、血が目に入って視界が歪んでも、一瞬たりとてスピードは落とさなかった。
世界を抱きしめるように両腕を広げた小蔦の笑い声は、新しい世界が産み落とされるファンファーレのようだった。
本棚が壁面を覆った書斎には、皓々と午後の陽光が溢れていた。
デスクチェアに全身を預けるように座り、目を閉じた小蔦がいる。糸の切れた操り人形のようでありながら、発射を待つ宇宙飛行士のような緊張感と生命力が宿っている。デスクの周辺は走り書きに使われた原稿用紙が散乱しており、まるで小蔦を形成する破片のようだ。
ドアにもたれた垂井は、息を押し殺して特等席で座す。包帯だらけの体の痛みなど、とうに視界にはない。あるのは唯一、世界を構築しかけている小蔦の姿。
開けられた窓から初夏の空気が入り込み、カーテンをさざ波のように動かしている。窓の外から聞こえるはずの街のざわめきは、この部屋には存在しなかった。一瞬の突風で原稿用紙が舞い上がり、照らされた紙の眩さと舞う影のコントラストが、垂井の目を瞬間的に焼きつけた。
緩やかに目を開いていく小蔦の姿に見入っていた垂井の唇が、喘ぐように囁く。
――ああ、触れた、と。
万年筆を手に取った小蔦は、まるで定められた動きのように、淀みなく文章を書き綴っていく。今時珍しく手書きの原稿は、左利きの小蔦によって瞬く間に行を埋めていた。
後々垂井がデータに書き起こす際、書き間違いや修正が一切ない文章に息を呑む。やや右肩上がりの文字は、書類等に記入される小蔦の字癖とはやや異なる。まるで神様が書かせているようだ、と称したのは、小蔦を怖がって退職した前担当者だった。書き綴る時にはもう、小蔦の頭の中で物語が完成しているのだ。
小蔦の担当編集者は、垂井が就任するまで短期間で入れ替わっていた。小蔦は私生活が破滅的で、時期によって感情の起伏も鋭く、編集者にとっては苦労する小説家だった。打ち合わせでも小蔦の脳内を直接浴びせるような圧倒的な情報量を食らい、精神的にやつしてしまう編集者が後を絶たなかった。
二年も担当編集者で居続けられている垂井を奇妙視する先輩、お詫びのように時折昼食を奢ってくる編集長、ヒット作を出し続ける垂井に嫉妬をチラつかせる同僚。垂井にとってはすべて、ただの雑音に過ぎない。
小蔦は背中から眩い光を浴び、一秒の弛みもなく執筆している。書き終えた原稿用紙は右に退けられ、少しずつ積み重ねられ、何枚かは滑って床へ落ちていく。緩やかな風すら止み、邪魔をするものは何もない。
たったそれだけの光景が、この世の何よりも特別だった。それを、室内の影が一番濃い場所から見上げる。
額の包帯に血が滲んでいることにも気づかないほどに、垂井はペンが原稿用紙に走る音を聞いていた。
安っぽい白の風呂イスは替え時なのか、小蔦が身じろぐと軋んだ音を立てた。それでも首に巻かれたタオルがくすぐったいように、小蔦はもぞもぞと肩を動かしている。
風呂の床に敷かれた新聞に、切られた毛先がパラパラと落ちる。垂井は何度も鏡を見て、何度も少し離れた位置からバランスを確認しつつ、小蔦の髪を切っていた。暇を持て余している小蔦は足をパタパタと動かし、視線だけで垂井の顔を見上げた。
「スイ、まだか? 早くコンビニの新商品買いあさりに行きたい。夜空柄のアメが出るんだ。あとかき氷が食べたい。ふわふわした青いの」
「もう少し」
「丸刈りでいいのに」
「ダメだ」
鏡の前まで引いて全体のバランスを見る垂井に、小蔦が唇を尖らせる。小説へのこだわりが強いのはもちろん小蔦だが、小蔦自身へのこだわりが強いのは垂井だった。小説以外のことに感心のない小蔦の身の回りが整っているのは、ひとえに垂井の努力の結晶である。
小蔦は足元に散らばった髪を爪先でいじっていたが、突然パッと顔を上げる。
「オレの宝石って何色だろうな。ほら、髪とか遺骨から宝石作れるだろ? 色って人によって変えられないかな。スイは黒だな! 奈落の底みたいな色」
「動くな、危ない」
「オレは氷色がいいな。冴え冴えとした透明が一番好きだ。日に翳すと空気に溶けるように輝いて、そのまま世界の循環に還るような色がいい」
「ああ、そうだな。美しい宝石になるだろうな」
「オレは奈落の底も美しいと思うぞ。あ、次の話はそういうのにしよう」
スランプ期を脱し、早くも次作に取りかかっている小蔦は歌うように話し続ける。二日前まで執筆に没入し、脱稿後は泥のように眠っていたため痩せている頬も、血色が戻り始めていた。
ようやく散髪を終え、垂井が満足したようにタオルを外す。そのまま服も脱ぎ、全体的に短くなった髪を垂井に洗わせた小蔦は、意気揚々と垂井が洗って干していた服を着て、街へ出た。その斜め後ろを、いつものように垂井がついて行く。
二人で六時間にも及ぶ買い物から帰った時、小蔦は「寒い……」と体を丸めてソファーに倒れ込んだ。メロンクリームソーダの飲み比べがしたいと、五件の喫茶店をハシゴしたせいだろう。そのままソファーで眠り込んだ小蔦に毛布をかけ、垂井は家事を済ませていく。
夕食時。
小蔦が好む、油分が少なく薄味で、水分多めの料理がテーブルに並べられていた。デザートの小玉スイカは半分に切られ、それぞれスプーンで掬いながら食べる。途中で「味変しよ」と小蔦が席を立ち、バニラアイスが追加される。
「明日はアイス禁止だな」
「えっ」
「今日で一週間分食べただろ。メシも温められるもの用意しとくから、ちゃんと温めて食えよ。また風邪ひくぞ」
「えー!」
子供のように唇を尖らせて抗議する小蔦は、小説の話を差し向けられるところりと態度を変えた。
世界の欠片が降り散りばめられるように、小蔦が次作の破片をポロポロと口にする。垂井は余すことなく脳内に書き止め、時には深く切り込んで細部を詰め、物語としての構築を行っていった。やがてミステリー長編の形を成し始めた物語に、書き下ろしで出版するなら連動企画も起こすかと、新たな計画も持ち上がる。
最中に新しい映画化の話が舞い込み、小蔦が「売りたいだけのキャスティングがオレの小説のバーターになると思うな! 却下だ却下!」とスプーンを振り上げて怒りだす一幕はあったものの。久しぶりの外出で疲れていた小蔦は、アイスを食べ終えるなりフラフラとベッドへ潜り込んで、数秒で眠りについた。
ルーティーンの掃除を丁寧に行い、火元や窓の施錠を二度確認して回る。ベッドの中で寝息を立てている小蔦の姿をドアの隙間から眺めると、ようやく垂井の仕事は終わった。
合鍵を使って施錠し、数秒ドアを見つめた後に歩き出した。エレベーター前を通り過ぎ、照明でしっかりと照らされた階段で一階分降りる。ちょうど小蔦の部屋の真下のドア前に立つと、ポケットから取り出した鍵でドアを開けた。
そこが、垂井の住む部屋だった。
編集部に直帰の連絡をし終え、垂井はテーブルにスマホを放り投げる。
リビングにあるのは、テーブルと一脚の椅子。それだけだった。辛うじてカーテンはあるが、テレビも棚も雑貨も一切置かれていない。キッチン内も家電は最低限備えられているものの、食器類はマグカップと平皿と箸が一つずつ。
上と同じ間取りだが、物がほとんどないせいか異なる雰囲気を与えている。小蔦に飲ませているものと同じサプリ等を流し込み、ろくにないゴミをまとめると、数分でシャワーを済ませて寝室へとこもった。
小蔦が書斎として使っている部屋は、垂井の家では寝室になっている。本棚には小蔦の本のみが置かれ、ハードカバーと文庫本が出版順に並んでいる。どれも初版で、保存用は日差しの当たらない扉付きの本棚に収納されていた。
ほう、と恍惚の吐息がこぼされた。
小蔦の小説の狂信者である垂井にとって、あり余る日々だ。
まだ校正段階にある新作も、今日二人で構成を話し合った次作も、いずれここに並べられることになる。
担当の話を受けた際、垂井は真っ先に辞退した。小説が作られる工程を知るために編集者になったのであって、自分の考えが小蔦の小説を侵食するなど、耐え難いことだった。しかし、急遽退社してしまった先輩の交代要員がどうしても見つけられず、半ば強引に垂井へ引き継がされた。
当初、小蔦はまだ知識不足が垣間見える垂井とは、まったく打ち合わせを行わなかった。装丁や帯の一字一字にも強いこだわりがある小蔦が、少しずつ垂井と話し合いを行うようになったのは、担当になってから半年後のこと。初めて大筋に異を唱えた時は、十二時間を超える議論で朝方まで声を枯らして向き合った。
今や、垂井は他社の編集者にも、小蔦のパートナーとして認識されている。映像化の話が来る際は、垂井を懐柔しようとする相手の企みも多い。けれど、そう言った話は小蔦を煩わせることなく一蹴していた。
仕事中はあくまでも編集者に徹しているが、皮の下では歓喜に打ち震えている。小蔦の表情一つ、その手で綴られる文字一つ見逃さず、捨てるメモ書きなどは拾い集めて保管している。小蔦を守って額に残った傷痕は、新しいコレクションになった。
死んでも手放すものか。
本の背表紙を指の腹でなぞり、インクで記された小蔦の名前を見つめる。黒地に氷色がよく映える、美しい本だった。